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アップル・ティアー

「かの有名な物理学者、アイザック・ニュートンは、木から落ちる蜜柑を見て万有引力に気が付いたと言われている」


 黒板を叩く固い音が響く。先生は軽いタッチでニュートンと黒板に書くと、黄色いチョークで丸く強調した。


「質量のあるものはほぼ全て、万有引力によって引っ張られている。蜜柑も、犬も、猫も、このチョークも」


 こちらを振り向き、右手に持ったチョークから先生は手を離した。すると、当たり前の様に黄色いチョークは床に跳ね粉が舞う。そして先生は両手を合わせてだが、と続けた。


「この世にあるものの中で、万有引力によって引かれないものがある。それが何だか、分かる人」


「林檎です」


 正解。と先生が、僕の隣を拾ったチョークの先でさした。僕の隣に座る彼女は、開いたノートに視線を戻してペンを走らせる。が、どこか照れ臭そうに肩まで伸びた綺麗な黒の毛先を弄った。


「みんな知っての通り、林檎は真っ赤に熟すと木から空に向かって落ちていく。だから特殊なハウスで育てられている訳だ。そして今日は、実際に林檎を持ってきた」


 先生が教卓の中から赤い球体を取り出す。血の様に赤い林檎だ。先生は、林檎をまるでヨーヨーでもする風に下に軽く投げた。林檎はゆっくりと下へ落ちる度に減速し、地面すれすれの所で止まり、今度は上へと昇って行く。


「林檎が何故、万有引力によって引かれないかは未だ解明されていない。分かっているのは空へ落ちることと、齧ると美味いこと位」


 天井に林檎がぶつかり、軽く跳ねた。先生は教卓によじ登り立つと、赤いそれに手を伸ばし一口齧る。赤い滑らかな面に出来た白い窪み。そこから垂れた透明な汁は、上へ上へと昇っていき天井に落ちた。


「林檎は天井が無ければ、どこまででも落ちていく。目視できる距離より先は分からないが、もしこの空に果てがあったならそこは林檎だらけなんだろうな」


 もしそんなものがあったら、今頃空は真っ赤だけどな。先生は肩を竦めて林檎を教卓の中に突っ込んだ。さあ、空についての話題はこれくらいにしておこう。無暗に触れるものじゃない。そう話を切り替えようとしたとき。


「先生、林檎病はどうなんですか?」


 しん、とクラスが静まり返った。全員がその声の発生源、僕の隣を鋭く見つめる。林檎病。誰だって一度は耳にしたことがある筈だ。原因は、不明。予防方法や治療方法も不明。その謎の多さ、そして症状から林檎病と名付けられた病は、かかると空へ落ちていく。それこそ林檎の様に、だんだん加速し、見えなくなるまで。


「その話はしないほうがいい。何がきっかけでなるかも分かっていないんだ。頬が林檎の様に赤いとなる、だとか、林檎と百回言うとだとか、根も葉もない噂がいくつもあるんだ。空について調べると、とかな」


 兎に角、空については触れない事。高い所に行くのも、なるべくやめる。さて、明日は単元テストをするから、備えて置く様に。先生はそう言うと、教卓から出した林檎を片手に教室を出ていった。

 また、いつもの喧騒が帰ってくる。ただ、僕の隣の彼女だけは静かだった。




「空、一緒に帰ろう」


 夕日が赤い。下校時間、いつも僕に一緒に帰ろうと彼女は誘ってくれる。先ほどは元気がなかったが、今は落ち着いていつも通りの彼女だ。


「そうだね、凛。帰ろう」


 僕の言葉に、彼女は笑顔で返す。僕も合わせて真似てみたが、きっとぎこちないものなのだろう。

 夕方は、どこまでも静かだ。朝程寒さはうるさくない。昼よりも、太陽は眠そうだ。まだライトアップされていない町は、夜よりも静寂に包まれている。

 細く長い通り、僕達はまるで世界で立った二人残されたみたいだった。見渡しても、誰もいない。遠くで沈みかけていた太陽を、烏が一度横切ったきりだ。

 他に話を聞く人はいない。そんな気がしたからか、普段は話を切り出さない僕が口を開いた。


「今日の授業は、大活躍だったね」


「そう? 出しゃばりすぎちゃったかな」


 うつむく彼女に、僕はそんなことはないと思うよと首を振った。


「関心意欲態度が大変素晴らしいって、先生に褒められるだろうさ」


「ならいいんだけどね」


 こちらを見る彼女に、僕はまたぎこちなく笑う。でも、どうしてあんなに興味を持っていたの? 理科、好きだったっけ? 僕がそう聞くと、彼女は少し悩んだ後に空を見上げた。


「私、空が怖いんだ。ああ、君のことじゃなくてね? あの青い空。あんな済ました顔をして、たくさんの人を呑み込んでる。底なし沼だよ、アレは。私のお父さんも、連れていかれちゃった」


「君の……お父さんが?」


「十年前にね。そんな顔しないで、もう私は大丈夫だから」


 そんな顔って、どんな顔だろうか。自分の顔を触ってみても、分かりはしない。彼女は笑って見せた。それが強がりだというのは、僕でも分かった。


「空はさ、優しいね。本当に。……あのさ、一緒に……」


「一緒に?」


「……ううん、何でもない。忘れて」


 その言葉の意味、顔の意味、僕はそれがわからないまま、彼女と手を振り合い背中を向けた。明日、聞けばいいか。そんな風に考えていた僕は、当たり前のように思っていた日常が、簡単に崩れる積み木のようなものだと知る。

 その夜、彼女は空に呑まれた。




 もし、それが僕の隣で起こったことなら必ず手を伸ばしていただろう。宙に浮く彼女の手を掴んで、絶対に離さないと約束できる。でも、手は届かなかった。僕が家で、一人星空を眺めて居た時。彼女は空へと消えた。何もできなかった。

 こんなことなら、昨日のあの話の続きを聞いておけばよかった。後悔しても、今更遅い。

 このことを知ったのは、今日の朝だった。僕の隣が空席で、少しだけ寂しい予感がした。その後教室に入ってきた先生が放った事実が、今もまだ刺さっている。

 気が付けば、屋上にいた。空が見えるからだろうか。少しでも、彼女に近づきたかった。上に広がる、青い底なし沼が憎たらしい。自分の名前が、吐き気がするほど嫌だ。


「こんな所にいたのか。何時間授業をさぼったと思ってるんだ」


 ため息交じりに声が聞こえた。先生だ。でも、今は誰とも話したくない。


「そんなところで待っていたって、あいつはもう帰ってこない」


 靴の音が近付いてくる。何かが喉から込み上げて来たが、上を向いてそれを収めた。


「……お前の気持ちは良く分かる」


 我慢が出来なかった。下手な共感は、人を傷つけると聞いたことがあったが今日まで実感はなかった。でもやっと、共感できた。


「先生に何が分かるんですか? もう少し一緒にいたら、その手を掴んで引き戻せたかもしれない。でも、出来なかった。頭の中で自分が囁くんです。仕方が無いって。それがたまらなく嫌だ。この行き場の無い気持ち、分かる訳が無い!」


「分かるんだよ!」


 先生は、口調こそ丁寧ではないが今まで一度も声を荒げたことはなかった。その先生が、苦しそうに顔を歪めながらも続ける。


「俺はな、大学で空の研究をしていたんだ。二人で。今だから言える。ああ、好きだったさ、彼女が。でも。唐突に、彼女は消えた。雲の向こうに、文字通り手が届かなくなってしまった」


 先生は、上を向き空を見ている。僕よりも高い位置にある先生の表情は分からない。が、懐かしむように先生は話した。


「なあ、おかしいとは思わないか? 空について調べた奴が、空に消える。凛もきっと、そうだったんだろう。違うか?」


 彼女が空について調べていたかは分からない。でも、興味を持っていたのは事実だと思う。僕はゆっくりと頷いた。


「条件は分からない。だが、これはきっと病なんてものじゃない。詳しくは、何が切っ掛けになるか分からないから話せない。でも、お前にもし意思があるのなら」


 先生はこちらを向いた。初めて見る顔だ。その目には、明るい火が灯って居る。決意が。

 ゆっくりと、右手を差し出して先生は言った。


「解き明かそう。それで、知るんだ。これは何なのか。二人はどうなったのか」


 迷う時間は要らない。僕はその手を強く握りしめる。


「そしてもし、生きているのなら。見つけ出して、助け出す」

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