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第50話 子守唄の終わり

 自動ドアが静かに開くと、空気の質がふっと変わった。穏やかな風の中に、張りつめた静けさだけがしんと漂っていた。


 中に足を踏み入れると、柔らかな照明に照らされたロビーが広がっていた。


 カウンターの奥から誰かがこちらに気づいたようで、北斗はそちらに向かってゆっくりと歩いていく。


 受付で北斗が名前を告げると、職員の女性が丁寧に頷いた。


 案内を待つ間、ロビーに流れる空調の音だけが妙に耳についた。


 俺は何も話せず、ただ沈黙を守る北斗の横顔をちらりと見た。


 やがて「どうぞ」と声がかかり、二人でゆっくりと廊下に踏み出す。


 足音がやけに静かに響いた。真っ白な壁に、淡く差し込む光だけが動いて見えた。


 まるで時間も言葉も、ここではすべてが薄く漂っているような気がした。


 北斗は前を見たまま、ぽつりと口を開く。


「昔な……家の中、めちゃくちゃだったんだ」


 その一言が、何かを押し開けるように、北斗の口から言葉が流れ出す。


「父親、会社の社長だったけど、家庭にはほとんど帰ってこなかった。帰ってきたと思えば、母さんに冷たい言葉ばっかりでさ……“こんな女と結婚しなきゃよかった”とか、“俺に恥をかかせるな”とか」


 廊下を曲がる時、北斗は少しだけ肩をすくめた。


「で……結局、父親は愛人作って、本当に帰ってこなくなった」


 そこまで聞いても、俺は何も言えなかった。


「残された母さんの怒りの矛先は、俺に向いた。“お前のせいであの人は出ていった”って。“お前が私をバカにしてる目が、あいつにそっくりだ”って」


 歩くペースは変わらないまま、声だけが淡々と続く。


「殴られたよ。何度も。でも、そのたびに言うんだ。“桃子は誰にも愛されない、だから私だけが愛してあげる”って……」


それは“愛”って言葉の形をしているのに、どうしようもなく冷たくて、怖かった。


「それでもな……その頃の俺は、“これが普通の愛なんだ”って思い込もうとしてた。じゃないと、壊れそうだったから」


 ふと、北斗が小さく息を吐いた。


「中学の頃、父親の弟――叔父さんが異変に気づいてくれて、俺を保護してくれた。それから母さんとは離れて暮らすようになって……高校入る頃だったかな。連絡が来た。“母親が倒れた”って」


 窓の外に目をやりながら、北斗は続けた。


「くも膜下出血だった。命は助かったけど、後遺症で記憶障害が出て……その後に、若年性アルツハイマーって診断された。しかも、かなり進行が早くてさ」


 その言葉が、廊下に静かに響く。


「……あんなに怖かった母さんが、ほんの数ヶ月で、まるで別人みたいに穏やかになってた。優しくて、やわらかくて……昔の面影なんて、どこにもなかった」 


 それは、まるで過去の呪縛が剥がれたかのように聞こえた。


「でもさ、母さんの中での“俺”は、小学二年のままなんだ。まだ“桃子”だった頃の、幸せな時間しか覚えてない」


 北斗は、ほんの少しだけ笑った。


「……皮肉だよな。俺を縛ってたあの頃のことは、全部、忘れてんだ」


 俺は、黙っていた。


 胸の奥がきゅっと掴まれるような感覚だけが残っていた。


 気づけば、頭に浮かんでいたのは……小学生の頃、千秋が俺に言ってくれたあの言葉だった。


『君のこと、私たちが守ってあげるから』


 あの時の俺は、それだけで救われてた。


 世界の全部が、明るく見えた気がした。


 でも――


 今になって思う。


 俺は……あの言葉にすがってただけだったのかもしれない。


 千秋の「守る」って言葉が、俺にとっての“居場所”だった。


 ……いや、違う。


 北斗の話とは、重さが違う。比べるなんて、おこがましいのかもしれない。


 でも、それでも――


 「この人だけが俺を理解してくれる」「俺の味方はこの人だけ」……そんなふうに思い込んで、逆らえなくなっていた。


 嫌われたくなくて、見捨てられるのが怖くて――


 愛して欲しいと、思われたくて……


 気づけば、相手の顔色ばかり見てた。


 ……それって、支配されてたのと、どう違うんだろう。


 問いかけるような思いが、言葉にはならずに、胸の奥にゆっくりと沈んでいった。


 病室の前で、北斗が少しだけ立ち止まった。


 ふと目をやると、扉の横に設置されたネームプレートに「如月透子」と記されていた。


 その名前を目にした瞬間、胸の奥にどこか張りつめたものが走る。


 扉の向こうにいる誰かを思い出すように、目を伏せたまま静かに息を吸い込む。


「……大丈夫」


 北斗はそう自分に言い聞かせるように呟いて、深く息を吐くと、そっとドアノブに手をかけた。


 その背中を、俺は黙ったまま見つめていた。


 カチャリと静かな音がして、ドアが開く。


 病室の中は、思ったよりも明るかった。


 柔らかな日差しがレースのカーテンを透かして差し込み、白いベッドの上に座っていた中年の女性がこちらを見て微笑んだ。


「あら? 桃子? もう学校から帰ってきたのね」


 声は穏やかで、品があって……どこか少女のような無垢さを感じさせる。


 俺が戸惑って一歩も動けずにいると、北斗が一歩前に出て、静かに答えた。


「うん、ただいま、お母さん……あ、紹介するね。私の友達の、天川優斗君だよ」


 唐突な紹介に少しだけ戸惑いながらも、俺は軽く頭を下げた。


「こ、こんにちは……」


 透子さんは優しく微笑んで、嬉しそうに言った。


「あら、お友達なのね。いらっしゃいな。桃子と仲良くしてくれて、ありがとう」


 言いながら女性――如月透子さんは嬉しそうに笑みを深め、そばの椅子に掛かっていたカーディガンを丁寧に羽織りだした。


 その様子を見ているうちに、北斗がぽつりと俺に言った。


「母さんの中で俺は、小学二年のままなんだ」


 その横顔は、どこか懐かしさと切なさの混じったような表情だった。


「辛い記憶は全部なくなって、幸せだった頃だけが残ってる。……皮肉だけど、たぶんその方が、母さんにとっては幸せなんだろうな」


 言葉のあと、少しの沈黙が落ちた。


 透子さんは椅子の側で、ゆっくりと視線を窓の外に移していた。カーテン越しの柔らかな光が、その横顔にやさしく影を落としている。


 北斗もそれを見て、何かを噛み締めるように黙っていた。


 俺も言葉が見つからず、ただ静かにその空気を受け止めることしかできなかった。


 それから三人で、別室にある“憩いの場”へと移動した。


 明るく整った空間には、他の入居者たちもそれぞれ穏やかに過ごしていて、ゆったりとした時間が流れていた。


 北斗は透子さんの手をそっと取って歩き出す。その時の北斗の声は、どこか柔らかく、口調もさっきから自然に「私」になっていた。


「お母さん、こっちに座ろう?」


 透子さんはくすっと笑いながら頷いて、「桃子ったら、本当に面倒見がいいんだから」と楽しそうに言った。


 そのやり取りを見ていて、俺は一瞬、誰だか分からなくなるような錯覚を覚えた。


 そこにいたのは、いつも冷静でサバサバしている北斗じゃなかった。


 母親の隣で微笑んでいるのは、まるで“桃子”という名前の女の子だった。


 だけど、その笑顔は――どこか優しくて、懐かしく見えた。


 母と娘の小さな再会のようなその光景が、静かに胸に沁みてくる。


 ふと、北斗が俺の方を見て、小さく笑った。


「なあ、優」


 そう言ってから、彼女は少しだけ目を伏せて、ゆっくりと語り出した。


「……昔の俺さ、『この人しかいない』って思ってたんだ。どんなに叩かれても、『愛してる』って言われると、安心した。……いや、そう思い込もうとしてた」


「でもさ、それって“守られてた”んじゃなくて、“縛られてた”んだよな」


 その言葉に、少しだけ心がざわついた。


 どこかで聞いたことのあるような響きだったのに、それが自分の中に向けられたような錯覚がして、息が詰まりそうになった。


「“愛してるから、他の人には任せない”――それって、一見優しそうに聞こえるけどさ、実は“コントロール”なんだ」


 胸の奥で、何かがひやりと揺れた。


 「愛してるから」――その言葉に、優しさを重ねていたのは、きっと俺も同じだった。


 でももしそれが、ただの優しさじゃなかったとしたら。もしそれが、誰かの意志を奪うものだったとしたら。


 ……俺は、何を信じていたんだろう。


「支配と依存って、実は似てる。……どっちも、“自分では選べない”ってことだから」


 言葉の一つ一つが、静かに胸に染み込んでいく。


「でも今は違う。誰にも縛られてないし、ちゃんと自分で“好き”って言える相手がいる。それって、たぶん“自由”なんだと思う」


 そう言って微笑んだ北斗の表情は、すごく穏やかで、晴れやかだった。


 その笑顔を見ているうちに、俺の中でも、何かが静かに変わり始めている気がした。


 ゆっくりと、確かに。


 その笑顔のまま、北斗はゆっくりと歩き出し、俺も並んでロビーのソファに腰を下ろした。


 ソファに座ったまま、俺は二人のやりとりを静かに聞いていた。


 だけど、静けさは重たくなくて、ただ優しく部屋を包んでいた。


 透子さんの笑い声と、それに応える北斗の柔らかな声が、時折静かに空気の表面を撫でていく。その音だけが、今この空間に流れていた。誰も強い言葉は使わない。ただ、そこにあるのは穏やかで、あたたかい時間だった。


 この空気に包まれていたら、ふと、胸の奥がじんわりと熱くなった。


 ……何か、返したくなるような気持ち。


 ありがとうでも、何か偉そうなことでもない。ただ、自分の中にある“今”のこの気持ちを、何かの形にして残しておきたい。


 ふと視線を動かすと、部屋の隅に置かれた電子ピアノが目に入った。


 ……朝は、あの鍵盤に指を置くのが怖かったのに。


 今なら――きっと、出せる。


 けれど、すぐに立ち上がるには、まだほんの少しだけ勇気が足りなかった。


 胸の中で、もう一度だけ確かめる。これは“逃げ”じゃない。誰かに認められたいからでもない。


 ただ、この気持ちを……音にしたい。自分の手で、今ここにあるものとして届けたい――そう思った。


 少しだけ、喉の奥が詰まるような感覚があった。


 それでも、思い切って声にしてみた。


 「これ……弾いても、いいですか?」


 立ち上がって、近くにいたスタッフに声をかける。


 女性の職員が驚いたように目を瞬かせてから、微笑んで頷いてくれた。


 俺はゆっくりと椅子に腰を下ろし、指を鍵盤の上にそっと乗せる。


 静かに、最初の一音を落とした。


 ぽつり、ぽつりとこぼれるように音が生まれた。


 それはまるで、小さな水面に優しく落ちる雫のように、静かに、心の奥へ染み込んでいくような音だった。


 低音は深く包み込むように柔らかく、高音はふわりと宙に浮かぶように淡く儚い。 メロディはゆっくりと、まるで“何度も願ったけれど届かなかった言葉”を、そっと音に変えて並べていくように流れていく。


 孤独な夜に差し出された温かい手のような、そんな旋律だった。


 何百、何千と伝えたかった気持ち。 でも、伝えられなかったまま胸にしまっていた想いを、音にしてひとつひとつ紡いでいく。


 優しく、でも切ない。


 “さよなら”と“ありがとう”が混じったような音が、静かに室内を満たしていった。


 ひとり、またひとりと、入居者の方々が静かに近づいてくるのが分かった。


 廊下の奥から、ゆっくりとした足取りで集まってくる。


 車椅子の方、杖をついた方、ゆっくりと座る場所を探す人。


 皆、その音に惹かれて、自然と引き寄せられていた。


 スタッフの人たちも集まりはじめていた。


 高齢の男性職員が腕を組んでじっと見つめている。若い女性スタッフの一人が、胸元に手を当てて、目を潤ませながらじっと聴いているのが視界の端に映った。


 誰も、言葉を発さない。


 でも、その場全体が――音でひとつになっていた。


 旋律は、やがて少しずつ力を帯びていく。


 それは、諦めではなく、祈りだった。

 悲しみに染まるのではなく、どこか希望の色を含んだ、静かな決意のようなものだった。


 透子さんが、ぽんと手を打ち、目を輝かせて笑った。


「この子、すごくピアノが上手ね」


 北斗が、目を潤ませながらも笑ってうなずく。


「うん。……私の、最高の友達なんだよ、お母さん」


 その言葉に、涙を拭くスタッフの姿があった。


 曲の終わりが近づく。


 最後のロングトーンは、まるで“また、歩き出せるよ”という小さな願いを含んだような響きだった。


 俺はゆっくりとペダルを離した。


 音が、静かに空気に溶けていく。


 沈黙。


 次の瞬間――


 ぱち、ぱち、と誰かが手を叩いた。


 それは一人、また一人と連鎖して、やがて大きな拍手になった。


 暖かくて、優しくて、包み込むような拍手。


 俺の中で何かが、ほどけた。


 北斗の肩が、小さく震えていた。


 感情をこらえきれずにいたのが、伝わってくる。


 それでも、涙はこぼさなかった。


 ただ、ほんの少し口元を緩めて――その笑顔は、今までで一番自然な笑顔だった。


 静かに立ち上がって、俺はピアノから一歩離れた。


 北斗もそれに続いて、透子さんのそばで小さく頭を下げる。


 あたたかな拍手の余韻がまだ背中に残っていた。


 施設の玄関を出て、俺たちは並んで歩いた。


 タクシーが一台、目の前に停まっていた。


 北斗が無言で歩み寄り、ドアを開ける。


 俺も後ろに続いた。


 車内に入って、ドアが静かに閉まる。


 エンジンの低い音と、車体の振動が心地よかった。


「なあ、優」


 北斗が不意に口を開いた。


「さっきの……マジで良かった。あれ即興だろ?……やっぱお前、やべぇわ」


 俺は照れくさくて、視線を逸らす。


「……ありがと」


 北斗が、少し笑ってから言った。


「なあ……あの曲、俺が歌ってもいいか?」


 その言葉に、自然と微笑みがこぼれた。


「……うん。歌ってよ」


 北斗がニッと笑った。


 そのあと、車内に静けさが戻った。


 でも、さっきまでの時間が、ちゃんと心の中に残っていた。


 優しい余韻が、車内を包んでいた。


 窓の外を流れる街並みを見ながら、ふと、今朝感じていた不安を思い出す。


 鍵盤が怖かった。

 音を出すことが怖かった。


 でも今は――


 ピアノが、「触れてもいいよ」って言ってくれてた気がした。


 あの音には、たぶん俺の“今”が全部詰まってた。


 誰かの言葉に縛られることと、自分で選ぶことの違いが……何となく、分かった気がした。


 俺は小さく目を閉じて、ひとつ息を吐いた。


 そして、ゆっくりと目を開いたときには、もう迷いはなかった。


 真珠のあの言葉が、遠くから聞こえた気がした。


 ――それって……嬉しかった?


 あのときは、答えられなかった。


 でも今なら、少しだけ言える気がする。


「……嬉しいって、思いたかっただけかもしれない」


「え?」


 北斗が、ちらりと俺を見た。


「昨日、真珠に言われた言葉……『それって……嬉しかった?』って……」


「ああ……なんか、分かったのか?」


「……うん。そう思い込んでただけかも。嬉しいって、思わなきゃって……」


 少し、間を置いて。


「……本当は、怖かったんだ。嫌われるのが、見捨てられるのが、惨めだった昔に戻りたくなくて……でも――今なら、分かる気がする。……あれは、恋じゃなかったんだって」


 北斗は何も言わなかったけど、その横顔はどこか優しかった。


 俺は、その静けさの中で、ようやく自分の気持ちを言葉にできた気がした。


 目を伏せて、ぽつりと呟いた。


「……ありがとう。北斗」



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