黒沢杏奈、アイドルデビュー(3)
「杏奈、早いうちに児島華琳と接触して、仲良くなっておきなさい」
指令長の指示が入った。
「了解」
早速目標の人物に近づこうとした時、何故か女の子たち全員の様子が一変した。誰もが入口の方を向いて、顔の表情を引き締めている。
「おはようございます」
メンバーの声が揃った。
慌てて目を向けると、ひときわ背の高い女子が姿を現した。化粧をしていなくても、整った顔立ちであることが見て取れた。暗闇から出てきて舞台照明がまぶしいのか、目を細めている。
特殊眼鏡は、四角い枠で顔を切り取って、その下に名前を表示していた。
彼女が須崎多香美、アラセブのリーダーである。足取りも軽く、真っ直ぐ杏奈の方へ近づいてきた。
「あなたが新人さんね?」
「黒沢杏奈です。よろしくお願いします」
多香美は険しい表情を崩さず、
「黒沢さん、アラセブは今や日本を代表する人気ダンスユニットにまで成長したのだから、しっかり気を引き締めて頂戴。私もリーダーとして厳しく当たるから、そのつもりでいて」
「はい。頑張ります」
杏奈は元気よく応えた。
「それでは、みんな揃ったみたいだし、新曲のリハ行きましょうか」
中西が声を上げた。
「はい!」
アイドルたちは一段と大きな声で応えた。
「そうね、黒沢さんは一番後ろの左端に入って」
中西は自然な調子で言った。もちろん彼には杏奈が警視庁から派遣されている捜査員であることは伝えてある。
「では、始めましょう」
華やかなセットの中に、今アラセブのメンバーが整列した。襲われた浅村、猪野島、笠郷の3人が不在の中、杏奈が加入して、総勢15人である。
中西の合図とともに新曲が流れ始めた。
その間もスタッフたちは電飾を取り付けたり、パネルを設置したりと準備に余念がない。建設機械を思わせるカメラ付き大型アームだけがリハーサルに付き合っていた。
リズムに合わせて、メンバー全員の身体が的確に動く。無駄な動きは一切ない。後方から見ていると、一糸乱れぬその姿に圧倒された。
杏奈は明日香との特訓を思い出し、身体に染み込んだ動きを再現するので精一杯だった。何とかスピードにはついていっていると思うのだが、他のメンバーとシンクロしているかどうかは自信がなかった。
幾度となくリーダー多香美の視線を感じた。やはり新人の動きは気になるのだろう。
一曲が終わると、中西が手を叩いて舞台に上がってきた。
「うん、なかなかいいよ。ただ前列3人は『揺らめいて』の所で、こう腕をしなやかに前に出してほしい。波に揺れるイメージね」
「はい」
該当者3人の声が重なる。
「それから最後列4人は、前に進む時、隣と歩幅を合わせて。中央部が少し遅れているので凹んで見えるよ」
「はい」
杏奈は身構えたが、振付師はそれ以上何も言わなかった。
「じゃあ、もう一度」
同じ曲が流れる。メンバーはもう一度踊った。
「いいよ、さっきよりもずっとよくなった」
中西は満足そうに拍手した。
「黒沢さんのダンスはどうですか?」
そう名指しで声を上げたのは、須崎多香美だった。
「ちょっとまだ緊張していて身体が硬いようだけど、徐々によくなってくるでしょう」
その言葉に、多香美は露骨に不満そうな顔をした。
「では、10分休憩しまーす」
すかさず、多香美が近づいてきた。
「黒沢さん、あのダンスは何?」
掴みかかるほどの勢いだった。
「確かに形は正しいけれど、まるで曲に乗れてないじゃない。緊張しているというより、そもそも音楽を無視している感じよ」
さすがにリーダーは見破っていた。
「そんなレベルでは困るのよ。私たちはトップレベルのダンスユニットなのだから」
他のメンバーたちの視線も杏奈に集まる。舞台には不穏な空気が流れた。
「分かりました。みなさんにできるだけ近づけるよう、頑張ります」
杏奈は素直に頭を下げた。
多香美は冷たい視線を投げかけてから、一人舞台を下りた。
新人アイドルはその場から逃げ出すようにスタジオの隅へと向かった。そこには龍哉が手を振って待っていた。
もつれそうな足取りで近づくと、タオルを渡してくれた。
「ダンスのことは気にするな」
開口一番、言った。
「お前、仕事のことを忘れてないか?」
「えっ?」
意味が分からなかった。
「お前はおとりとしてここに来ているんだ。犯人はお前を狙っているかもしれんのだ。それに対応する準備ができているのか、と訊いているんだよ」
「そ、それは……」
「今のお前はダンスに気を取られ過ぎて、周りが見えてない」
「さすがはマネージャー、痛いところを突くわね」
杏奈は我に返った。
確かに龍哉の言う通りである。自分はアイドルになった訳ではない。犯人逮捕のため、おとりとしてこの場にいるのだ。そんな基本的なことさえ忘れていた。
「分かったわよ。これからはちゃんと意識するわ」
「ああ、いつものお前じゃないから心配しただけだ」
「ありがと」
そこへ奏絵が入ってきた。
「それにしても、須崎多香美って威張り散らしているわね」
「まあ、リーダーだからそんなものでしょ」
「テレビで見るのとは大違い。アイドルの本性を垣間見た気分ね」
「奏絵、そのくらいにしなさい」
フィオナがたしなめた。
「はい、すみません」
その多香美は、今はプロデューサーの外山とセットの裏側で何やら打ち合わせをしている。彼女の視線が一度にこちらに向けられたので、杏奈はドキッとした。
「ヤバいわ。早速プロデューサーに直談判してるんじゃない?」
そう龍哉に囁くと、
「いや、ずっと様子を窺っていたが、外山の方から彼女を呼びつけたんだ」
しばらくして、その多香美が駆け寄ってきた。杏奈は心臓が縮む思いだった。
「黒沢さん、ごめんなさい。さっきは言い過ぎたわ」
「はい?」
「でも、これだけは覚えておいて頂戴。私たちはプロなんだから、どんな事情があるにせよ、常に最大限の努力をしなければならないってことを」
「はあ」
それだけ言うと、彼女はさっさと戻っていった。
「フィオ、これどういうこと?」
「ひょっとすると、プロデューサーが全てを喋ったのかもしれませんね」
「えっ、私がおとり捜査で加入しているってことをバラしちゃったっていうの?」
「おい、声がデカいぞ」
隣からマネージャーが杏奈の口を塞ぐようにした。
「彼には、メンバーに秘密にしておくよう約束をしてあるのですが」
「そうですよね。ひょっとすると、犯人はメンバーの中にいるかもしれないのだから」
奏絵が言う。
「あの子たちの中に?」
杏奈は思わず聞き返した。
「猪野島朱音の飲み物に毒を盛るなんて、なかなかできることじゃないわ。でもメンバーならそれも可能でしょ?」
「そりゃ、そうだけど……」
年齢も自分とさほど変わらない彼女たちが、果たして犯罪に手を染めるであろうか。杏奈には信じられなかった。
「外山がこちらに来ます。須崎多香美に何を話したのか聞いてみなさい」
フィオナが指示を出した。
外山は恰幅のよい身体を揺すりながら、照明の当たらないスタジオの隅へとやって来た。
「黒沢さん、もう気にしなくても大丈夫」
ウインクをして言った。
「さっき、リーダーには何を言ったのですか?」
「あなたが警察関係者とは言ってない」
「では、何て?」
「黒沢杏奈は昔、交通事故に遭って、その後遺症で思うように身体が動かせなくなってしまった、と言ったんだ」
「ちょっと待って下さい。そんなの嘘じゃないですか」
当人は声を荒らげて抗議した。
「しー」
外山は人差し指を口に当ててから、
「まあまあ、嘘も方便ってやつでね。それに、このくらいのエピソードがあった方が、芸能人としては箔がつくものなのだよ」
「でも、嘘はよくないですよ」
どうにも居心地が悪くなった。今後、メンバーからその話を持ちかけられたら、自分も嘘をつかなければならなくなる。
「いいんだよ。事件が解決したら、真実を公表すればいいだけさ」
外山は笑い飛ばした。




