76.放置はできません(第二話)
夕食のあと、湯浴みを済ませて自室に戻ったリデラインはノートを見ていた。記憶に残っている小説の展開をまとめた内容をなぞりながら、改めて今後の流れを確認していく。
この年のストウ森の魔物討伐について、何か特別な事案が発生したという記憶はない。それなのに、漠然とした不安は増していくばかりである。
『ストウ森の討伐で――』
その文言が何度も頭に浮かぶ。その先はまったく出てくる気配がないのに、そればかりが。
(討伐に何かある?)
ジャレッドの身に何かが起こるのだろうか。そう思ったけれど、この妙な違和感や不安はジャレッドが討伐に参加すると決める前からあった。討伐そのものに不安要素があると考えていいだろう。
しかし、そう考えてしまうのはなぜなのか。この不安はなんなのか。疑問は解消されない。
ノートを片付けて、リデラインはベッドに入り込んだ。くまのぬいぐるみを抱きしめながら天蓋を眺める。
リデラインが暫くじっとしていると、水差しとコップ、睡眠薬が載ったトレーを持ったベティが部屋に来た。
「お嬢様、お薬を――」
ぱっと体を起こしたリデラインに、ベティは口を閉じてぱちりと目を瞬かせる。リデラインはぬいぐるみを丁寧にベッドに置いて、ベッドから降りた。
「ちょっとお父さまに会ってくるわ」
「え、はい……。ご一緒します」
「大丈夫。ベティはゆっくりしてて」
少しの用事に付き合わせるのは申し訳ないのでそう言って、リデラインは自室を出た。
(えっと)
少し考えて、リデラインはデイヴィッドの私室ではなく客室へと向かった。ヒューバートが泊まるので、夜は兄弟でお酒を酌み交わしているのではないかと考えたためだ。
その予想は的中しており、二人が飲むというお酒を持って客室に向かっている執事と途中で会った。リデラインは自分が届けるとお酒の瓶を受け取って、客室を訪ねた。
「おや、リデライン。ありがとう」
リデラインを迎え入れたデイヴィッドとヒューバートは、すでに軽いおつまみとワインを楽しんでいた。
お礼を告げてリデラインからお酒を受け取り、ヒューバートは誉めるようにリデラインの頭を撫でる。酔っているのかは微妙なところだけれど、やけにご機嫌だ。
「娘っていいねぇ。可愛い」
「バート」
「ん? ああ、ごめん」
デイヴィッドの厳しい声が届いて、ヒューバートはリデラインから手を離す。
「リデライン、こちらに来なさい」
「はい」
父の要望に応えて、リデラインはデイヴィッドの元に移動した。隣に座るよう促されたのでそうすると、優しく頭を撫でられる。その様子を見ていたヒューバートはやれやれと言いたそうな表情を浮かべた。
「それで、リデラインは私たちに何か用かな」
瓶の栓を抜きながら、ヒューバートはそう訊いてきた。この時間にわざわざリデラインが一人で足を運んだのだから、話があると察したようだ。
「ストウ森の討伐の件なんですけど」
「うん」
「例年と異なる点とか、そういうのはありませんか?」
不安からくるリデラインの僅かな緊張が伝わったのだろう。
「ジャレッドが参加するから心配?」
ヒューバートは瓶を傾けてグラスにお酒を注ぐ。雰囲気は柔らかく、表情も優しく、リデラインを落ち着かせるような口調だった。
「それもあります」
「兄妹仲がよさそうで何よりだねぇ」
グラスを手にしたヒューバートは一口お酒を飲んだ。カラン、と氷が鳴る。
「森の様子は例年どおりだって話だよ。魔物の増加傾向もおかしな点は見られないし、他にも、特に懸念すべき事項は今のところないね」
「そうですか……」
やはり思い過ごしだろうか。悪夢ばかり見るし、王太子に会ってしまったことで心が不安で埋め尽くされていたから、思考が嫌な方向にばかり向いているのかもしれないという可能性は否定できない。
ただ、やはり不安は払拭しきれない。
「ジャレッドの参加が確定したら、おそらく討伐ではローレンスの班に入れられるだろう。討伐班で一番安全だ、安心しなさい」
「……はい」
ジャレッドの安全がとにかく気にかかっていると、二人は見ているようだ。それだけではないことを説明するのは難しく、リデラインはそっと視線を落とした。
『更新されてる』
瑠璃は病室のベッドの上でスマホを眺めていた。小説投稿サイトが開かれている。
味気ない病院生活で数少ない楽しみの一つであるWEB小説。最近ハマっている『王太子殿下と運命の恋』の最新話が更新されており、瑠璃は早速その作品を開いた。
最新話は、ジャレッドが主人公にある話をする場面だった。
『ストウ森の討伐で――らしい。そいつも周りもそのことに気づかず、――。それで一気に――して、――』
瑠璃は画面をスクロールして読み進めていく。
『聞いたことがあります。――が――で、――』
『ああ。――、特に――が弱い子供や高齢者の割合が高くて――』
リデラインははっと目を開けた。暗いけれど天蓋が視界に映る。
デイヴィッドとヒューバートと話したあと、リデラインは部屋に戻って眠った。部屋の中も窓の外も暗いということは、まだ夜中なのだろう。
(……夢)
今のは夢だった。瑠璃だった頃の記憶。
それも、知らなかった場面。
『――伯爵領では死者が多く出た。祖父母も亡くなったんだ』
ジャレッドのそのセリフで、当時の最新話は終わっていた。
祖父母が、亡くなってしまう。
それだけではない。多くの死者が出たとあった。それは祖父母が暮らしている伯爵領のことだ。
そんな記憶、今の今までなかったのに。
祖父母は高齢ではあるけれど、この国の平均寿命を考えるとまだすぐにどうこうなる年齢ではない。肝心なところはモヤのようになっていてすべてを思い出せたわけではなくとも、祖父母の死は今年のストウ森の魔物討伐がきっかけであることは確実だと、それだけはわかる。
(どうして)
リデラインは唇を噛んだ。
瑠璃は小説やコミカライズ、既出の内容をほぼ把握していた。しかし『リデラインに残っている瑠璃の記憶』は万全ではない。なぜそこに思い至らなかったのか。
一度死んでいるのだから、すべてがきちんと引き継がれているとは限らないではないか。
きっと小説では書かれていなかった設定もある。リデラインが変わったことで、この世界の出来事も本来の道から逸れている。けれど、それだけではない。
前世を思い出してから、祖父母には会った。その時は何も思い出さなかったし、引っかかりもなかった。これから何かがあるとか、二人が亡くなってしまうなんて予感は一切なかったのである。
それが今日、オスニエルの言葉で初めて予感があった。奥底に眠っていた記憶による予感だったのだろう。
覚えていなければおかしいような出来事であっても、記憶から抜け落ちてしまっている。それもおそらく、時期が近づかないと多少の違和感すらないというのが恐ろしい。
前世の記憶はそもそも、八歳になって突然思い出したこと。最初からリデラインが前世を覚えていなかったという事実こそが、記憶の欠陥を証明している。もっと早くそのことに気づけたはずだ。
記憶が不完全であることが判明した今、小説の展開を知っているというアドバンテージが殊更意味をなさないことになった。
(それでも……覚えてることはあるわけだから、そこを活かさないと)
今回のように、何かがきっかけで事前に思い出せることもあるかもしれない。襲い掛かる不幸を回避できる時間はきっとあるはずだ。
(なんとかしないと)
ぎゅっと、リデラインはシーツを握りしめた。




