16.名を紡いだ日③
コロコロと転がってきた丸いもの、つまり葡萄が足に当たってアストは我に返った。少女はいかにも"拙いことになった"という顔をしていて、思わず笑みをこぼしてしまう。
迷子の子供のように行き場のない気持ちを抱えていたアスト達にとって、それは一筋のそよ風のようで……少しだけ空気が弛緩したのを感じる事が出来た一瞬でもあった。
クインが転がってきた葡萄を拾い、予備の紙に包んで懐に入れた。後で処分するつもりなのだろう。
ちなみに少女は益々顔色が変わって、下を向いて動かなくなった。
「カーディル陛下にどうお伝えしますか?」
「もちろんそのまま伝えるさ」
「殿下……陛下は大変責任あるお方で、同時にそれを行動に移す事の出来る王でしょう。大勢の王国民の命と、たった一人の少女の命を天秤にかける事になる……陛下であれば御決断なされます。それでも良いと思われますか?」
王家の相談役としても意地悪な聴き方をしているのは自覚している。だが、それは事実でもあった。
「違う、そうじゃない。陛下は……父上は分かって下さる筈だ」
クインが甘い考えだと一蹴しようとした時、アストは強い意志を乗せて碧眼を向けた。
「教えてくれ。 黒神は邪悪な、邪な思いを抱く悪神なのか?」
「いえ……そんな事はありません。黒神の中で最も力を持つとされる神は、死と眠りを司る神エントーです。エントーは等しく人々に死と眠りを与えてくれます。もしその加護がなければ、人は死を迎えた筈のあとも、生きた屍として彷徨い歩くと言われる程ですから」
「そうだ……私もコヒンやクイン、君にも教えて貰った。黒神は在りようや形は違えども、人々を等しく愛していると。私にはそれが間違っていないと思えるんだ」
クインは、アストが何を言おうとしているのか分からずに困惑していた。しかしアスティアは、何か希望を見出したかのように光を失っていた瞳の輝きを取り戻していく。
「クイン、もう一度考えてくれ。癒しの力は何故封印されているんだ? クインの言う通りなら、封印などせずに直ぐに戦地に送り付ければいい話だ。いや、他の刻印だって必要ないじゃないか」
「それは……死を迎えた時に解けるのでは……」
クインは言いたくもない考えを呟いたが、同時に否定の言葉を待つ自分がいると分かった。
アストは力強く、確信すら持ったかのように高々と言葉を紡ぐ。
「違う、そうじゃない。ヤトはヤトなりに聖女を愛している。必ず助かる道があると、そうだと信じるんだ。神々のご加護は間違いなく降り注いでいるのだから」
眩しい光を見るように目を細めるクインはアストを仰ぎ見た。この彼こそが誇り高きリンディアの王となられるお方なのだと、彼は間違いなくエル=リンディア(リンディアの王子)なのだと。
クインは涙が零れるのも構わずに、目の前の希望にただ頭を下げるのだった。
「はい、アスト殿下」
雨は止み、雲の切れ間から光が黒の間に降り注ぐ。アストの白銀の髪と青い瞳はそれを反射してキラキラと光を放ち輝いていた。
「そうよ……兄様の言う通りだわ! きっと何か意味がある筈よ、だっていま私達と一緒にここに座ってるんだもの。お父様と相談して、ケーヒルやジョシュ、みんなの力を借りましょう!」
アスティアは、何時もの元気を取り戻してアストと同じように力強く声を上げた。
「はい、アスティア様。 本当に……本当にありがとうございます」
自身の涙をハンカチで軽く押さえながら、それでも笑顔が溢れるのを止めなかった。クインの希望は失われていない。
少女はクインがハンカチを取り出した際、再び零れ落ちた葡萄を素早く拾い上げて自身のワンピースのポケットに入れた。危なかったと溜息をついた少女の横でエリがしっかり目撃をして、ニヤついているのは気付いていないようだった。
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暫くは涙が零れるのに任せ、ゆったりとした時間が流れた。雨雲はすっかりと消えて暖かい日差しが降り注ぎ、光がカーテンの様に揺れて輝いている。
「申し訳ありませんでした。殿下、アスティア様」
「いいのよ。貴女の泣き顔なんて随分貴重なものを見せて貰ったわ」
アスティアは態と茶化して笑った。
「はい……」
クインもその優しさに甘えて、それ以上は何も言わない。
少し落ち着きを取り戻した黒の間にアストの声が響いた。
「クイン、刻印の説明がまだ続いているようだが……?」
もう全ての解説が終わったと思っていたが、最後にもう一枚だけ刻印の紋様を書き写した紙が残っている。どうやら首に刻まれた刻印の一部を拡大したもの、そう見えた。
「あっ! はい、まだ重要な事が残っていました。彼女にこの場所にいて貰ったもう一つの理由です」
クインの少し朗らかな声から、悪いことではないと安堵しながら耳を傾ける。
「これは、お爺様が見付けてくれたんです」
刻印の模写を指し示しながら説明は続いていった。
「言語不覚の刻印、その紋様の一部に意味を成さない単語らしきものがありました」
幾ら眺めてもわからないパズルの様な紋様に、アスト達は諦めてクインの次の言葉を待った。
「一語一語は、時代も神々も違う神代文字のため、私達も最初は只の模様だと思いましたが……違ったんです」
「意味は含まれていません、ただ音に紡げば良いだけです」
「お爺様は結論付けてくれました。これは……彼女の名前だと」
アストもアスティアもエリも、それを待ち望んでいたのだ。
出会ってから今まで一度も声に出せなかった事を。
「こう読みます」
「カ、ズ、キ……と」
このとき初めて、世界に聖女の名は告げられた。
そしてこれから人々は知るだろう。
救いは舞い降りたのだと。
神は決して我等を見捨てていなかったのだと。
超常なる神々の使徒。
黒神の聖女「カズキ」が降臨したのだ、と。




