14. 不穏な噂
朝靄に濡れた中庭は、馬の嘶きと木箱を積み替える音で賑わっていた。
車輪に油を差す匂い、革袋を締める縄の軋み、行き交う商人たちの低い声――。
宿場町の一角だけが、遠い異国の市場のように活気を帯びていた。
荷の山には穀物や乾燥肉、色鮮やかな布に混じって、見慣れぬ薬草や小瓶が並んでいる。
瓶の中には濃い緑色の液体や、沈殿物の漂う透明な水溶液まであった。
町人が触れることのない品ばかりで、だからこそ宿主は彼らを泊めているのだろう。
リディアはためらいなくその輪に入った。
目は一瞥するだけで品を選び、言葉も迷いがない。
「薬草と保存食。それから……この瓶を」
指さした木箱には、透明な液体を満たした瓶が規則正しく並んでいた。
商人は眉をひそめ、慎重な口調で応じる。
「姐さん、こいつは普通の旅人が欲しがるもんじゃねえ。扱いを間違えりゃ命を落とす」
リディアは即座に小袋を差し出した。
「それでも必要です」
硬貨の音に押されるように、商人は渋々瓶を包んで渡した。
その手つきは慎重で、どこか恐る恐るですらあった。
そのとき、商人はふと声を潜めた。
「……峠を越える前にひとつ忠告を。北の山あいで妙な噂を聞きましてね」
リディアは動きを止め、無言のまま続きを促す。
「人を写したような“人形”が取引されてるって話です。領主の館に運ばれただとか、途中で崩れ落ちただとか……。ま、旅人の与太話にすぎりゃいいんですがね」
「……人形」
リディアは低く繰り返した。
「血や肉を混ぜて造る、なんて話まである。俺なら縁起でもなくて近づきませんよ」
商人は肩をすくめ、笑って誤魔化した。
リディアは表情を変えずに受け取り、淡々と一礼して背を向けた。
だが布に包んだ瓶を握る手に、一瞬だけ力がこもった。
宿の前の石畳は、昨夜の雨をまだ重たく抱えていた。
水たまりには空の白さが映り、通り過ぎる人影を歪ませている。
車椅子の車輪が泥を噛み、軋んだ音を立てた。
リディアは無言で押し進める。荷袋には商隊から受け取った包みも加わり、重みがわずかに増していた。
広場を抜けるあいだ、人々の視線が幾度となく背に突き刺さった。
だが、声を掛ける者も、近づく者もいない。
冷えた沈黙の中で、二人だけが石畳の上を進んでいった。
「……どうやら、見送りの歌は聞けそうにないな」
トーシュが低く呟く。
皮肉めいた言葉ではあったが、声音には疲れが滲んでいた。
「歌なら、峠を越えてからでも耳に入ります」
リディアは淡々と答え、少しだけ歩調を緩めて彼の様子を確かめた。
「思ったより顔色がよろしいですね。予定を早めましょう」
トーシュは片眉をわずかに動かしたが、反論はせず、帽子の影に表情を沈めた。
町の門をくぐると、背後のざわめきは遠ざかり、前方には霧に包まれた街道が広がった。
湿った空気が肺に入り、トーシュは小さく咳をこぼす。
「二日で峠を抜けるつもりです。旦那様の体調が保てば、ですが」
トーシュは返答せず、車椅子の肘掛けに手を置いた。
その指先の下、新たに荷に加わった包みの重みが、旅の行方を無言で示しているようだった。
二人を包む霧は濃く、先の道を隠していた。
それでも車輪の音だけが確かに前へ進み、町の石畳を離れて峠への道を刻んでいった。
霧は薄れつつあったが、峠道はなお重たく湿っていた。
馬車の轍が深く刻まれ、そこに溜まった泥水は冷たい鏡のように空を映している。
車椅子の車輪は何度も取られ、押すたびに鈍い軋みを響かせた。
岩肌を伝う雫が細い流れを作り、苔むした石を滑らせながら谷へと落ちていく。
湿気は肺にまとわりつき、呼吸を重くした。
トーシュは胸の奥に鈍い痛みを覚え、思わず手を当てた。
息を吸うたびに鋭い棘のような違和感が走り、浅い咳が喉を突いて洩れる。
「……人を写し取った人形、か」
かすれた声は吐息に混じり、霧の中で掻き消えた。
「行商人の与太話でしょう」
リディアは外套の裾を持ち上げ、泥を避けながら答える。
「であればいいがな」
トーシュは唇に笑みを刻んだが、その笑みはすぐ咳に途切れた。
「血や肉を混ぜて造るなど……生きることに執着しすぎた者の末路に思える」
その言葉は、ただ噂を評しただけではなかった。
彼の一族を縛る呪いもまた、同じ根を持っている。
死を拒み、代を重ね、必死に命を繋ごうとした――その果てに、呪いが芽吹いたのだ。
生にしがみつけばしがみつくほど、呪いは強く牙を剥く。
彼にとって「生への執着」という言葉は、常に呪いと並び立つものにほかならなかった。
リディアは返答を避けた。
ただ取っ手を握る手に力を込め、車椅子を押し進める。
沈黙が長く続いた。
トーシュは咳を収めようと喉を押さえ、息を整えながら瞼を閉じかける。
彼女の押す力が、先ほどよりもわずかに強まっているのを感じた。
噂を否定するよりも、なお深く心を動かされている――そう思わせる沈黙だった。
「……黙るとは、肯定と変わらんな」
しかし返る声はなく、ただ山の冷気が二人を包み込むばかりだった。




