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10. 旅路の幕開け

 

 宿の玄関先。

 荷をまとめ終えたトーシュは、車椅子を日陰に寄せて静かに待っていた。リディアは宿代を払いに中へ入り、今は彼ひとり。

 通りには朝市のざわめきが重なり、焼き立てのパンの香りが漂ってくる。


 その喧噪の中、昨夜の酔っぱらいが足を引きずるように近づいてきた。

 まだ酒が抜けきっていないのか、濁った目でトーシュを見据えると、にやりと口端を歪める。


「おや……旦那様じゃねえか。昨夜はずいぶん偉そうな口をきいてくれたな」


 トーシュは答えず、帽子のつばを指先で整えただけだ。

 隻眼の光は冷え切っており、相手を視界に入れたまま、あえて何も言わない。


「貴族様ってのは楽でいいよな。女に支払いを任せて、こうして日陰で座ってるだけとは……」

「……」


 挑発に沈黙で返すその態度が、かえって男の苛立ちを煽った。

 酔っぱらいはぐっと身を屈め、トーシュの顔を覗き込む。


「なあ、片目の旦那様。お前さん、そんな身体で何ができる? 女に抱えられて生きて、哀れだと思わねえのか」


 トーシュの指が、車椅子の肘掛けを軽く叩いた。

 乾いた音が一度だけ響き、彼は静かに開口する。


「哀れかどうかを決めるのは――酒で頭の濁った貴様ではない」


 低く落とした声は、冷ややかな刃のようだった。

 酔っぱらいの笑みがひきつり、ほんの一瞬、言葉を失う。

 その隙に宿の扉が開き、リディアが戻ってきた。


 銀髪を揺らしながら近づくと、彼女は酔っぱらいに視線を一つだけ向ける。

 そこには怒りも苛立ちもなかった。ただ「旦那様に触れるな」と冷たく告げる眼差しだった。


「……ちっ」


 舌打ちひとつ残して、男は人混みに紛れて消えていった。


「私に話しかけるとは、馬鹿なやつだ」

「……何か話されたのですか?」

「いいや……そういえばここにも居たな」


 車椅子の背後に着いたリディアの気配に、トーシュは何も言わず、帽子のつばをさらに深く下げる。


「金は足りたのか?」

「はい。旦那様のお屋敷から持ち出した路銀もありますし、私も多少は蓄えがありますから」


 彼女の返答に、旅立ちの前の数日間のことをトーシュは想起する。

 色々と準備があるのだと言って、忙しそうにしていたか。

 魔女なのだから路銀の調達くらいわけもなさそうだ。


「行きましょう、旦那様」

「……ああ」



 街の大通りを抜けると、朝の光を浴びた市場が広がっていた。

 布張りの天幕が色とりどりに連なり、革細工の袋や鉄鍋、旅人向けの毛布が積み上げられている。


 リディアは露店を渡り歩き、手際よく道具を選んでいく。


「火打石と小鍋……椀は木製がいいですね。割れにくいですから」


 慣れた様子で銀貨を数枚渡すと、商人はにこやかに頷いて品を差し出した。

 その横で車椅子に凭れたトーシュは、帽子のつばを深く下げながら静かに周囲を見渡していた。


 彼の隻眼には、好奇と警戒の視線が幾度も交錯しているのが映る。

 だが彼は声を上げず、ただ椅子の肘掛けに手を置き静かに打ち鳴らしていた。


「毛布も買っておきましょう。夜はまだ冷えます」


 リディアが戻ってきてそう告げると、トーシュは小さく鼻を鳴らした。


「随分と用意周到だな」

「旅は段取りが九割ですから」


 それ以上の説明はなく、彼女は袋を抱えて再び人混みの中へ消えていった。

 残されたトーシュは、雑踏のざわめきに紛れながら、ふと片眉を上げる。


(魔女でありながら、人の暮らしにここまで馴染んでいる……奇妙な女だ)


 そう思った瞬間、子供が駆け抜け車椅子の車輪にかすめて走り去った。

 トーシュは目を細めたが、怒鳴りつけることはせず、ただ帽子を直しただけだった。


 やがて荷を抱えたリディアが戻り、無造作にそれを積み上げる。


「必要なものはこれで全部……旦那様は何か入用な物はありますか?」


 袋の口を締めながら問いかける。

 トーシュはわずかに顔を上げ、彼女を隻眼で見やった。


「荷物が増えるだけだ」

「そうですね。大きな荷物がここにありますし、これで済ませましょう」


 リディアは肩を竦め、しかしどこか安堵をにじませるように微笑んだ。

 その微笑みに、トーシュは言葉を飲み込み、ただ帽子のつばを整える。


 市場の喧噪がひときわ大きくなり、近くで鳥籠を抱えた商人が子供と値段をめぐって言い争う声が響いた。

 笑いと怒号に紛れて、ほんの一瞬、二人だけが周囲から切り離されたような静けさが訪れる。


「では、街を出ましょう」

「ああ」


 リディアがそう言って車椅子の背に手を添える。


 石畳に車輪の音が響き出す。

 朝市の喧噪は背後へ遠ざかり、やがて街門の高い影が二人の上に落ちてきた。


 トーシュは門の外に広がる街道を眺め、胸の奥にわずかな重みを覚える。

 戻る場所を出たのだという実感――それは安堵でも希望でもなく、ただ一つの事実として彼の中に沈んだ。


「これで本当に、旅の始まりですね」


 リディアの声音はいつも通り淡々としている。

 けれどその横顔には、ほんのかすかな高揚が滲んでいた。


 トーシュは視線を逸らし、言葉を返さずに帽子を深くかぶり直す。


 門を抜けた先、陽光に照らされた街道が遠くへと伸びていた。



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