47.赤と黒の狂宴③
「危ない……!」
駆けるロザリーの視線の先には、先行していたフェイと今にも落馬しそうなカズキが見える。
ただ無心に鞭を振るい、踏み固められていない平原を走るには余りに技術が足りないのだ。馬にもカズキの混乱は伝わり、明らかに制御出来ていない。
「カズキ! 落ち着いて!」
伝わらないのは分かっているが、だからと言って我慢出来る訳が無いのだろう。
「姐さん、後ろを!」
速度を落とさずに背後を見たロザリーは絶望感を覚えた。
「速過ぎる……くそっ!」
既にディオゲネスの顔が判別出来る程の距離まで接近され、ロザリーは判断に迷う。これでは例えカズキに追いついても意味が無い。
「姐さん、森に入りましょう! 今はそれしか無い!」
「くっ……」
時間が経過すればケーヒル達が駆け付けるだろう。絶対にディオゲネスにカズキは渡したりしない!
「仕方がない! そのまま速度を落とさずにカズキと並走する……! フェイ、少し東にずれたところ……そう、アレだ! あの先は複雑な樹々が溢れる密集地帯だから、騎士達も突入に躊躇する筈!」
「……流石です! 森なら我等が有利、なんとしても時間を稼ぎましょう!」
鬱蒼と茂る森とカズキは直ぐそこで、なんとか間に合うだろう。そう思った矢先だった。
グラリとカズキが制御を誤り、馬に振り落とされた。
「ああ……カズキ!」
あの速度で振り落とされれば、大怪我は免れない……思わず目を瞑りそうになったロザリーだったが、カズキはまるで獣の様に姿勢を空中で変えた。
見事に地面に叩き付けられるのを防ぎ、ゴロゴロと草原を転がって衝撃を逃がす。いつの間にかナイフも掴んでおり、少しだけふらつきながらも立ち上がった。
「凄い……姐さん、そのまま走りましょう!」
「ああ!」
カズキが立ち上がった瞬間に体を傾けて、走り抜き様に軽い身体を抱き締め馬上に戻す。
「カズキ! 私よ! お願いだから暴れないで!」
ジタバタとロザリーの胸元で逃げだそうとしたカズキだったが、その声に暴れるのをやめてロザリーを見上げた。
直ぐに身体の動きを止めたカズキに、拒否されて無いことを知る。危機的な状況ながら、何処かホッとするロザリーだった。
再度背後を振り返ると、当然だが距離を詰められている。ディオゲネスの気色の悪い笑みさえ見えるかの様だ。
「行けるところまで突っ切るよ! 最悪馬は潰してもいい!」
「先に! 少しでも時間を稼ぎます。ククの葉の泉で会いましょう!」
森に入った瞬間速度を落としたフェイは、小剣を抜き辺りの枝木を折り始めた。只でさえ障害物の多い森にササクレだった木々や枝は武器にすらなる。飛び込む速度によってはタダでは済まないだろう。薄暗い森に騎士達も慣れてはいない、ましてや殆どが新人だ。
一見視界が開けた様に見えるだろうが、足元や馬上の高さには障害物ばかりになる。ついでに馬にくくり付けてあった縄を放り投げて樹々同士を繋ぐ。態と黒く染めた縄はやはり見えないだろう。下手をしたら死人が出るが、奴等こそが死を運ぶ主戦派の連中だ。
「フェイ……済まない!」
言葉が分からないカズキすら、フェイが決死の時間稼ぎを行うと理解出来た。やはり彼等は味方なのだ……カズキはそう思い、フェイに視線を送った。
丁度ロザリーの声に応えて視線を向けたフェイに、カズキの翡翠色の瞳が交錯した。ニヤリと笑うフェイは更に力が増し、騎士達に立ち向かう勇気が溢れてくる。
「聖女よ! 姐さんを、ロザリーを頼む!」
カズキから離れて行くフェイは見えなくなる最後まで笑っていた。
既に数人が落馬し動けなくなっていた。
「こりゃ凄まじいな……やはり森では奴等が一枚上手か」
ディオゲネスは馬を捨て、既に森に降り立っていた。黒い縄に気付き声を上げる暇もないまま1人がやられた。未だ意識はあるが、助かりはしないだろう。
「どうしますか?」
ヴァディムは動揺すらせず、ディオゲネスに指示を仰ぐ。
「このまま進むさ。奴等も馬は捨てるだろうし、俺には幾つも手があるからな」
「そうですか……では隊を分けますか?」
「その必要は無い。奴等には考えも付かないだろうが、この森には俺達以上の狩人がいるからな。奴等を焚き付ければ簡単に居所は割れる。それに聖女を抱えている以上、速度は出ないさ」
つまり魔獣を利用する、そう言っているのだ。
ディオゲネスの狂気は今やユーニードを超え、笑みさえ浮かんでいた。
「全員に燃える水を用意させろ、直ぐに必要になる」
「はっ!」
「聖女よ、その力、存分に見せてくれよ……お前はその為に神々から加護を受けたのだろう?」
ディオゲネスもナイフと燃える水を両手に持ち、森人が進んだであろう薄暗い森の奥を睨み付けた。
ロザリーとカズキは既に馬を降り、静かに森を進んでいた。行方を悟られない為に馬の尻を叩き、自分達とは違う方向に走らせた。
だが思う程の速度は出せていない。
理由は簡単で、カズキが余りに無頓着に森を進もうとするからだった。背後の追手こそ気にしているようだが、むしろ恐怖の象徴である森の最奥に気配りは無い。
「カズキ、もっと静かに……! 奴等に気付かれるよ……」
小声でカズキの腕を取り、大木の幹へ体を潜ませる。
カズキはどうしたの?と怪訝な顔を見せた。
ロザリーは聖女の異常性を今程感じた事はなかった。
この世界で生きていれば赤子以外は森に恐怖を抱くだろう。死と恐怖の象徴である魔獣の住処は森なのだ。森の側にいないリンスフィアの住民さえ、姿の見えない魔獣に漠然とした怖気を絶えず感じているのに……森人で無い人間が森に放り出されたら、余りの恐怖に身動きすら出来ないのは間違いない。
これではまるで……まるで本当に何も知らない赤子ではないか。それとも黒神の加護がそうさせているのだろうか……
「……とにかく進まないと」
森の中で手を塞ぎたくはないが、これでは仕方がない。カズキの手を強く握り、再び足を動かして進む。
その時、背後から僅かに森の大地を踏みしめる音がした。一気に警戒感を強めたロザリーだったが、すぐに緊張を解いた。
「フェイ、無事かい? 怪我は?」
現れたのは先程別れたフェイだった。見る限り負傷はしていないようだ。
「私は問題ないですが……」
目は余りに遅いと非難すらしていたが、当然だろう。生きて会えるかも不安だったのに、僅か数刻で再会するなど想像もしていない。いくらカズキがいたとしても、ククの泉まで追い付けるとは思ってもいなかったのだ。
「分かってる……今は説明するのも惜しい、行くよ」
フェイは何かを言い掛けたが、無言で肯きロザリー達から距離を取った。森人達の知恵であり、イオアンからも教わった警戒行動だ。本来は三人以上が必要だが、それを言っても仕方が無い。
未だ眉を顰め何をしてるのだろうとカズキは不思議がっている。ロザリーは大声で魔獣の脅威を教えたかったが、それも叶わない。
そんな視線を無視して、少しずつ前へと奥へと足を動かすしかないのだ。騎士達も森の恐怖に駆られ遅々として行軍出来ていないだろう。
だが彼等の、ディオゲネスの狂気は、そのロザリーの想像を簡単に踏みにじっていった。
「馬鹿な……奴等死にたいのかい……?」
「これでは直ぐに魔獣に見つかります……どうしますか?」
ディオゲネスを筆頭に、静かに進むべき森を堂々と行軍しているのだ。中には松明すら持ち、痕跡を探している者までいる始末だ。当然だがロザリーやフェイの速度と比べるのも馬鹿らしい。最早目視出来る距離で、見つかるのも時間の問題だ。時に追われ、痕跡を消していかなかった自分達の落度だろう。
「くそっ……仕方がない……何とかやり過ご……」
バキッ! ……ズドン!
来た……奴等だ……赤褐色の、死を運ぶ人の天敵……魔獣。
無毛の肌、鋼の如き筋肉、食物を摂取するのか想像も出来ない長い牙、人の腕ほどもある爪、歪な短い後ろ足と尾の無い臀部。
とても森に最適化した生物とは思えないだろう。人より遥かに巨大な体躯、保護色でも捕食者の工夫も見えない体色。しかしながら此処まで近付かれて初めて気付く……どうやって気配を消しているのか想像も付かない。
だがある一点のみ、どんな生物より最適化されている。
人を殺す……ただそれだけを追い求めたが如く、奴等は存在するのだから。
「……まだ数匹だが、騒げば騒ぐほど集まるよ」
「もう動かない方がいい。くそっ、装備があれば」
森人の装備の大半は馬車に置き去りだ。悔いても仕方がないが、この場面では一つでも欲しい。
ロザリーから見て左側からゆっくりと騎士達に近づいている。騎士達は今頃になって気付いたのだろう、松明を放り投げて抜剣した。
「馬鹿が……やはり戦う気か」
勝てる筈が無い。奴等に出会えば松明だけで無く、全てを捨てて走り出すしか無いのに……
ガァーーグオォォォーーー!!!
先頭の魔獣は腹に響く唸り声を上げて、僅かに浮き上がる程の速度で騎士達に躍りかかる。
ゴギャッ!
一振り……たった一振りした腕と爪に、騎士2人は剣ごと真っ二つにされた。勿論比喩などでは無い、文字通りの肉塊になったのだ。
「う、うわーー!!」
「こんなの、こんなのどうすれば……!」
「剣も鎧も意味なんて……」
血に塗れた爪をそのままに、魔獣は歓喜の雄叫びを上げる。
グァァーーー!!
笑っている……そうとしか思えない……直ぐ近くに獲物である人がいるのに、それ以上は襲い掛かってこないのだ。捕食ではない、ただ殺戮を楽しむだけに其処にいるのだ。
「うらぁ!!」
ズドンッ!!
およそ生物が出すモノとは思えないそれは、赤褐色の腕が一本吹き飛んだ音だった。
グ、グギャーーー! キーーーッ!
魔獣も痛みは感じるのか、無茶苦茶に残った腕を振り回して暴れ始めた。それを成したディオゲネスは笑いながら声を発する。
「はははっ! 見ろ! 魔獣であろうと血は流れ痛みを覚えるんだ! 怯むんじゃねぇ! 円陣形を組んで声を出せ! 必ず近くに聖女がいる。女の興味を引くんだ!」
仲間がやられた筈の魔獣達は、何故かそこから動かずに見物するようだった。
「奴は何を言ってるんだ……?」
見つからない為に今は動けない。騎士達の僅かに距離を取れたロザリーは、少しだけ余裕があった。それに逃げたくても、自分達の背後はかなりの崖になっていて、魔獣達の側を抜けるしか手はない。腹立たしいがそれを知る魔獣達は、人間をじっくりと弄ぶ気なのだろう。
「姐さん、今の内に少しでも森に溶けましょう。まだ、大きな動きは出来ない」
見物しているとしか思えない魔獣達に見つかれば、やはり終わってしまう。幸い魔獣の悲鳴と騎士達の怒声はロザリー達に味方する。
「ああ、そうだね。カズキ、暫くは此処でジッとしていておくれ」
今は何とかやり過ごすしかない。出来るだけ森に同化して魔獣の意識外に居なければならないのだ。
多少落ち着いた騎士達は距離を取りつつ、切り付けては離れを繰り返し始めた。魔獣も振り回す片腕では、決定的な致命傷は与えられない。それでも何度も吹き飛ばされたり、鎧ごと爪の餌食になって後退する騎士達がいる。今は助かってもあの出血量では、どの道時間の問題だろう。泣き叫ぶ声、飛び散る血、折れ曲がった剣と鎧……その全てが増えて行くだけだ。
ロザリーは敷き詰められた苔や根を躱し、柔らかな土壌から泥状の土を掘り始める。合わせて静かに枝木を手折り、目隠しを作っていく。
フェイもロザリー達を何としても守るため、2人から視線を外して使えるモノに当たりをつけていた。
だから、2人は気づかなかった。
カズキから表情が消え、騎士達に視線を送っている事を。血を流し、のたうち回る若き騎士から目が離せなくなっている事を。
ゆっくりと立ち上がり、胸に抱いていたナイフを鞘から抜いた事も。
フラフラと数歩ほど歩き出して落ちていた枝を踏み抜く音がするまで気付かなかったのだ。
そして……ディオゲネスが直ぐに此方に気付き、壮絶な笑みを浮かべた事も見てはいなかった。
狂った慈愛と自己犠牲、利他行動の刻印はどこまでも働きかけてカズキを突き動かす。
そして癒しの力……聖女を聖女たらしめるのだ。
ロザリーが気付いた時には全てが遅かった。




