42.兄離れはできません(第九話)
翌日の朝食後、ローレンスが王都に向けて出発するので、リデラインたちは見送りのために屋敷の外にいた。使用人や騎士たちが馬車に荷物を積み、最後の確認を行っている。
ジャレッドの隣でしょぼんとして立っているリデラインと目線を合わせたローレンスは、リデラインの頭を優しく撫でた。慈愛に満ちた銀色の瞳に見つめられて、リデラインはドレスのスカートを握る。
ローレンスが次に帰ってくるのは夏季休暇だ。それまで約三ヶ月。大好きな推しであり兄でもあるローレンスと離れ離れになる期間がそれほどと考えると、とてもとても長い。
記憶が戻って仲直りしてから、可能な限りローレンスはリデラインのそばにいてくれた。ジャレッドとも和解して、家族が昔のような関係性に戻れたというのに、早々にこれである。
「元気にしているんだよ、リデル。何かあれば必ず周りに相談して、抱え込まないようにね」
「はい」
「手紙送るから、返事待ってるね。ジャレッドは絶対に返してくれないだろうから、ジャレッドの近況も添えてくれると嬉しい」
「ふふ。はい、わかりました」
思わず笑うと、ローレンスも笑みを深める。隣でジャレッドがむすっとしていることは、見て確認せずとも察することができた。
「リデルが悲しむようなことがあれば、授業なんて放り出して飛んでくるから」
「それはきんきゅうじたい以外はだめだと思います」
「そんなこと言うんだ、寂しいな。でも偉いね」
ローレンスはリデラインの額にキスをする。リデラインが息を呑むと、ローレンスはふわりと笑った。
「僕のお姫様。いい子にしているんだよ?」
「はい……」
リデラインが真っ赤な顔で返事をすると、ローレンスは柔らかく目を細めたあと、ジャレッドに視線をやった。
「ジャレッド、ハグして別れを惜しんでくれないの?」
「さっさと出発しろよ」
「辛辣だなぁ」
そう言いながらも、ローレンスはあまり気にしていないのか楽しそうだ。こうして会話ができるだけでも嬉しいのだろう。ジャレッドの軽口は基本的に照れかくしなので、ダメージはゼロらしい。
「試験、受けにくるだろう?」
「……そのつもりだ」
昨夜、三人で眠る前に、ローレンスからジャレッドに魔法使い試験を受けるべきだという話があった。魔法の師であるモーガンから、今のジャレッドであれば合格できるだろうという話があったらしい。
実は、少し前には合格できるだけの実力があったそうだ。ただ、ジャレッドは多少むらっ気があるので、本当に合格できるかどうか様子を見ていたとのこと。一度受けて落ちてしまえば親戚がうるさいしジャレッドもショックを受けてしまうので、判断が慎重になりすぎてしまったのだという。
だから、魔力が増えたからとか氷の魔法が使えるようになったからとか、それが理由でようやく受験できるまでの実力に到達したわけでは決してないと言っていた。元々それだけの力が備わっていたのだと。
準三級の日程は少し遠く、一番日程が近い四級の試験は再来月の初めだ。それを受ける予定で、試験までジャレッドはこちらで試験対策に力を入れることになる。
四級試験だと一番近い試験会場は王都の魔法協会なので、ジャレッドは来月末には王都に行くのだ。
「受験の申請は僕が済ませておくよ。しっかり訓練に励むんだよ。気は緩めないようにね」
「ああ」
魔法使いとして先輩となるローレンスからのアドバイスはしっかり聞いたジャレッドの頭も、ローレンスは優しく撫でた。珍しくその手を払いのける気配もなく、ジャレッドは大人しく撫でられている。
ここぞとばかりにローレンスがわしゃわしゃ撫でるとさすがに拒絶して、ジャレッドは「もういいだろっ」と髪を直す。
リデラインもそれを手伝っていると、ローレンスは両親と軽い挨拶をし始めた。すでに必要な話は終えているのか、シンプルに「気をつけるんだぞ」「はい」という会話だけだった。
ローレンスが出発して見送りが終わり、リデラインとジャレッドは魔法使い試験の対策で調べものをするために図書室にいた。
しかし、真面目に魔法の参考書を選んでいるジャレッドに対して、時間があるからと付き合っているだけのリデラインはソファーの肘掛けに上体を預け、ぐだーっとなっている。鬱々とした空気が漂っており、本をいくつか選び終えて戻ってきたジャレッドは呆れたような表情になっていた。
「お兄さまがいない生活……ごうもん……」
「そこまで言うか?」
テーブルに本を置いたジャレッドに、リデラインは唇を尖らせる。
「ジャレッドお兄さまは寂しくないんですか? くまさん貸してあげますよ?」
リデラインは例のくまのぬいぐるみを話題に出した。眠る時は必ずそばに置いている。
「お兄さま本人に甘えるのははずかしくて無理でも、ぬいぐるみなら大丈夫じゃないですか?」
「なんでぬいぐるみに甘えなきゃいけないんだよ」
ソファーに座りつつため息を吐いたジャレッドは、ローレンスがいなくても本当に平気そうだ。
サービス精神旺盛なローレンスのおかげで供給過多な生活を送っていたのに、突然それがなくなったのである。リデラインには一日でもつらい。三ヶ月も耐えられる気がしなかった。
「とりあえず、俺じゃ不満なのはよくわかった」
どこか拗ねたような口振りで呟いたジャレッドにリデラインは瞬きをしたあと、きりっと大真面目な顔になる。
「そういうことじゃないです。ローレンスお兄さまでしか得られない栄養と、ジャレッドお兄さまでしか得られない栄養があるんです。まったくの別物です」
「栄養……」
その言い方はどうなんだ、とでも言いたげな眼差しが向けられる。
気にせずまただらーんとなったリデラインに、ジャレッドは「そういや」と頬杖をついて訊ねた。
「リデラインはなんで俺たちに敬語になったんだ? 昔は違ったのに」
ぴくりと反応したリデラインは上体を起こす。
確かに、最初は兄二人には敬語ではなかった。敬語を使い始めたのはマナー教育が本格的に始まった六歳ぐらいの頃だ。
「ヨランダに、お兄さまたちは目上の人だから敬意を払わないといけないと言われたので」
ジャレッドは瞠目した。それから過去を思い出すように視線を落とす。
「俺もよく注意されてたな、それ」
それは初耳の情報だったため、リデラインは僅かに目を見開く。
「ヨランダはたぶん、本心では俺のことも気に入らなかったんだと思う。お祖父様の血は継いでいても、フロストの特徴を何一つ持ってなかったからな」
「……お兄さま」
己の理想のとおりであることを公爵家に求めたヨランダ。正真正銘フロストの人間であるジャレッドでさえも、彼女はフロストに相応しくないと勝手に決めつけていたのだろうか。
小説ではリデラインに対する不満や嘲りばかりが語られていた。けれど、それだけではなかった可能性は十分にある。小説はあくまで小説。この世界のすべての説明書ではないと、リデラインは実感している。
「あんな奴の言うことは大体間違いだから全部忘れろ。そのほうがいい」
本を開きながらそう告げたジャレッドに、リデラインは「はい」と笑った。




