13. 静けさの中で
森道を抜けて石畳の町並みに入ったとき、二人の姿はすっかり嵐の爪痕を宿していた。
車椅子の車輪は泥で重たく、押すたびにぐしゃりと音を立てる。
黒い外套の裾は水を吸って垂れ下がり、リディアの深緑もところどころ泥に染まっていた。
広場では、行商人が並べた布や果物を並べ替えていたが、二人の姿に気づくと手を止めた。
市場のざわめきが少しずつ細くなり、いくつもの視線がこちらに集まる。
「物乞いのように見られる日が来るとは」
トーシュが唇を歪め、乾いた声を漏らした。
誰も返事はしない。
母親は子を抱き寄せ、若い職人は視線を逸らし、商人は商品に布をかける。
言葉はなくとも、距離を置く仕草が一斉に重なっていく。
「……実に丁重な歓迎だ」
彼は低く付け加えた。
皮肉とも諦めともつかぬ響きが、余計に人々を遠ざけた。
リディアは無言のまま車椅子を押し進める。
石畳に水たまりが広がり、車輪が通るたびに濁った飛沫が跳ねた。
やがて町の中央に宿屋の看板が見えた。
煤けた木壁と濡れた庇が、今朝の冷たい空気の中でひっそりと佇んでいる。
通り過ぎる人々の視線を背に受けながら、リディアは迷わずその戸口へ向かった。
扉を押し開けると、室内の暖かな空気が湿った外套にまとわりつく。
炉の火の前で腰を下ろしていた宿の主人が顔を上げた。
一瞬、言葉を呑み込むように目を見開いたが、すぐに不愛想な表情へと戻った。
「……旅のお方か」
濡れた外套と泥に汚れた車椅子を見やり、主人は渋い声を落とした。
戸口から吹き込む冷気に、炉端の炎が揺らいだ。
濡れた外套の雫が床に滴り、泥に汚れた車輪が軋む音を響かせる。
主人は渋面のまま二人を一瞥し、吐息をもらした。
「……あいにく、空きは少なくてな。今夜は商隊の連中が入っているんだ」
言葉は丁寧に装っていたが、視線は露骨に外套の濡れと車椅子の泥を追っていた。
長居されては困る、そう言いたげだった。
「つまり、厄介者はご遠慮願いたいということか」
トーシュが先に口を開いた。
皮肉に濡れた声は低く、乾いた笑みとともに投げられる。
主人は眉をひそめ、咳払いをして答えを濁した。
「いや、そういうわけでは……ただ、その……衛生の面でな」
場の空気が張り詰める中、リディアは迷うことなく口を挟んだ。
「部屋がひとつあれば結構です。寝床と屋根さえあれば、それで」
主人は言葉を失い、しばし口ごもった。
その視線に押されるように、再び炉の火へと目を逸らす。
「……料金は、前払いで」
「承知しました」
リディアは深緑の外套から小袋を取り出し、濡れた革袋を卓に置いた。
硬貨が乾いた音を立てて転がると、主人の手がすぐにそれを覆い隠した。
彼女はそれ以上言葉を重ねず、車椅子を押して廊下へと進んだ。
後ろで主人の咳払いが残る。
炉の温もりとは裏腹に、背にまとわりつくのは冷えた視線ばかりだった。
廊下の奥に案内された部屋は、粗末な造りだった。
壁は煤け、窓枠からは雨の湿り気が染み込んでいる。
床板も軋み、天井からは夜の嵐で染みた雫が落ちていた。
リディアはためらわず車椅子を押し込み、備え付けの寝台の脇で止める。
二人の外套から滴る水が、板の床に暗い染みを作った。
「随分と上等なおもてなしだな」
「雨露を凌げるだけで十分です」
リディアは淡々と答え、濡れた外套を外して壁際に掛けた。
銀白の髪先から滴る水を指で払いながら、続ける。
「昨夜よりは、静かに休めるでしょう。雷に比べれば、軋む床なんて可愛いものです」
トーシュは短く息を吐き、帽子を膝に置いた。
部屋の中には、二人の呼吸と窓から滴る雫の音だけが静かに満ちていた。
だがその音は、町人たちの冷ややかな眼差しを思い出させるには十分だった。
――まるで疫病人でも運び込まれたかのような視線。
石畳に立ち尽くす人々の顔が、脳裏にちらつく。
リディアは濡れた布を広げて窓辺に掛け、乾かしながら声を落とした。
「人は知らぬものを恐れるものです。理由を問うより、避けるのが早い。……まあ、便利な生き方でもありますけれどね」
トーシュは隻眼を細めたが、何も言わなかった。
ただ視線を逸らし、帽子の羽根に残る雫を指先で払う。
リディアは次いで荷袋を開き、湿った薬草の束を卓に並べて乾かし始める。
「ここで二日休み、体調を整えてから峠に向かうべきでしょう。――ご不満なら、一晩で峠を越えてみますか?」
「勤勉な妻を持つと、休む暇もないらしいな」
トーシュはその背を眺め、短く息を吐いた。
「妻が勤勉なのは、旦那様が手のかかる方だからですよ」
リディアは薬草の束を手に取ったまま、わずかに口元を歪めた。
===
リディアは卓の上に並べていた薬草を整え、乾ききらぬ葉を布で包み直す。
指先の所作は落ち着いていて、旅の疲れや町人の視線を引きずる様子はない。
ただ、銀白の髪先から滴る水が落ちるたび、静けさが重く沈んだ。
トーシュは寝台に横たわり、枕元に置かれた帽子に視線を落とす。
羽根飾りは形を崩したまま乾き始めていた。
指先で触れようとして、結局はそのままにした。
「……眠れそうですか」
薬草を片づけ終えたリディアが、寝台の横に腰を下ろして問う。
「特にやることもない」
彼は短く答え、目を閉じた。
声には皮肉も力もなく、疲労だけが滲んでいる。
しばしの沈黙のあと、リディアが淡々と口を開いた。
「明日は町外れの市で食糧を買い足します。それから……この宿に逗留している商隊から、薬品や道具を少し分けてもらうつもりです。彼らは遠方から来たようですし、普通の市には並ばない品もあるでしょう」
「ずいぶんと熱心だな」
「旅に薬は不可欠です。峠を越えるなら尚更」
声は平板で、あくまで当然のことを告げる調子だった。
「……ふん」
トーシュは小さく鼻を鳴らし、それ以上は言葉を続けなかった。
「二日かけて林を抜け、谷を越えましょう」
リディアは卓の油皿の火を細めながら、事務的に告げる。
「旦那様が強行をご希望なら、一日で越えますが」
「夢の中くらいは安らかにしてもらいたいものだ」
トーシュは疲れを隠すように薄く笑い、深い吐息を洩らした。
「では夢の中でくらい、峠を楽に越えてください」
リディアはわずかに口元を歪めて応じ、油皿の火を絞った。
薄闇が部屋を満たし、窓の外から犬の遠吠えがかすかに響いた。
やがて、トーシュの呼吸は浅いながらも落ち着きを取り戻し、室内には規則的な音だけが残った。
それでもリディアは椅子に腰を掛け、深緑の外套を肩に掛けたまま本を開く。
琥珀の瞳は文字を追いながらも、ときおり寝台の方へと向けられていた。




