56.予感
刻印の神秘への探究は、クインにとって最早娯楽といっていい。小さな頃から祖父コヒンの薫陶を受け、同時に沢山の神話に触れた。
その力で人々を助ける英雄、知恵を結晶させた探究者、そして慈愛の心を以って癒しを与えた聖女。少女の頃から多くの物語を読み漁り、難解な文献に手を伸ばすまで時間は掛からなかった。
全ては神話でありながら、同時に真実の欠片を示している。
そして出会う事など夢物語だった神秘が今、近くいるのだ。
黒神の聖女、カズキ。
封印されているとはいえ、5階位の刻印が刻まれた唯一人の使徒。7つもの刻印を全身に散りばめられ、この世界に遣わされた。
何度見ても、どれだけ見慣れた筈でも、ふと目を奪われてしまう。漆黒の髪、独特の色合いを持つ素肌、ボタニ湖を想起させる翡翠色の瞳、少女らしい淑やかな肢体。
それらが、見事に調和した美貌。
「それだけでも、十分驚いていたのに……」
先程まで湯浴みを理由にして、そのカズキの身体を清め、その後それぞれの刻印を調べたのだ。不思議な事に、カズキは協力的で困る事は無かった。
元々書き溜めていた物に、追記という形で補足していく。驚いたのは一つでは無く、複数あった。
「陛下に、殿下にもお知らせしなければ……先にお祖父様にも見て貰おう」
動揺しつつ何とか纏めながら独り言ちたクインは歩き出す。何処かその歩みは軽やかだった。
「……階位が変化するとは、驚かされてばかりじゃな……」
何時もと同じコヒンが、何時もと同じ様に腰掛けている。体に不釣り合いなテーブルには数々の文献や資料が並び、最早それ以上何も置けないだろう。人によっては顔を顰めるかもしれないが、クインには見慣れた光景だ。それどころか、寧ろ羨ましい気持ちすらあるかも知れない。
今は手を止めて、クインが持ち込んだ紙の束を眺めている。
「簡単に信じるのですね?」
実際に見たクインですら幻を見た気持ちになるのだ。軽く目で追っただけのコヒンが、疑う事すら無いのは不思議だった。
「うむ。あの後も色々と調べたからじゃな……特にヤトに関して」
「黒神のヤトを?」
「中々面白い神じゃよ、ヤトは。司る加護に対し、その在り様は白神の如くじゃ。最近は俄然黒神への興味が尽きないのう」
「ヤトが白神の如く……ですか?」
クインには俄かに信じられない話だ。カズキの刻印はとても加護とは言い難い物だから。
「人の心では理解が難しい……人を痛め付ける様な加護も多いし、だからこそ白神程に皆が身近に思ってないからのう。ワシも最近までそうじゃった」
「確かにカズキの変化には一定の意味があると思います。それでも……余りに過酷ではありませんか? たった一人、しかも女の子に」
コヒンはうむうむと頷きながら、出来過ぎな孫へ言葉を返した。
「それじゃよ、正に過酷で残酷な仕打ち。それこそが人の限界であり、愛すべき弱さでもある。神々は時に人の理解を超えた、想像も付かない事を行うものじゃ」
「……どういう事でしょう?」
「ヤトが関わったと思われる加護はそう多くは無い。大半が表にさえ出ていない可能性も高いがの。面白いのは、例えばこれじゃな」
クインに見せた文献はそう長くはない。それでも通常は読み込むのに一定の時間を要するだろう。だがクインには関係ない。コヒンがクインの資料を読み直した頃には、顔を上げていた。
「……復讐心に駆られた男が暴走し、相手を殺そうとする。その相手を庇った女性は男の妹で、真実の愛に気付いた彼は改心した。最後は妹の愛を祝福する……ありきたりな物語と思えますが?」
「その男には憎悪を糧とする刻印が刻まれていたんじゃ。暴走したが、妹の慈愛により生まれ変わる。その男の名はモルス、聞いた事があるじゃろう?」
「英雄モルスですか? 救国の英雄として描かれたあの?」
「うむ、そのモルスじゃな。妹には慈愛の刻印があったとされる。運命を振り回し、結果へと導く……ヤトが好んで行う加護じゃよ」
「しかし……間違って相手を殺めたり、憎悪に呑まれたら結果は変わってしまうでしょう。寧ろ悪化する可能性も」
コヒンは我が意を得たりと、膝を叩く。パシンと見事に響いた音は部屋に反響した。
「其処が人の限界じゃ。神々はあくまでも機会を与えるのみ。結果に繋がる可能性を加護として授けるが、行うのは人。その加護は、慈愛も憎悪も変わりはしない。そう考えると違った側面が見えて来るのではないか」
「……確かに理解はしますが……」
運命に振り回される人は堪ったものではないだろう。
「力や治癒、親愛や火の加護などが良く知られているのぅ。しかし世界を動かした出来事の裏には、殆ど黒神が関わっていると言っていい。特にヤトはそれが顕著だったのじゃよ。目立たない上、偶然の産物にしか見えないのが難点じゃ」
「犠牲になり、人生を悲観する人も多いでしょう。私には納得出来ません」
カズキを見れば、尚のことだ。
「それが愛すべき人の弱さじゃな。我々には推し量れない何かがあるのじゃろうて」
「ではカズキの刻印は……?」
「以前は呪いか何かで、生贄を求めていると考えたが……言語不覚の階位は、寧ろ聖女の力を高める効果があると考えて良いじゃろう。ヤトの加護……その力が失われた時、本当の聖女が降臨するのかもしれん。ヤトは負荷をかけて、世界を救済させる気……あくまで憶測じゃがな」
「聖女の封印は、ヤトの加護が弱まれば解けていく……?」
「人には余る力じゃ。慣らす時間を稼ぐ為、聖女を守っている……ヤトなりのやり方でな」
多分じゃが……コヒンはそう締めくくった。
到底納得など出来ない……人の感情や想いを弄んでいるとも感じる。カズキを守るどころか、苦しめてばかりではないか……クインはやはりヤトが嫌いだった。しかし、何処か理解してしまう自分がいる。
事実、クインが驚いた最大の変化は聖女の封印だ。憎しみの連鎖が消えかかっているのにも驚いたが、何より封印の弱化こそが全てだろう。
聖女の刻印が完全に解放されたなら、世界は救済されるのだろうか?
「お祖父様、封印を解く方法には思い当たりますか?」
「それはお前も気付いているじゃろう? やはり偉大なるリンディアの血よ、アスト殿下が以前示された通り」
ヤトの加護を振り切り、狂わされた刻印すらも元に戻す……アストは言った、決して生贄などでは無いと。
そう……真の慈愛に目覚める、その時こそが……
黒神に関する幾つかの資料を受け取って、クインはコヒンの部屋から立ち去ろうとしていた。救済への道が開けたかもしれない……それを知らせなければ。
片手には資料、もう片方には幾つかの物語。
物語はクインの完全な趣味で、刻印とは全く関係ないがコヒンは何も言わなかった。ああ見えて意外と夢見がちな可愛らしい側面を持つ孫を、微笑ましく思うくらいだ。
コヒンはふと思い出し、クインを呼び止めた。
「クイン」
「は、はい? 少し参考にするだけで、直ぐに返却しますから」
持ち出した物語を指摘されたと思ったのか、クインは珍しく吃る。
「それを読みたいなら、ついでにこれも持っていきなさい。呼び止めたのは他の事じゃ」
墓穴を掘ったカタチになったクインは僅かに赤くなり、それでも追加を受け取る。
「なんでしょう?」
「殿下から頼まれた分析……まあ、確認だな。軍務官の……なんだったか……」
「ユーニードさ……ユーニード、元軍務長ですか?」
「おお、そいつじゃ。奴の指令書や、配置図などで違和感が有れば報せてくれと……これじゃな」
ユーニードが主戦派の首魁であった事は、クインにとり驚く事では無かった。しかし、ユーニードが関わっていた軍務は多岐に渡り、調査が間に合っていない。アスト達は手の空いている者へ、資料の違和感や間違いを指摘して貰えるよう頼んでいた。
「兵站に関するものですか? 私も余り詳しくはないですが……」
兵站……配給や整備、騎士の配分や駐屯地に関するまで含まれるが、流石のクインも専門外だった。これはテルチブラーノに対する数値の様だ。
「まあ、大した事では無いがな。知っての通り、リンスフィア以外の駐屯地には騎士が配置されている。定期的に交代し、装備類も例外ではない。ここを見てくれ」
コヒンが指し示した数値は、軍備品に関する配分表だ。例年と変わらず、特に違和感はない。寧ろユーニードの苦心すら見える程だ。
「お祖父様? おかしなところは別に……」
「だから大した事ではないと言ったじゃろう。此方がリンスフィアへの入庫と出庫量の推移じゃな。ここと、ここ、ここもじゃな。僅かに誤差があるじゃろう? 全ては許容範囲じゃし、現場では良くある追加だろうが、まあ指摘しろと言われたからな」
殿下に渡してくれ、そう頼まれたクインの荷物はさらに増えた。
「よくある事ですか?」
「現場なんてそんなもんじゃろ。配給量通りなどいかないからな……割れたり、切れたり、不測の事態など日常茶飯事じゃ」
「分かりました。殿下へお伝えします」
「助かったわい。階段を上がるのは年寄りに堪えるからな」
腰をトントンと叩く仕草に、クインは苦笑した。
「お祖父様、また来ますね」
「ああ、いつでも来るがいい。待っとるよ」
聖女の封印を解く鍵を見つけたクインは、少しだけ興奮していた。早く伝えたいと気が早るが、ふと気付く。
立ち止まり、暫し考えを深めた。
「……大した事ではない、普通の事だと」
思い立ったクインは自室に戻り、コヒンから預かった兵站に関する表に目を通していく。
「乾草……馬の餌、ククの葉は痛み止め。早駆けの馬具、そして……燃える水……」
燃える水は保管期限があり、効果が減少する。だから使用予定前に調合するのが一般的と言われるのだ。勿論例外はあるし、絶えず一定量は常備しているだろう。表からは異常を感じる程ではない。
「特におかしくはないけれど……」
この数値はあくまでテルチブラーノ単体だ。僅かな誤差など、誰も気にしてはいない。実際良くある事らしく、不自然な点も見つからない。
「でも……相手は……あの、ユーニード……」
彼が奪還を願い出たマリギは? 普通に考えれば、優位に増加している筈。奪還するとなれば、兵力も集中しなければならない。しかし、実際はマリギに関するものは重点的に調べているだろう。異常が見つかったなど聞いていない。
「殿下に伺ってみましょう。只の気のせいなら、それでいい……」
クインは自室を出て、王の間に向かった。
「殿下、もう一度お願い出来ますか?」
「マリギの資料には、不自然な点は一つも無い。これはケーヒルも同じ意見だ。そうだな、ケーヒル」
「はっ……悔しいですが、奴の仕事は見事なものです。最適で最低限の物量を割り出していますな。無駄一つなく、計算されている」
「クイン?」
カーディルは、クインの思案顔に不安がよぎった。クインは軍務には疎いが、ユーニードに匹敵する頭脳を持つのは周知の事実だ。
「北部を警戒する部隊への補給、それに不自然な点は無いと……」
「ああ、残念ながらマリギに駐屯地はもう無い。付近の村々から遠征し、日々警戒にあたっている。しかし軍務長側から、便宜を計られた形跡は全くないな」
「皆様に伺いたいのですが、この内容から何を思い浮かべますか?」
クインが見せたのは、コヒンが指摘した誤差がある補給品だ。だが、先入観をなくす為品名しか記入していない。
「撤退行動だな」
あっさりとケーヒルは答えた。
「撤退行動、ですか?」
「ああ、魔獣の襲撃を想定した場合だが。ククの葉を混ぜた乾草を馬に与え、鎮静効果……つまり痛みに耐性を持たせる。馬具は騎士が囮になって魔獣を撹乱する時に使うし、燃える水もその時に使うな。魔獣は火を恐れ近付いて来ない……奴等の進路を狭める為だ」
ついでに言うと、ククの葉を騎士は噛みながら早駆けする……アレは長引くと痛みとの戦いになるからな。ケーヒルはそう締めくくった。
「クイン、説明しろ。何を気にしている?」
カーディルは嫌な予感しかしなかった。
「まだ他を見ないと確証はありませんが、少量ずつ各駐屯地へ集められている可能性があります。ユーニードが何度も間違えたとは思えませんし、マリギ周辺だけ綺麗なままでは逆に不自然かと」
「ユーニードは魔獣を懸念し、撤退戦の準備をしていると? それでは、言行不一致としか思えないが……負け戦を想定しているのか……?」
ユーニードの魔獣への怨嗟は狂気の域で、負け戦では魔獣を駆逐出来ない。それでは悲願は達成しないだろう。答えが導き出せない、だが確かに引っかかる……そうアストは思う。
「先ずは他の地域を調べ直そう。テルチブラーノだけなら間違いで済む。許容範囲の誤差を弾かず、拾い上げてみるか。そう時間は掛からないだろうからな」
カーディルの指示により再調査が行われ、結果は簡単に出た。一部地域を除き、誤差の範囲ながら補給物資の品目は大まかに共通したのだ。
マリギ周辺は警戒していた為、入念な調査を行なっていた。他地域はそれぞれに配分し、広く網を掛けていなかったのだ。カーディルからすれば、それを任せる人員がいなかったと言い換えるだろう。
差異はあれど、それらはクインが指摘した品々に間違いなかった。




