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【書籍化】辰巳センセイの文学教室【ネトコン受賞】  作者: 瀬川雅峰
四章 山月記の時間_2019年7月編
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8 暑い夏がやってきました

7月31日(水) 午前7時10分


 夏休みに入って10日あまり。

 寝不足の頭を、右手で掴んだつり革にもたれさせる。こんなに早い時間なのに、熱帯夜明けの朝はもう暑くなってきている。


……久しぶりに、あの夢を見た。

 

 決まって寝苦しい夜に見る、何度となく繰り返す夢。ざらついてノイズまみれの景色。俺自身が、古くなりつつある記憶、と無意識で理解しているのだろう。


 笑いかけてくる女性。

 彼女の手を取ろうと、俺は彼女のところに走る。


 ……いつの間にか彼女は消える。俺は一人取り残されて、彼女の名前を叫びながら……水に沈んでいく。

 荒い息を吐いて目を覚ますと、いつも身体は汗だくで、心臓の音がはっきり聞こえるほど高鳴っている。まるで、本当に溺れかけたように。


 夢を見た日はもう眠れない。家に居たくなくて、ずいぶん早い電車に乗ってしまった。部員たちが集まるまでに気持ちを戻さなくては……。


 ◇


午前10時40分 

 今日も創作部は元気に活動中である。


 午前9時頃までにばらばらと部員が登校してきては、それぞれ部誌用の作品制作に取りかかっていく。午前中いっぱいは、各自の作品をそれぞれで作り込む時間。午後からは、被服室で衣装製作と、ステージパフォーマンス組の打ち合わせに練習。組織的な準備の時間だ。


 衣装製作の方は、部員の頭数に余裕があって、割と早くに見通しがつきそうなので……調子に乗りつつある部員達が、ステージに上らない生徒の分まで衣装をどうにかできないか、と企み始めている……コスプレ祭りにするつもりだな、これは。


 というわけで、2年前にようやく冷房のついた第二特別教室には、午前中の間、シャシャシャ、と景気よく鉛筆やペンの音が響いている。中でも、特に素早い動きで、乱れることのないペースで音を出しているのが、橘麻衣だ。


  ◇


 以前、部で絵を描きながら雑談したとき、入部したばかりの1年生が自分の絵を眺めながら、しみじみ言った。

「お絵かきサイトの書き込みにあったんですが、上手くなりたいなら、1万枚描け、ってプロの人が言ってて……まだまだ遠いなぁ、って思っちゃって」


 そのとき、麻衣が言った。

「……一万枚……たったそんだけなのか」

 多くの部員が、え?という顔になり、麻衣に、どういうこと、と聞き返した。


「俺、家で親と折り合い悪くてさ……いつも部屋にこもって絵ばっか描いてたから……たぶん、その倍とか描いちゃってるんだろうなって……」

 仮に小学校の高学年から描き始めた、としても、高校生で1万枚に達しようと思ったら、毎日欠かさず5枚以上描かなくてはならないペースである。その倍……そんなに描けるものなのか、と、思ったが、その後の麻衣の言葉が凄かった。


「部屋にこもっても、結局考え事ばっかりで眠れなくてさ……だから、紙を一束……2、30枚、適当に掴んで、ひたすら描いて。その束を描き潰すくらい、ずっと描いてると、なんか、ぐったり眠れて……いつの間にか、寝てる」


 彼女の言葉には、自慢げな部分がなかった。それしかできなかった、という空気に、後輩たちも踏み込んではいけないものを感じて、会話はそこで終わってしまった。麻衣の異常なほどのスピードはそうやって培われてきた、とわかった。


 ◇


 午前中の、個人創作の時間がまったりと流れていく。

 今日の麻衣は、随分集中している様子で、ずっとキレのいい音を響かせている。

 

 彼女の手が、ぴたっと止まった。ネーム――漫画のコマ、セリフの下書き――が上がったらしい。近くに行って、様子を見る。


「先生、ちょっと過激なんですけど、こんな感じで……いいすかね」

 麻衣は、基本的なデッサンならほとんどアタリを必要としない。プロ並みの練習量の成果だろう。紙の上にできあがりの形を脳内で描いてしまえるので、いきなり実線で、ほぼ歪みのない絵が描ける。漫画のネームといっても、棒人間のようなシンプルなものではなく、ある程度キャラの姿がわかるレベルに描き込んでいる。


 清書することを考えると、二度手間にならないか、と以前言ってみたが

「下手な棒人間より、イメージ湧くんで。煮詰めるのも俺はこっちのが楽ですね」と言われてしまった。


 早速ネームを読んでみる。

 舞台は、文明が滅んだ後の世界……鉄屑、鉄骨、廃墟。ずいぶんハードな背景だ。物語は、くず鉄でできた街に住む少女が、一人の少年と出会う内容だった。

 少年は、会話がどこかぎこちない。顔のデザインを見ると、どうやらアンドロイドか、サイボーグか、という存在らしい。身よりのない少年は街の外の施設……軍事施設らしい……に一人でひっそりと住んでいる。

 前半は、少女とこのメカ少年のほのぼのした交流になっていた。少女を手伝おうとするが、少年は不器用で、役に立てない。そんな彼に優しく接してくれる少女。


 後半、トーンが一変する。

 酸性の雨が降り続く雨季になり、人々は外に出られない。少年は苦にもしないが、少女――普通の人間には有害なのだ。

 そして、街に籠もった人間たちを襲おうと、ならず者の集団が街外れに現れる。街を監視し、少女たちの集落に向けて雨の中を移動してくる集団。


 少年は、ならず者の大集団に一人で立ちはだかる。

 少年は「戦闘用」にモードを切り替える。長い爪、曲がった足……人間の形を捨て、金属の獣に。少年の戦闘力は絶大で、人体を爪で割き、足で蹴り抜き、容赦なく殺していく。

 ついに大集団に包囲され、銃撃を浴び、破壊されていく少年。各部を壊され、片腕を失いながらも少年は集団を殲滅……爪がならず者の首魁を貫いた。


 そして、街へ迫る脅威を一掃した少年は、半壊した獣のまま機能を停止する。


「よかった……この姿なら、きっと僕だって、ばれない」


  ◇


 なぜ、麻衣が「いいですかね」という言い方をしたのかわかった。


 載せていいのか?と思わず考えてしまうほどの暴力描写。これまでもメカやバトルというものを好んでいた麻衣だが、ネームでわかる。凄みが違う。

 後で問題にする人もいるかもしれないが……まあ、そのときは顧問として謝っておこう。生徒が本気で制作したものなら……できるだけ、やり通させてやりたい。

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