12.嵐の夜
夜半、森を裂くような雷鳴が轟いた。
天幕を叩きつける豪雨は止む気配もなく、布はばさばさと音を立てて揺れる。風が隙間を抜け、冷たい飛沫が容赦なく吹き込んできた。
「……っ、冷えるな」
トーシュは車椅子の上で外套を引き寄せるが、濡れた布はすぐに冷えを増していく。
呼吸が荒くなり、冷気と湿り気が呪いを刺激するのか、胸を押さえて呻きが漏れた。発作は必ずしも自発的に訪れるものではない。寒さや疲労、天候の乱れが、容易にその牙を呼び覚ますのだ。
「魔法で嵐を止めることはできません。自然というものは人の手の及ばぬ領域ですから」
リディアは肩で息をしながら、素早く天幕を押さえた。風に煽られぬよう杭を打ち直すその姿は、魔女というより旅人そのものだった。
トーシュの苦しげな呼吸を目にすると、ためらうことなく外套を脱ぎ、彼の肩へと掛ける。濡れた衣服を布で拭き、包帯を少し緩めて蒸れを防ぎ、そして背に寄り添った。冷えを遮るように、自らの体温を分け与えるためだ。
「こういうのは、魔法よりも効果的です。……人間らしい旅でしょう?」
焚き火も灯りもない闇の中、その声だけが鮮明に響いた。轟く雷鳴をも押し退けるように、彼の耳に届く。
その体温は確かに温かく、嵐に掻き消されるはずの安堵を運んでいた。
だが次の瞬間、トーシュの胸が痙攣する。
額に冷や汗が浮かび、握りしめた指先から血の気が失われていく。外套や温もりだけでは抑えきれず、呪いはなおも容赦なく身体を引き裂こうとしていた。
「……っ、は……っ」
荒く途切れる息。歯を食いしばる音。
リディアは反射的に膝をつき、背を支える。冷え切った指先を包むと、その冷たさに自身の心臓までも凍りつくようだった。
呼吸の数を数え、胸の上下を確かめ、汗を拭いながらその意識が闇に沈まぬよう必死に繋ぎとめる。
落ち着け、と心の中で繰り返しながら。
それは呪いを研究する魔女としての冷徹な手つきのはずだった。
けれど、その眼差しはどこか必死すぎて、普段の冷淡さとは似ても似つかなかった。
「……大丈夫」
かすかに零れた声が、雷鳴を押し退けるように耳を打った。
轟く嵐よりも、その声のほうが鮮明に意識に焼きつく。
肺を締め付ける痛みの合間に、彼はただその響きだけを追っていた。
やがて呼吸は少しずつ整い、強張っていた肩が僅かに落ちる。
握りしめていた手の震えも和らぎ、張り詰めた空気が徐々に解けていった。
リディアは深く息を吐いた。
気づけば、自分の指が毛布を食い破るほどに握りしめられていた。
そっと力を解き、湿った布を整えながら視線を落とす。
「……危なかった」
掠れた声が、嵐の音に紛れて零れる。
血を与える必要はなかった。看病だけで嵐を乗り切れたことに安堵すべきなのだろう。
けれど胸の奥では、理屈の通じぬざわめきが未だ鎮まらない。
一方のトーシュは、荒い呼吸を引きずりながらも瞼を開いた。
胸の痛みと同時に去来するのは、屈辱でも哀れみでもない。
――まだ死なずにいる。
その事実に、複雑に揺れる思いと共に、先ほど耳を打った声の余韻だけが残っていた。
===
夜を貫いた雷鳴はようやく遠ざかり、森には静けさが戻っていた。
天幕を打ち据えていた雨も止み、残された雫が枝から滴り落ちる音だけが辺りに響く。
湿った空気は冷たく、吐く息は白い。
濡れた土の匂いと、焦げかけた焚き火の残り香が混じり合っていた。
トーシュはゆっくりと上体を起こした。
まだ胸には鈍い痛みが残っていたが、昨夜のような痙攣は収まっている。
隣には荷袋に凭れたまま目を閉じているリディアの姿があった。衣服はところどころ濡れており、髪の先から雫が滴っている。
声を掛けようとして、彼は口を閉ざした。
言葉にすれば、弱さを晒すだけだと知っていたからだ。
リディアもまた、気配に気づきながら目を開けなかった。
夜を越えた安堵がある一方で、昨夜の自分の振る舞いを思い返せば、余計な言葉は吐けなかった。
やがて、薄曇りの朝日が天幕の隙間から射し込み、湿った布を淡く照らした。
嵐は過ぎ去った。
けれど二人の間に残る沈黙は、雨よりもなお重く長く垂れ込めていた。
リディアはようやく荷袋から身を起こし、隣にいるトーシュの顔を覗き込む。
蒼白さは残っていたが、昨夜のような痙攣は見られない。
「……まだ痛みますか?」
問いかけは小さく、慎重な響きを帯びていた。
トーシュは浅く息をつき、毛布を払いのける。
「……まあ、死なずに済んだなら上出来だろう」
乾いた声はいつもの調子を取り戻していたが、その裏に疲労が滲んでいた。
リディアは返す言葉を探しかけたが、彼が視線を外へ向けたのを見て口を閉じた。
「随分な嵐だったな」
「そうですね。流石の私も凍えました」
リディアの淡々とした返答に、トーシュはかすかに目を細める。
「……魔女でも風邪を引くものなのか?」
「はい。ただ、旦那様よりは頑丈ですけどね」
リディアは荷袋を引き寄せ、濡れた布を広げて乾かしやすいように並べた。
焚き火の跡を足で崩し、土をかけて跡形もなく整える。
手際は落ち着いていたが、その仕草のひとつひとつに、夜を越えた疲労の影が差していた。
「ここで半日休むより、峠を越えて次の宿場を目指した方がよいでしょう。湿気が残れば、また体調が悪化するかもしれません」
濡れた髪を指先で絞りながら、淡々と続ける。
口調は冷静そのもので、余計な感情はどこにも滲まなかった。
トーシュはゆっくりと身体を起こす。
昨夜よりは落ち着いていたが、胸にはまだ鈍い痛みが残り、動かすたびに全身が軋むように重い。
リディアは振り返らず、濡れた布を黙々と畳んでいく。
声色は変わらず冷ややかだが、束ねられた指先にはわずかな力みがあった。
外の森は昨夜の嵐の名残でしっとりと濡れ、雫が枝先から滴り落ちる。
冷気を孕んだ朝の空気を胸いっぱいに吸い込むと、まだ痛む肺が小さく悲鳴を上げた。
トーシュは短く息を吐き、車椅子の肘掛けを握りしめる。
リディアは彼の様子に目をやり、一瞬だけ口を閉ざした。
だがすぐに、いつも通りの声音で告げる。
「支度を整えましょう。森の道は、陽が昇る前のほうが歩きやすい」
朝日が湿った布を黄金色に照らす。
嵐の夜は過ぎ去った。
だが二人の間に残る沈黙は、なおも重く、どこかぎこちないまま旅立ちの刻を告げていた。




