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【書籍化】辰巳センセイの文学教室【ネトコン受賞】  作者: 瀬川雅峰
終章 こころの時間_2020年3月編
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6 ままならぬものは

 駅近くにあるカレー屋。


 カレーにナン、チキンかマトンの焼き物にサラダが付いて千円ちょっと。金曜だというのに、心配になるほど空いている。

 隅の4人掛けテーブルに向き合って座った。食事の他にビールを一本と、グラスを二つ。


 すぐに出てきたビールの瓶を、素早く飛田先生が取って二つのグラスに注いでくれる。この後、俺にはキーマ、飛田先生にはバターチキンのカレーセットが出てくる。

 お疲れ様です、と軽くグラスを合わせる。


「あぁ、金曜日のビールは……美味しいですねぇ」

 口のまわりに少し泡を付けて、飛田先生がにんまりする。

 運ばれてきたカレーを食べながら、ビールを一本おかわりした。


「先生も、おかわりどうぞ」

 彼女の手元にグラスを置こうと手を伸ばした。

「……あれ」

 飛田先生が、俺の袖口をじっと見ている。

「どうか、しました?」

「……ちょっと、待ってくださいね」


 飛田先生が、俺の右隣の席に移動し、バッグからソーイングセットを出した。

「右手、そのまま……テーブルの上に。ボタン、落ちちゃいますよ」


 袖口のボタンが外れかかっていた。飛田先生は、ボタンを一度外し、着たままワイシャツに付け直してくれるつもりらしい。針をもった手先を見ながら、飛田先生が、ゆるっ、と首をかしげて言った。


「辰巳先生……最近、元気ないみたいですけど……大丈夫ですか?」


「……そうですか?」


「私にはそう見える、という話ですけど……そう外れているとも思ってません。この一ヶ月、先生、時折遠い目をします。あの子たちと別れるの、寂しいですか?」


 ……そう思ってくれるなら、好都合だ、と思った。


「ええ……まあ……そうなんですかね。もうすぐお別れだと思うと……」


「……ふーん」


 一拍空いた。

指先ではボタンと針をしっかり押さえ――こちらも手は動かせない――飛田先生の目が、こちらをじっと見てきた。少し細められて、優しくイタズラを見咎める先生の目つきになっている。


「……辰巳先生、嘘をつくのあんまり上手じゃないですよね」


「……」


「……当ててみましょうか?文化祭にいらしてた……ミユキさん」


 じっ、と飛田先生の顔を見る。

 それで確信されてしまった。


「……やっぱり、嘘つきですねぇ」

 飛田先生は、視線を袖のボタンに戻して、針仕事の続きをする。


「……かないませんね」


「辰巳先生ウォッチャーとして、それなりに年季入ってますから。それに、ミユキさんを案内したの私ですし……」


「……美幸がどういうつもりなのか、ずっと気になってて。彼女とは……年に一回だけ、顔を合わせる仲です。それ以外の場面で会うことはありません」


 飛田先生は縫ったところに針を当て、くるくると巻き付けて、玉留めを作っていく。しっかり糸玉ができたところで、飛田先生がまたこちらをのぞき込むように見てきた。


「……先生にとって、どんな方なのか、訊いていいですか?ミユキさん、話しぶりは親しそうでしたし……その、そういった関係かもと」


「……それは、ありません。実を言うと、ずっと前にほんの少しの間だけ、そういう関係だったことはあります……でも、今恋人になることは、本当にあり得ない相手で……年に一回会うのも……」


 言いよどむ。

 飛田先生が、小さなハサミで残った糸を切ると、長く余計な糸が、ぱらりと切り落とされた。


「……実は……お墓参りなんです」


「……お墓、参り?」

「ちょっと……忘れてはいけない人の命日で……もう、何年も、その日だけの関係です」


 こちらを覗く飛田先生の瞳は優しい。こういう顔をされると、先輩なのだ、と思わされてしまう。裁縫仕事のために留められた右手は、まだ動かせない。


「……うーん。気になります。訊いちゃいますけど、前の、お付き合いも結婚もしない……というお話に、そのお墓参り……」


「……はい」

――胸に痛み。


 真っ直ぐ、前を向いたまま、彼女を見ないように話した。


「美幸が自分からここに来たなら……それに向き合うしかない。そう思って、連絡を取る決心をしました。でも電話は繋がらなくて……俺は……彼女を恐れています」


 飛田先生の左手が、そっと上から俺の右手に被さった。小さな声でも耳に届く距離。

「……大丈夫です。辰巳先生は、一人じゃありませんから」


 右前にある飛田先生の顔が、息がかかりそうなほどまで近づいた。右手に飛田先生の両手の熱がじんじんと伝わってくる。


「……こうして、少しでも打ち明けてもらえるとやっぱり嬉しいです……先輩として、力になれるところもあるかなって……辰巳先生、全部、伺いますよ」


 飛田先生が、囁いた


 きゅっと、飛田先生の手に力が入った。

 

……きっと飛田先生と人生を歩む人は、とても温かくて、癒やされる場所を手に入れる。それはきっと、幸せだ……そう思うのに……自分の心もまた、ままならない。


「いつも励ましていただいてありがとうございます、それに、ボタン……裁縫は苦手なんで、助かりました……」


 そう礼を言って、飛田先生の手からそっと右手をはずす。


「食後にコーヒーと、デザートにアイスでも食べませんか」


――せめてこれくらい、ご馳走させてください。

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