歩く迷宮
新しい環境、それってわくわくする?
新しい家、新しい学校。皆はきっとわくわくするだろうけど、私には不安しかない。
私は、すぐに道に迷ってしまうから。
午前五時半。先日に始業式を終えたばかりで、授業があるのはこの日が初めて。始業式と同じくド派手に遅刻するわけにはいかない。なんとか起きれたことに安堵して、バターを塗って焼いただけのパンをシンクでかじる。
こんなに早く起きなくても常人なら間に合うはずだけど、私の場合はそうは行かない。会社勤めの父さえも寝静まっている間に朝食を済ませ、身支度を整えて玄関を出る。そして、友達の萩野七音に電話をかける。友達とは言っても、先日の入学式で知り合ったばかりだけど。
呼び出し音が響いている間、不安で仕方がない。一人では玄関から先一歩も出たくない。寂しいとかそういうわけじゃないけれど、一人だと学校まで無事にたどり着けるかどうか……。
呼び出し音が途切れるとともに、電話の向こうから叫び声。
「ごっめーん! まーちゃん、寝とったわ!」
七音が、私の下の名前、真宵に因んで二秒でつけたあだ名で呼ぶ。
「ごめんやけど、先行っといてくれん? 今から用意して、そっちまで行っとったら、こっちも遅刻してまうから」
こうなることは予測していた。だって、七音の家と私の家は見事に学校を挟んで反対側だ。私の家まで迎えに行けば、おおよそ三倍の距離を歩くことになる。正直、そんな無理をお願いしているのに、ひたすらに謝ってくれる七音の優しさが朝から身に沁みる。
覚悟を決めるしかない。今日は一人で学校に行かなければいけない。これは命がけの登校になるぞ。
玄関の門を出て、自分の家の方へと向き直り、感慨に浸る。ちょうど先日の、入学式のときもこうやってたかな。普通の人からしたら、さぞかし滑稽だろう。
「今日も無事に帰れますように。行って来ます」
なんて大げさに祈りを捧げる。そして、振り返って一歩踏み出した通学路。
大丈夫だ。もう高校生だ。中学まで一回も一人で学校に行けたことがないことなんて忘れてしまえ。私は、私は生まれ変わるんだ。お母さんもお父さんも、極度の方向音痴の私のことを考慮して、学校から出来るだけ道が単純な家を選んでくれた。ここから、学校まではほとんど一本道の十数分。咲き始めた辛夷の並木に沿って行けば――
と覚束ない足取りを進める私の前で、辛夷の並木道は、蜃気楼のようゆらりゆらりと踊り始めた。やがて景色が歪んでいって、道は曲がりくねっていく。学校までは、まっすぐ見晴らしのいい坂道を下っていくだけのはずだったのに。
振り返ると、まだ自分の家が見える距離のはずが、そこには水をぶちまけてしまった水彩画のように溶けて崩れた景色が広がっている。青く晴れ上がっていたはずの空は、なぜか茜色に染まっていて逢魔が時のよう。
まただ、またこの世界に来てしまった。
現実とは違うと一目でわかる出鱈目な造形に囲まれたこの世界を、私は、“迷宮”と呼んでいる。
現実とは明かに異なる異次元の世界。それ以上は何も知らない。私にとって馴染みはあるけれど何も知らない世界に、また迷い込んでしまった。
昔から、私が一人でいると必ず道に迷う。それは、私がこの迷宮を呼び寄せるから。気が付いたら、この迷宮に迷い込んでいる。
この呪われた体質のせいで、私はしょっちゅう神隠しに遭うし、修学旅行で一緒になった班は必ず集合時間に遅刻するし。さんざん疫病神呼ばわりされてきた私には、“歩く迷宮”なんて忌み名がつけられたこともあった。
――ってそんな暗い過去を思い出して落ち込んでいる場合じゃない。今日は何が何でも遅刻しないぞと、へこたれず歩みを進める。
幸い、人の通りが全くないわけではない。みんな、首や手足が異様に長くて、西陽に照らされて伸びた影法師がそのまま歩いているような見た目だけど、かろうじて人だろう。
ぐるりと宙返りの軌道を描いて生えている辛夷の木の隣に、私よりもずっと背の高い男の人が立っていた。とりあえず、この人に話しかけてみようか。
「あの、すみません。合馬市立高校って、ここからどう行けばいいですか?」
男は、首を傾げてそのまま梟のように顔を真っ逆さまにした。けれどかぶっていた帽子はなぜか落ちなかった。
「おうましりつ? ああ、あの子がいる高等学校かい」
合馬市という名前に、なにか違和感を感じていたよう。声色は濁っていて、ひどく不快に感じた。それが、どういう理由から来るのか、よく分からないけれど。
「あっちの方だよ。この辺りはあぜ道ばかりだから、少しでも歩けば、よく見えるはずだろう」
などと言って指差す先は、螺旋階段を横倒しにしたみたいに渦を巻いていて、「ああ、あてにならないな」と心の中で呟いた。それに、この辺りはあぜ道なんてどこにもないぞ。迷宮の中も外も辛夷の並木道だ。
それも言ってみたけれど、男は「辛夷の木なんてここら辺にはあまり植えられていない」と。迷宮の住人とは、言葉が交わせても話が噛み合わないことが多い。
「それにしても君はここでは見ない顔をしているなあ。けれど君を見ると懐かしい気持ちになるよ」
「そうですか」
そういう男の人の顔は、自分の顔がどんなものだか忘れてしまったみたいにのっぺらぼうだ。
結局、何にも情報は得られないのか。一応礼を言って頭を下げてから、聞こえないように小さくため息をついた。
早くこの時間が過ぎますように。
そう願う。するとちょうどその声を受け取ってくれたかのように、周りの冗談か悪い夢かのような世界が、煙のように消えてもとの普通の世界に溶けていく。そっと胸をなでおろし、春の匂いが戻った空気を吸い込んだ。
「やった! 今日は、解放が早い」
私がこんな呪いを受けていても、どうにか正気を保っていられるのは、きっとその呪いの効果が一瞬で、白昼夢を見ているのとそうそう変わらないからだと思う。もっと持続時間が長かったりしたら、きっと病院送りにでもなってるだろう。
急いでスマートフォンを取り出して、現在時刻と現在地を確かめる。迷宮から出た後は、時空間が飛んでいたりするから。
時刻は六時五十分過ぎ。幸い、体感時間とのずれはそんなにない。――肝心の現在地の方は、地図の読み込みに時間がかかっていて、なかなか分からない。募るいらいらでアスファルトをつま先で鳴らしていると、背後から声をかけられた。
「おい、お前……」
振り返ると、背の高い少年が私を見下ろしていた。青さをまだ感じさせる声。肌は透き通るように白く、辛夷の花の色に似ている。さらさらと指通りの良さそうな髪は、肩口まで伸びていて、中性的な容姿をしていた。――彼と目が合った瞬間、私の中で時間が止まった。これが俗にいう、一目惚れかもなんて春の陽気に手伝われて浮かれた。
「新しく高校に来た子か?」
「もしかして、合馬市立高校の先輩ですか?」
口ぶりからそう読み取って、よし今日はツイてるぞと上機嫌で話しかけると少年は、「まあ先輩は、先輩だけどな」と低い声で返した。
「私、この春から合馬市立高校に通うことになった入宮真宵といいます」
「俺は――恵比寿正幸」
えびす。その名前がどこか浮世離れした響きのように思えたのは、彼のその儚げな容姿のせいだろうか。彼は、今まで会ったことのある男の人からは感じたことのない気迫をまとっていて、春なのにどこかしっとりとした匂いを放っていた。
合馬市立高校は、ここから西にまっすぐ行けばすぐだ、と彼は言った。学校はうちからだと東の位置にあるからちょうど逆の方向。七音の家の方に近いのかな。やっぱり、空間的には飛んだ位置で元の世界に戻ってきたみたい。
学校までの道のり、彼は一緒に付いては来てくれたけれど、あまり話はできなかった。やっとこさ口から出た「辛夷の花が綺麗ですね」は、「そうか?」と一蹴された。素っ気無いけれど、歩幅を合わせてくれるあたり、優しいんだか冷たいんだか。
校門のところで彼に向かって頭を下げて礼を言った。彼がいなかったら、きっと私は今日も入学式と同じく大遅刻を決めこんでいたことだろう。
「いいっていいって。あんまり畏まってると変な風に見られるぞ」
そう突っぱねるけれど、呪われた私にとって道案内をしてくれた、というのは命の恩人に等しい。深々とお礼をもう一度してから顔を上げる。
思わず目をぱちくり。さっきまでそこにいたはずの彼の姿が忽然と消えていたのだ。代わりに目が合ったのは、こちらを怪訝な顔で睨んでいる七音だった。
「まーちゃん、どないしたん? 独りでしゃべっとったけど、誰かそこにおったんか?」
すらりと高い背、肩口まで伸びた長い髪、中性的で儚げな雰囲気、長袖のシャツは少しくたびれている。――思いつく限りの彼の特徴をあげてみたが、七音には私が一人きりであらぬ方向に向かって話しているように見えていたらしい。
そう、七音には、彼のことが見えていなかったのだ。彼女の顔色が悪くなって、肩が震えている。どうやら、こういう話は苦手なよう。
「もうやめてーや。ここの学校、昔に家ごと焼き討ちに遭って死んだ少年の霊が出るとか言われとるねんから」
右手で払い落とすような仕草と乾いた笑いで誤魔化す。
「幽霊でも見たんとちゃうか?」
彼女の口先からこぼれ出た言葉が私の頭の中で反響した。




