表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/17

14. 不穏な噂


 朝靄に濡れた中庭は、馬の嘶きと木箱を積み替える音で賑わっていた。

 車輪に油を差す匂い、革袋を締める縄の軋み、行き交う商人たちの低い声――。

 宿場町の一角だけが、遠い異国の市場のように活気を帯びていた。


 荷の山には穀物や乾燥肉、色鮮やかな布に混じって、見慣れぬ薬草や小瓶が並んでいる。

 瓶の中には濃い緑色の液体や、沈殿物の漂う透明な水溶液まであった。

 町人が触れることのない品ばかりで、だからこそ宿主は彼らを泊めているのだろう。


 リディアはためらいなくその輪に入った。

 目は一瞥するだけで品を選び、言葉も迷いがない。


「薬草と保存食。それから……この瓶を」


 指さした木箱には、透明な液体を満たした瓶が規則正しく並んでいた。

 商人は眉をひそめ、慎重な口調で応じる。


「姐さん、こいつは普通の旅人が欲しがるもんじゃねえ。扱いを間違えりゃ命を落とす」


 リディアは即座に小袋を差し出した。


「それでも必要です」


 硬貨の音に押されるように、商人は渋々瓶を包んで渡した。

 その手つきは慎重で、どこか恐る恐るですらあった。

 そのとき、商人はふと声を潜めた。


「……峠を越える前にひとつ忠告を。北の山あいで妙な噂を聞きましてね」


 リディアは動きを止め、無言のまま続きを促す。


「人を写したような“人形”が取引されてるって話です。領主の館に運ばれただとか、途中で崩れ落ちただとか……。ま、旅人の与太話にすぎりゃいいんですがね」

「……人形」


 リディアは低く繰り返した。


「血や肉を混ぜて造る、なんて話まである。俺なら縁起でもなくて近づきませんよ」

 商人は肩をすくめ、笑って誤魔化した。


 リディアは表情を変えずに受け取り、淡々と一礼して背を向けた。

 だが布に包んだ瓶を握る手に、一瞬だけ力がこもった。




 宿の前の石畳は、昨夜の雨をまだ重たく抱えていた。

 水たまりには空の白さが映り、通り過ぎる人影を歪ませている。


 車椅子の車輪が泥を噛み、軋んだ音を立てた。

 リディアは無言で押し進める。荷袋には商隊から受け取った包みも加わり、重みがわずかに増していた。


 広場を抜けるあいだ、人々の視線が幾度となく背に突き刺さった。

 だが、声を掛ける者も、近づく者もいない。

 冷えた沈黙の中で、二人だけが石畳の上を進んでいった。


「……どうやら、見送りの歌は聞けそうにないな」


 トーシュが低く呟く。

 皮肉めいた言葉ではあったが、声音には疲れが滲んでいた。


「歌なら、峠を越えてからでも耳に入ります」


 リディアは淡々と答え、少しだけ歩調を緩めて彼の様子を確かめた。


「思ったより顔色がよろしいですね。予定を早めましょう」


 トーシュは片眉をわずかに動かしたが、反論はせず、帽子の影に表情を沈めた。


 町の門をくぐると、背後のざわめきは遠ざかり、前方には霧に包まれた街道が広がった。

 湿った空気が肺に入り、トーシュは小さく咳をこぼす。


「二日で峠を抜けるつもりです。旦那様の体調が保てば、ですが」


 トーシュは返答せず、車椅子の肘掛けに手を置いた。

 その指先の下、新たに荷に加わった包みの重みが、旅の行方を無言で示しているようだった。


 二人を包む霧は濃く、先の道を隠していた。

 それでも車輪の音だけが確かに前へ進み、町の石畳を離れて峠への道を刻んでいった。




 霧は薄れつつあったが、峠道はなお重たく湿っていた。

 馬車の轍が深く刻まれ、そこに溜まった泥水は冷たい鏡のように空を映している。

 車椅子の車輪は何度も取られ、押すたびに鈍い軋みを響かせた。


 岩肌を伝う雫が細い流れを作り、苔むした石を滑らせながら谷へと落ちていく。

 湿気は肺にまとわりつき、呼吸を重くした。


 トーシュは胸の奥に鈍い痛みを覚え、思わず手を当てた。

 息を吸うたびに鋭い棘のような違和感が走り、浅い咳が喉を突いて洩れる。


「……人を写し取った人形、か」


 かすれた声は吐息に混じり、霧の中で掻き消えた。


「行商人の与太話でしょう」


 リディアは外套の裾を持ち上げ、泥を避けながら答える。


「であればいいがな」


 トーシュは唇に笑みを刻んだが、その笑みはすぐ咳に途切れた。


「血や肉を混ぜて造るなど……生きることに執着しすぎた者の末路に思える」


 その言葉は、ただ噂を評しただけではなかった。

 彼の一族を縛る呪いもまた、同じ根を持っている。

 死を拒み、代を重ね、必死に命を繋ごうとした――その果てに、呪いが芽吹いたのだ。

 生にしがみつけばしがみつくほど、呪いは強く牙を剥く。

 彼にとって「生への執着」という言葉は、常に呪いと並び立つものにほかならなかった。


 リディアは返答を避けた。

 ただ取っ手を握る手に力を込め、車椅子を押し進める。


 沈黙が長く続いた。

 トーシュは咳を収めようと喉を押さえ、息を整えながら瞼を閉じかける。

 彼女の押す力が、先ほどよりもわずかに強まっているのを感じた。

 噂を否定するよりも、なお深く心を動かされている――そう思わせる沈黙だった。


「……黙るとは、肯定と変わらんな」


 しかし返る声はなく、ただ山の冷気が二人を包み込むばかりだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ