31 お一人様は逃げ遅れる
新年から二カ月経ち、春も間近というのに寒さが緩みそうもない日々が続いている。
ポラリアとサジークが国境線で戦い続けるなか、トリアが解放宣言を発布したという情報が入った。
全てのサジーク兵とサジークの息のかかったものを海の向こうに押し返したらしい。たくさんの国民が死に、女、子どもも武器を手にとって戦い、手に入れた勝利。
国が一つにまとまるために、彼の死は必要悪だったのだろうか?
薬指のトリアの紋章を見る。この指輪さえあれば、国境を超えられると言っていた。何もかも片付いて、ただのお一人様になったならば、ケンとマイをお供に、彼の南の国を訪ねてみよう。緯度的に前世のハワイのようなところだろうか?彼の育った土地を歩き、泉ではなくて暖かい海で、三人でじゃぶじゃぶ泳ぐのだ。きっと彼もそこにいる。
夕刻の祈祷はトリアの戦闘で犠牲になった人々が少しでも安らかに眠れるように、膝をついて一心に祈る。デュラン様の愛した皆さま……デュラン様とともに未来のトリアを良き方向へお導きください……
まだ祈祷の途中、私の朗唱しか聞こえないはずの奥祭壇でこんっとくぐもった耳慣れない音がありえない方角から響いた。前方の祭壇奥?壁?
「巫女」
常にないコリンの緊張をはらむ声を聞き、目を開けて立ち上がる。コリンが私を背中に回し、立てかけてあった細長い棍を構える。
私も念のため、腰に挿した聖剣を確認する。
壁際の低いチェストがズルズルと音を立てて、しかし思ったよりも軽く横に動き、ポッカリと空洞が現れた。私の知らない、おそらく脱出用の隠し通路だ。その奥の暗闇から見知らぬ男三人と……痩せこけて髪を男のように切られ、ボロ布を纏ったミトが引きずられて出てきた!思わず目を見張るが、声を出すのをどうにか踏みとどまる。
コリンがすぐさま首に掛けていた笛をピィィィーーーーッと力強く鳴らす。数秒後、あちこちで応ずる笛の音が鳴り渡る。
「ほう、奥祭壇の祈祷に神兵を入れるとは、少しは神殿も警戒するようになったか」
ひときわ質の良さそうな紺の軍服を纏った、体格のいい肩につく金髪の男が私を見下ろす。この男がリーダー?眉間にシワを寄せて睨み返すと、その黒い瞳はどこかで見たような……
まさか⁉︎
「はじめまして、今代巫女。私はサジークの王、アルスだ。お見知りおきを」
……サジーク王アルス!残虐王アルス!王自ら……やってきた!
そしてルクスの……父親。口の端をニヤリと上げた。
「その節は息子が世話になった」
まさかの諸悪の根源の登場だ。神官が数人駆けつけて、最も中枢とも言える奥祭壇に敵に押入られたのを見て唖然とする。……嘘でしょう?テリー様がいらっしゃらない!まさかそこを狙って大神殿を制圧しにきたの!?表の警備隊は何をしている!
「おっと、随分とみにくい傷だ。どうやら我が妃のイタズラが過ぎたようだね」
私の頰を面白そうに検分し、悪びれもせず、宣う。
「奥祭壇に押しかけるなど神への冒瀆はなはだしい!無礼千万!そして以前の巫女への暴力行為、あわせて謝罪せよ!」
コリンが低い声で言い放つ。
「巫女が寛大な心で矛を収めるのが、一番事態の収拾の近道と思わないか?」
「王妃に非はないと?」
私抜きの会話が続く。一国の王に対してへりくだることもなく対等を保つコリン。
アルスは目を細め、私の代わりに答えるコリンを不快そうに見て、やがて納得したように頷いた。
「なるほど……騎士の誓いもどきか……これでは前回と違って女になびかないのもしょうがない」
カルーア大神官様がせかせかと呼吸を乱して副官とともに現れた。よかった大神官様はいらした。
それにしても……聞き捨てならない言葉が何個も引っかかる。
「女ってミトのことでしょうか?」
ミトは黒ずくめの男の一人に後ろ手で拘束されていた。ミト……そうか……出張ではなかったのね……。
「ふーん。ダンマリかと思えば巫女にも口があったか。怯えて護衛の背中に隠れるだけではなく私と話す気概はあるようだな。ふふ、ミトは女ではない。私の犬だ。奴隷として使いつぶし、ボロボロにして捨てたフリをしていたら、思惑通りデュランが拾った。顔がいいから役目を与えてやったのに、デュランを陥せなかったからこいつには女として男をたらし込む魅力がないんだな。しかし結果的にデュランの懐に入り、神殿に入り、このように手引きが出来たわけだから無駄にはならなかった」
ミトを……男を籠絡させる道具に……デュラン様や、私の側仕えを……コリンと私を引き離して、私の守りを手薄になるように……
……残念ながら、可哀想なミトの手引きによって、テリー様の鉄壁の布陣をしいていた大神殿にすんなり入り込ませたようだ。
歯をぎりっと食いしばる。
「……前回とはどういう意味ですか?」
「前回は前回だ。前回の付き人はすぐ女に溺れて、巫女はいつもここで一人、祈っていたからやりやすかったぞ」
「まさか……」
カルーア様が青くなる。
アルスはちらりとコリンを見やった後、コリンの肩越しに私を見つめ、声を潜めるマネをした。
「お前がそこの神兵の瞳を染めたように、私もあの女の瞳を黒く染めたのだ。国の女は喜んで俺に侍るものばかりで面白みがなく思っていたら……嫌がる女を組み伏せるのは、なかなか楽しめたぞ?」
その愉快そうに光る漆黒の瞳とかっちり視線を合わせた瞬間に……何もかも……理解した。
目の前が真っ暗になる。
私は……恐ろしい間違いをしでかした。
ああ……
後悔が押し寄せる。涙が浮かぶ。バカは私だ。
お姉様はこいつに……奪われたのだ。女の、人間の尊厳を。巫女としての誇りを。
『に・げ・て、に・げ・て、に・げ・て』
……サジーク王から逃げろ、ということ……だったのですね……自分の二の舞にならぬように……
次回は週末更新です。




