53.ロザリー
「アスティア」
訓練の後に会いに行く予定だったアスティアが目の前を通り過ぎたので、思わず呼び止めた。
「兄様?」
後ろから聞こえた声が誰なのか分かり、直ぐに振り返る。側にはエリが控えていたが、壁際に寄りアストへ譲った。
「少しだけ大丈夫かい?」
黒のワンピースを揺らすアスティアは、兄の正面に立った。裾には星空をあしらわれ、まるで夜を纏っているかの様だ。色違いはカズキが何度も破いたが、アスティアは今も大事に着こなしていた。王族と云えど贅沢は敵で、着潰す事も有る程だ。
「はい、勿論です。どうしたの?」
「ああ、実は……」
口に仕掛けた言葉を飲み込んだ。周辺に人影は無く警戒し過ぎと思うが、新たな報せを聞いたアストにとっては大袈裟でも無い。
昨晩遅く早馬が来た事は知っている。兄様が態々報せてくれるなら、きっとあの娘の事……逸る気持ちを抑え、即座に返した。
「兄様はこれから訓練でしょ? 私は今から白祈の間で神器や祭器のお世話をするの。急ぎでは無いし、エリとゆっくり進めておくわ。白祈の間なら気にする事も無いから」
白祈の間は王族と一部の関係者しか入れない。エリすらも外で手伝う位しか出来ないのだ。リンディア王家は王政の主でありながらも、同時に祭司でもある。日々カーディルは神々へ祈りを捧げていた。
「そうだな……到着まで時間はある。必ず顔を出すよ」
「ふふっ……湯浴みを終わらせてからにしてね? 前みたいな格好で来たら追い返すから!」
到着と言う言葉で確信を得たアスティアは、嬉しくなってアストを弄る。
「勘弁してくれ……アスティアに叱られてからはケーヒル達に冷やかされてばかりなんだ。白祈の間に汚い格好で行くわけないだろう?」
「あら? 兄様なら分からないわ。以前だって……」
「わかったわかった! 必ず身綺麗にして行く……これでいいだろう?」
「仕方ないから許しあげる。待ってるわ!」
アスティアはアストに笑顔を見せて、手を振りながら去って行く。慌てたエリは一礼して追いかけて行った。
リンディアの花と言われた笑顔は最近よく咲き誇る。大事なアスティアの妹が消えた時、二度と咲かないのではと心配された程だったのだ。
アストは角を曲がる最後まで笑顔だったアスティアに、何処か救われた気持ちになった。カズキが戻ってくる事実は勿論嬉しいが、同時に悲しい報せも含まれていたのだ。騎士団の長として、今回の悲劇は許されない事……ロザリーの死は余りに辛い。
「アスティア、ありがとう……」
アスティアはつい最近まで子供だった。姿形では無い、その精神は成長途中で妹そのものだったのだ。だが今はどうだろう……気遣いは勿論、我慢強くなった。間違いなくカズキの存在がアスティアを変えたのだ。
「成長か……」
自分は成長出来ているだろうか? カズキだけに過酷な運命を背負わせてばかりで……私も変わらなければならない。今度こそ護ってみせる、カズキも皆も。
リンスフィアに聖女が帰ってくる。アストにとってカズキは聖女であり、同時に……命を掛けても護りたい存在なのだから。
南の森から脱出したケーヒル達は、森の側まで来ていたマファルダストと合流した。森人達が今にも決死の突入をしようと、準備をしていた時だった。
カズキの姿を見たマファルダストの森人達から歓声が上がったが、カズキが膝に抱くロザリーの姿は其れを打ち消していく。
「隊長が……」
「姐さん……」
「嘘だろう……どうして……どうしてだ!!」
「奴等から……主戦派から守ったんだ。その身を投げ出して」
泣き崩れる者、呆然とロザリーを見る者、主戦派に怒りをぶつける者、全員の嘆きが響く。
また想いが蘇ったのだろう……枯れ果てる事の無い涙がカズキの目から零れる。ポタリと落ちた雫は、ロザリーの頰を濡らした。聖女の涙は儚くも美しく、人々の涙を強く誘いあちこちで啜り泣きに変わっていく。
「……どこまでも見事だった。ロザリーは素晴らしき森人であり、聖女の母として……カズキを救ったのだ。私は一人の友人として、彼女を心から誇りに想う」
リンディアの英雄……ケーヒルの言葉は決して大きくは無かったが、微笑を浮かべたままのロザリーへ届き、皆へと伝わった。
「帰ろう……リンスフィアへ……」
カズキは赤い髪に顔を埋め、少しだけ肩が震えている。なのに、聖女の泣き声は聞こえない。それが、どこまでも哀しかった。
センで手に入れた棺にロザリーを横たわらせ、休む事もせずにリンスフィアに向かう。棺は蓋棺せず、カズキが乗る馬車へと納めた。その方がロザリーも喜ぶと思ったからだ。それに聖女が母から離れたがらないのも理由の一つだろう。
ケーヒルは早馬を出し、カズキ帰還の報せを持たせる。そして、アストにロザリーの死を伝える事も忘れなかった。王家として、聖女を救った偉大なる母へ然るべき迎えをしてくれるだろう。主戦派は気になるが、ケーヒルは命を掛けて聖女を守ると決めていた。
それと……センからリンスフィアへの道中、聖女は不思議な行動を取る事があった。
休息地に着いた時……
周辺に咲く野花、特に美しさで有名な花を何本も手折り、馬車へと運び始めたのだ。その小さな手では一束分しか持てないのか、何度か往復している姿は皆の興味を引いた。
「何をしてるんだ?」
「花を持って帰るつもりかな?」
「いや、見ろ……」
騎士団やマファルダストの一行が見守る中、カズキは適度な長さに茎を折り棺へと入れていく。
この世界では、花を棺に入れる習慣は無い。盾や小剣に名を刻み、幾らかのコインと埋葬するのが一般的だ。騎士や森人が所縁の装備を入れるのが例外的扱いとされる。何より栽培される花など無いし、そんな余裕など存在しない。育つ畑があるなら芋の一つでも植えるだろう。
何人かが馬車に近づき、様子を伺う。
ロザリーの顔や組まれた手、その周りに花を丁寧に並べていく聖女。色合いも考えているのだろう、ロザリーの美しさが際立ち始めた。
「姐さんへの手向けか? 何処の風習だ?」
「聞いた事ないな。でも綺麗だな……」
「勝手に……いいのか?」
「馬鹿か……神々の使徒が手向けるなら其れが正しいに決まってるだろ。あの娘、いやあの方は聖女様だぞ」
棺に花を捧げる風習は、この時から始まった。リンディアに広がるまで時間は掛からず、その方式が一般的になっていく。また森人の技術を応用し、枯れ難い花も用意される様になる。この時カズキは好んで赤や黄色の花を選んだ為、その配色も伝承されていった。
美しく花に囲まれたロザリーを乗せゆっくりと進む馬車ではあったが、センからリンスフィアまでは時間は掛からないだろう。南は王都から最も近い森だからだ。カズキの視線の先には霞む王都が見え始めていた。
逃げ出した街だが、カズキは帰る事に躊躇は無い。あの白い世界で、ロザリーが帰りなさいと言ったからだ。待っている人がいるとも……この世界で初めてのロザリーの言葉は、全てが優しかった。
もう一度、しっかりと向かい合う。
待つ人はおそらく、あの人達の事だろう。あの街に顔見知りなど、僅かしかいない。何となく分かっていたのに……彼らに敵意など無いと。
カズキは少しだけ強くなった。
どんなに暴力に慣れ、痛みや死すらも怖く無かったとしても……そんなのは強さとは違ったのだ。
人を信じる事は簡単で、それでも酷く難しい。
愛など、理解出来ないが……ロザリーは自分を庇った。自らの命を投げ出して。
アレが愛だったのだろうか? 失った筈の親の……母親の……
気づけば、あの街はすぐそこだった。
白亜の城、三本の尖塔、三重の城壁。
景色を眺めたベランダ、その奥にはカズキ達が追いかけっこをした部屋。
見ると、まだ距離があるのにあの巨大な門がゆっくりと開くのが分かる。
真っ直ぐに伸びる道の両脇には鎧姿の男達が整然と何処までも並ぶ。剣を天に向け、微動だにしない。騎士達の後ろには民衆達が立ち、肩車の上には子供達の姿もあった。
だが、凱旋では無い。
聖女の帰還を喜ぶと同時に、聖女の母ロザリーの葬列でもあるからだ。
楽隊の演奏も無く、紙吹雪も舞っていない。
ただ静謐に待っている。
聖女を乗せた馬車が門をくぐった時、僅かな騒めきすら止まった。
瀕死の騎士や少年の命を救い、テルチブラーノでは森人を助けた……南の森では魔獣の新たな生態すら発見したと漏れ伝わっている。
黒髪や翡翠色の瞳も噂通りだ。首周りには刻印が色濃く刻まれ、神々の使徒である事を示していた。その美貌も想像を超え、目が離せなくなる。
だが、人々から言葉を奪ったのは其れ等では無い。
棺に隠れてはいるが、優しく触れているのだろう細い手。何度も泣いたのだろう赤く腫れ上がった瞳。そして一粒だけ流れ出た涙。
悲しいだろうに、しっかりと前を向く強い心。
少女の小さな身体は、誰よりも大きく見えるのだ。
聖女……黒神の聖女……
思わず溢れた誰かの呟きにも、怒りの言葉は出ない。
そうして……カーディルを中心に、アストとアスティアが待つ城門前に辿り着いた。
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この時の様子を描いた作者不詳の絵図は、この時代の最高傑作の一つとして後の世に語られる事になる。
人が滅びに瀕していた時代、絵画や音楽などを楽しむ余裕など無かったのだろう。現存する物自体が少なく、色彩は特徴的だった。悲惨な時代背景からか、血や魔獣を思わせる赤は嫌悪され、死を連想させる黒も例外では無かった。
しかし、この最高傑作は「赤と黒」の髪を中央に配置し、周囲はソレを際立たせる背景でしかない。当時の王子アストや王女のアスティアすら例外では無く、背景の一部として扱われている。
長らく事の真贋を疑われた本作は、ある時発見された文書に依り脚光を浴び一時代を築く。
見つかったのは王女アスティアの日記だ。そして其処には感情の爆発と嘆きが記されていた。
「私の気持ちを表せば、矮小で卑屈な嫉妬だろう。人の死を嘆く事もせずに、ただ醜い嫉みを覚えたのだ。私が愛する妹、カズキの愛を一身に受ける女性に。この私にカズキはあれ程の愛を向けてくれるのだろうか? 亡骸に両手を添え、声を上げず、一心に嘆き涙を流す聖女。私は自分の情け無さに涙を流す事も出来なかった」
これに依り描かれた聖女は真実と判明し、同時に聖女が縋り付く女性が何者であるかが新たな論争を呼ぶ。
だが、それはあっさりと判明する。
血は繋がっていないし、共に過ごした期間すら短く判然としない。だが間違いの無い真実がある。
彼女はその身を呈し聖女を守った。当時溢れていた狂人の刃の前へ我が身を顧みず投げ出したのだ。もし、彼女が居なければ世界は滅んでいたかもしれない。黒神の聖女が死ねば、後の救済は無かったのだから。
だがそれは義務感でも、もちろん世界の為でもない。
彼女を突き動かしたのは、愛だ。
皆が良く知る慣用句や諺に登場する固有名詞、つまり人の名がある。
無償の愛を表したり、優しさを讃えるあの名前だ。
黒神の聖女やリンディアの面々と並び、誰もが知っているだろう。
その女性の名は「ロザリー」
「聖女の母、ロザリー」と。
ロザリーの様に……
ロザリーの愛の如く……
今語られるロザリーの名はこの傑作から生まれたのだ。
〜黎明の時代 聖女カズキの軌跡〜
第七章,聖女の母、より抜粋。




