まさか、あいつと握手かい?
翌日、日曜日はファン感謝祭で、新曲のプロモーションと握手会が予定されていた。
黒沢杏奈とマネージャーは朝早くにタクシーで都内の公会堂へと向かった。外にはまだファンの姿はなく、スタッフの手によってCDやグッズ販売のコーナーが設営されているところだった。
通路で児島華琳と出くわした。挨拶もそこそこに、
「黒アンちゃん、本当にありがとう」
マネージャーの龍哉を押し退けて抱きついてきた。
「一体どうしたの?」
小さな身体を振りほどいて、華琳を真正面に見据えた。
「外山さんに聞いたのよ。昨日の舞台で狙われていたのは、この私だったってね」
「ああ、そのこと」
彩那は真実をどこまで明かしてよいのか分からず、相手に喋らせた。
朝のニュースで、コンサート中メンバーの一人をレーザー光で狙った男が逮捕されたという報道がなされた。その後、外山から連絡があり、犯人の狙いが誰かと聞いたのだと言う。
おそらく外山は注意喚起するつもりで、華琳にその話をしたのだろう。
「実は、曲の途中であなたに突き飛ばされたから、内心ちょっと腹が立っていたの。でもあの時私を助けてくれたのだと分かって、今は感謝の言葉しかないわ」
どうやら華琳だけは真実を知ったという訳である。
マネージャーと別れて、楽屋で舞台衣装に着替え、化粧をしてもらった。
握手会の前には、新曲の披露とトークショーが行われることになっているので、その準備である。
いつしか会場は観客で満員になっていた。
ステージに立つと、
「杏奈、明日香ちゃんと応援に来たわよ」
そんな奏絵の声が耳に届いた。
会場を見回してみたが、とても二人の姿は見つけられそうもない。
音楽が流れ、踊り始めるとすぐ奏絵が呼び掛けてきた。
「ねえ、スカート破れてない?」
「えっ、まさか」
「右の裾が裂けてるわ。黒いペチコートが横からチラチラ見えてるもの」
「ちょっと待ってよ」
激しく踊りながらも、手で触れると確かに布地に違和感があった。気になり始めると、ダンスが大きく遅れていく。
昨日客席に飛び込んだ際、衣装が椅子に引っかかって破れたのだ。
音楽に合わせて足を上げた次の瞬間、豪快な音を立てて裂け目が広がった。
さすがにこうなると、右手は押さえに回して、左手だけでダンスを続けることになった。
果たしてこの異常事態に観客は気づいているだろうか。早く曲が終わってくれないかと、そればかりを願った。
終了後バックステージに下がると、早速多香美がやって来た。
「黒沢さん、一体何をやっているのよ?」
「実はスカートが……」
みんなの前で、破れた部分を広げて見せた。
「まさか、その格好で踊ってたの?」
メンバーは一様に驚いた。
「黒沢さん、あなたはアラセブの価値を著しく下げているのよ。分かってるの?」
「すみません」
多香美は呆れた顔をしてその場を立ち去った。
代わりに羽島唯と児島華琳が傍に来て、
「ドンマイ、ドンマイ」
と優しく肩を抱いてくれた。
この後、すぐに握手会が開かれるため、スカートを直す暇はない。とりあえずスタイリストが安全ピンを使って応急処置をしてくれた。
握手券を手にしたファンがお気に入りのメンバーのレーンに並んだ。その列の長さこそがメンバーの人気度を表している。
さすがにリーダー須崎多香美をはじめ、最前列のメンバーには長蛇の列ができている。一方、杏奈のレーンには誰もいなかった。
隣にマネージャーがやって来た。
「お前、ファンサービスのつもりで、わざと露出してるんじゃないだろうな?」
何故か龍哉は怒っていた。
「そんな訳ないでしょ」
思わず大声になった。隣のレーンに並んだファンたちが一斉に目を向けた。
「あなたは誰の味方なのよ? マネージャー失格よ」
二人は喧嘩になった。
「いい加減になさい」
フィオナが仲裁に入った。
「フィオ、今日は何だか暇ね」
杏奈はあくびを我慢しながら言った。これまで握手を交わしたのは、ほんの数人しかいない。
「何が起きるか分かりません。こういう時こそ、しっかり気を引き締めてなさい」
小さな子どもが握手を求めてやって来た。しかし杏奈の顔を見ると、レーンを間違えたのか黙って戻っていった。そんな悲しい一幕もあった。
龍哉はたまにファンがやって来ると、その一挙手一投足に目を離さず警戒を続けていた。
休憩を挟んで午後の部が始まった。
すぐに奏絵から報告があった。
「大変よ。公式サイトで、昨日のコンサートでは杏奈が狙われて舞台から落ちたという発表があったわ」
それはフィオナの考えた、犯人を欺くための嘘である。
「そしたら、SNSで同情や哀れみの声が多数寄せられて、いつしか悲劇のヒロインになっているのよ」
そんな話をしているそばから、杏奈のレーンに人々が並び始めた。SNSで事情を知ったファンが集まってきたのかもしれない。
「昨日まではコンサートをぶち壊した張本人だったのが、今では同情すべき被害者になってるのよ」
「結構、ファンも変わり身早いわね」
みんなの興味は、黒沢杏奈が一体どんな人物なのかということだった。誰もが好奇心を隠せないといった表情で順番待ちをしている。
杏奈は、事前に運営者から教わった丁寧な握手をモットーに一人ひとりに応対した。
「お身体、大丈夫ですか?」
「卑怯な犯人に負けないで、頑張ってください」
「これからずっと応援し続けます」
ファンの声は意外と温かいものだった。
奏絵から再び報告が入った。
「杏奈、マズいことになったよ」
慌てているのか、声が裏返った。
「どうしたのよ?」
「今そちらに向かっているのよ」
「誰が?」
杏奈はファンに笑顔を絶やさず、手を差し伸べて訊いた。
「小柴内くん」
「何ですって」
アラセブ博士でもある同級生の名前に、思わず声が出てしまった。目の前のファンが何事かと驚いた顔をした。
龍哉はすぐに顔色を変えて、
「とりあえず俺は隠れるぞ」
さっさとその準備に取りかかった。
「ちょっと待ってよ。私はどうすればいいの? 隠れる訳にはいかないし」
「とにかく俺は一足先に行くからな」
「ちょ、ちょっと、一人にしないでよ。自分だけズルいんだから」
マネージャーはその場から離れた。逃げ足だけは速かった。
杏奈だけが一人残されてしまった。
「奏絵、何とか食い止められない? 時間稼ぎして頂戴。あと30分でイベントは終了するから」
「でも、どうやって?」
「デートに誘って、どこか他の場所に行くのよ」
「そんなの無理よ。日頃まともに話したこともないのに、いきなりデートとか不自然よ」
彼女も必死である。
「あっ、そうだわ。明日香ちゃんにあいつのカバンをひったくらせて、一緒に見当違いな場所を探すとか」
「そんな犯罪めいたこと、よく思いつくわね」
奏絵の呆れた声。
それでも、
「分かった。何とかしてみる」
と心強いひと声を発してくれた。
しかしすぐに、
「駄目だわ。引き留め作戦失敗」
「えっ?」
「偶然を装って声を掛けたんだけど、一緒にどうだって誘われちゃった。今そっちに向かっているところ」
「あのねえ、あんたも一緒に来てどうすんのよ」
「だって」
杏奈はマネージャーを呼び出した。
「ねえ、マスク持ってない?」
「いや、持ってないよ」
「買ってきてよ、早く」
しかし時すでに遅しである。今、最後列に小柴内と奏絵が並んだのが見えた。その後ろに明日香も続いている。
「もう間に合わない。何とか耐えしのいでみる。龍哉はこっちに来ちゃだめよ」
今、彩那はロン毛のウィッグ、黒縁の眼鏡で変装して、さらに普段縁のない派手な衣装で着飾っている。果たして、これだけのアイテムがどこまで通用するだろうか。
一人ひとり握手をこなしていくと、いよいよ小柴内と奏絵が迫ってきた。
「あごの辺りを手で覆ってはどうです」
フィオナからの提案。
「いや、運営側から両手でしっかり握手するように言われてるのよ。あごに手を当てていたら、何か考え事しているみたいで余計目立つわよ」
とうとう小柴内が前に立った。
「黒沢杏奈さん、ダンス頑張ってください。これからも応援してます」
少し緊張気味に言葉を発した。彩那は複雑な気分になった。
「どうも、ありがとう、ございます」
わざと低い声を出した。
悪友の手は意外と温かかった。こんな風に手を握ることになるとは思わなかった。
小柴内はじっとアイドルの顔を見つめた。それには思わず目を逸らした。
同級生はまだ何か言いたそうな表情をしていたが、横から奏絵が、
「後ろも詰まっていることだし、早く行きましょ」
と彼女には珍しく男子の腕を引っ張った。小柴内は明らかに高揚した気分で、足取りも軽やかに立ち去った。
(後ろは全然詰まってないっての)
「奏絵、どうだった? バレてないよね」
しばらくしてから小声で訊いた。
「うーん、どうなんだろう。アイドルと握手ができて、感激のあまり口も利けずにいるけど」
そこへ龍哉が何食わぬ顔で戻ってきた。
「危なかったな」
「もうバレたかと思って焦ったわよ。しかしなんでまた、こんな所で同級生と笑顔で握手を交わさなければならないのよ」
「まあ、そう言うなって。友人は大切にしておかなきゃだめだろ」
とマネージャーは言った。




