伊豆のおとり子(4)
いよいよ日は落ちて、辺りはすっかり暗くなった。細い道にはまともな街灯もなく、車はヘッドライトだけを頼りに森の中を進んでいく。このまま闇に飲み込まれてしまうのではないかと本気で考えた。
先程から何度も梨穂子が菅原を呼びかけているが返事がない。やり手の刑事が連絡を絶ったことで、捜査員の不安は増大する一方であった。事情を知らぬ矢口だけが鼻歌交じりにハンドルをさばいている。
剛司から報告が入った。
「スタントマンの身元が判明したぞ」
「どうぞ、報告してください」
梨穂子が促した。
今から30年前、二十歳の大学3年生、齋木道春はマイティー・ファイターの撮影に追われる日々を送っていた。
彼がスタントを始めたきっかけは、大学のサークル仲間だった外山荘二朗に誘われてのことだった。外山はアルバイトで撮影現場の手伝いをしていて、そのうちに助監督のアシスタントをやり始めた。外山は大学ではプロレス同好会に所属していて、その人脈でスタントマンの人集めや演出をやらせてもらうまでになった。
齋木は同じサークルの後輩として撮影現場に呼ばれた。最初はヒーローと格闘して倒れるだけの単純な演技が中心だったが、そのうち演出がエスカレートして、バイクを使ったアクションが取り入れられた。
具体的には、走行中のバイクから飛び降りて、そのまま崖下に転落するような映像を求められた。かなり危険な撮影だが、現場は納期の短さと高視聴率獲得のため、スタッフは何かに取り憑かれたように作業していたという。よって十分な安全性をテストすることもなく撮影に臨むことになった。
そんな中、不幸にも事故が起こってしまった。齋木は大怪我をしただけにとどまらず、バイクから出火した炎に包まれて、火傷まで負ってしまった。
彼は入院することになったが、撮影は齋木なしで続行された。しかし納期に間に合わなくなったため、第5話のスタントシーンは第2話の映像が流用されることになった。このとき、外山は齋木のことを役に立たない奴と罵っていたとされる。
異常なのは、齋木を病院に見舞った者はほとんどいなかったということである。スタッフは怪我をした若いスタントマンに構っていられなかったのであろう。それどころか、外山に至っては、あるとき誰かに齋木の容態を聞かれ、再起不能などと言ってみんなを笑わせていたとの証言もある。
その数週間後、齋木は病院で息を引き取った。おそらくそれを聞きつけた心あるスタッフの誰かが、第7話のクレジットで齋木の齋の字を取って、齋藤博と表示させた。これは奏絵が推理した通り、亡くなった若きスタントマンに対する弔いのつもりだった。
最後に剛司は次のように締めくくった。
「そのスタントマン齋木道春の恋人が、まだデビュー前の楠木かえでだ」
捜査員たちは誰もが沈黙していた。
「やっと外山と楠木がつながりましたね」
梨穂子が声を出した。
「それにしても、酷い話ですね」
そう口にしたのは、奏絵だった。
「楠木かえでには、恋人を死に至らしめた外山荘二朗を殺す動機があります」
「しかし直接手を出さず、彼がプロデュースしているアラセブを狙ったというのはどういう意図でしょうか?」
梨穂子が奏絵に訊いた。
「一番恨んでいるのは外山であることは間違いないでしょうが、それ以外にも当時のスタッフや業界そのものを恨んでいるのだと思います」
「スタッフは誰一人として、危険なスタントを止めなかった。だから外山と同罪と見ているということですか?」
「はい。それに納期や視聴率を優先するあまり、人の命を軽視した業界そのものの体質を恨んでいたのだと思います」
「だから今一番売れているアラセブは、その業界の象徴でもあり、それを潰すことは最高の復讐となるってことですね」
梨穂子が理解した。
「それに、アラセブのデビュー当時から、楠木かえでは関わっていたという話ですから、彼女は自分で企画を外山に持ちかけて、これまでアラセブを自分の好きなように育ててきた訳です。最高に登り詰めた芸能人を自らの復讐に利用するために」
杏奈が我慢ならずに、
「奏絵、ちょっと待ってよ。ということは、今夜の生放送では一体何が起きるっていうの?」
「アラセブメンバーの殺し合いとプロデューサーの殺害よ。それをテレビで生中継するつもりなんだわ」
「せっちんはどうなるの? あの子は外山に捕らわれているのよ」
それには奏絵は答えてくれなかった。
そこへ梨穂子が厳しい口調で、
「菅原と連絡が取れないということは、もうすでに何かが始まっているのです。杏奈は先を急ぎなさい」
さらに、夫、剛司の意見を求めた。
「あなた、直ちに静岡県警に出動要請をしますか?」
「いや、現状が分からぬまま、警官を向かわせるのはむしろ危険だ。我々の予測しているシナリオを変更されては対処ができない」
「分かりました。全ては黒沢杏奈に賭けましょう」
梨穂子は強い調子で言った。
「矢口さん、まだ別荘には着きませんか?」
焦りが言葉となって出た。
「もうすぐですよ。ほら、あそこに三角の屋根が見えるでしょう。あれが楠木かえでの別荘です」
なるほど暗くて全体像が掴めないが、道路が続く先の高台に建造物が見え隠れしている。今は早く着くことだけを願った。
(みんな、無事でいて!)
「お母さん、別荘に着いたらどうすればいい?」
「まずは現地の状況を把握しなさい。それからアラセブの一員として何も気づいてない振りをすること」
「相手を油断させるのね?」
「そうです」
「分かった。やってみる」
その時である。
突然、道路の脇から大きな黒い影が飛び出してきた。
トラックである。ライトも点けずに迫ってくる。あっという間に車の側面に突っ込んできた。
「危ない!」
思わず杏奈は手と足を踏ん張った。しかしそれは何の役にも立たなかった。暗闇を切り裂くほどの轟音と衝撃が3人の身体を襲った。
車は竹藪の中へと押し込まれた。木々をなぎ倒して斜面を滑り落ちた。
エアバッグが作動して前が見えない。そのままコントロールを失った車は数十メートル転げ落ち、最後は木々の間に受け止められた。
誰もいない森の中、クラクションの音だけが響き渡っていた。




