黒沢杏奈、アイドルデビュー(1)
いよいよデビューの日を迎えた。
彩那と龍哉は担任に早退届を出して、昼過ぎには誰にも見られることなく校舎を抜け出した。生放送は夜8時からだが、そのリハーサルのため、4時までにテレビ局に入らなければならない。その前にマンションに立ち寄って、おとり捜査のための準備をする必要がある。
二人は揺れる地下鉄の車内で並んで立っていた。
「何だか、妙な気分よね」
龍哉の耳元にささやいた。
「何が?」
「あと数時間もしたら、私は一応アイドルになっている訳でしょ。ここにいる人の中にはそれをテレビで知る人もいると思うんだけど、今はそんな私にまるで気づいていないんだから」
「何を言いたいのかよく分からんが、いずれにしても今夜は芸能界に激震が走ることは間違いないな」
「それ、どういう意味よ?」
彩那は頬を膨らませた。
「冗談だよ、冗談。お前なら何とかうまくやれるだろう」
「本当に?」
「ああ、マネージャーの俺が言うのだから間違いないさ」
マンションの扉を開けると、そこには梨穂子の姿があった。休憩時間を利用して、警視庁から駆けつけたのだと言う。
「お母さん、制服がとっても似合ってる。何だか凜々しいわ」
初めて見る仕事着に、娘は正直な感想を漏らした。
「お前ね、そういう恥ずかしいことを言うのはここだけにしろよ」
兄は呆れた調子で言う。
梨穂子は少し照れた顔になって、
「そうよ、アヤちゃん。大人をからかうものじゃないの」
と、娘のおでこを指で軽く突いた。
「出動前にお腹が空くといけないから、お弁当持って来たのよ」
「お弁当って、例の冷たいやつ?」
以前警視庁で出された幕の内弁当を思い出した。初出動の際、家族四人が揃って食べたことがある。
「レンジで温めれば、そこそこ美味しいのよ」
「出先で適当に食うから、別にいいのに」
龍哉がぶっきらぼうに言うと、
「私だって、少しは二人の役に立ちたいのよ」
「そうよ、あんたにはお母さんの優しさが分からないの?」
そう言って、無神経な兄を睨みつけた。
彩那は自分の部屋に籠もると、おとり捜査に出動する準備を始めた。
数々の装備品は梨穂子から手渡される。
まずは制服を脱いで、内側にGPSが縫いつけてあるブラジャーを着用した。これにより、指令長は彩那の位置を正確に把握することができる。さらにこの厚めの下着は胸を大きく見せることに一役買っている。これは、できれば常用したい必須のアイテムである。
さらにウィッグを装着して、ロングヘアーに変身した。
「アヤちゃん、いよいよデビューするのね。何だか私まで興奮してきたわ」
母親は娘の着替えを手伝いながら言った。
最後の仕上げに特殊眼鏡を掛け、捜査班専用のスマートフォンを装備した。
梨穂子はすっかり仕上がった自分の娘を上から下までじっくり眺めた。それから一度無言で抱きしめた。制服の乾いた匂いが彩那を包み込んだ。
部屋を出て、スマートフォンを再起動すると、すぐにフィオナの声が飛び込んできた。
「梨穂子、分かっていると思いますが、デビュー後は、警察の制服でマンションに出入りしては困ります。犯人がどこで見張っているか分かりません。もしおとり捜査に気づかれたら、作戦は失敗です」
「はい、分かってます」
「でも、今日のところはいいんでしょ?」
彩那が軽い調子で言うと、
「次回からは、彩那の点数から引いておきます」
「ちょっと待ってよ、フィオ。どうして私の評価が下がるのよ?」
「現場に出ない梨穂子には、点数の付けようがありません。よって母親の減点は娘が背負うことになります」
「どんなルールよ、それ」
彩那は鼻から息を出した。
「さあ、もうそろそろ食事をして出掛けないと」
梨穂子が慌ただしく言った。
「まさか、お母さん。テレビ局までついて来るんじゃないでしょうね?」
「いくら何でも、そんな暇ないわよ。これから仕事に戻らないといけないんだから」
聞けば、警視庁までは車で5分。彼女の持ち場は通信指令室である。そこで都民からの110番通報を受け、現場に警官を向かわせている。
「夕飯はこの後奏絵ちゃんが来て、作ってくれるからね」
「一人で大丈夫かしら?」
「心配要らないわよ。明日香さんも一緒だから」
彼女が傍にいてくれたら安心である。危険に晒されることはないだろう。
「今夜のアラセブ、ちゃんとビデオに予約しておいたから」
「そんな家族の恥部をわざわざ残さなくてもいいんだよ」
着替えを済ませた龍哉が口を挟んだ。
「こら、そういうことを言わないの」
母親は息子の頭を軽く叩いた。
「それじゃあ、お母さんはもう行くけど、応援しているから頑張ってね」
「大丈夫よ。任せておいて」
梨穂子は笑みを浮かべると、慌ただしく出ていった。
「ふう」
部屋に静けさが訪れると、彩那は大きくため息をついた。母親の前では努めて元気に見せていたのである。
龍哉はそんな妹の顔を覗き込んだ。
「何よ?」
「お前も、お袋の前では本心を見せないんだな、と思って」
「だって、お母さんには余計な心配させたくないじゃない」
龍哉は真面目な顔で聞いている。
「家族に自分の悩みを分かってもらうのって難しいわよね。必要以上に気に掛けてもらっても困るし」
「それじゃあ、兄貴として言わせてくれ。大丈夫、安心しな。俺はお前の味方だ。もし変なダンスを笑う奴がいたら、とっちめてやる」
龍哉は笑顔でそう言った。
そんな一言が、今はとても心強く感じた。やれるだけのことはやってみようと思う。
(しかし、変なダンスって、もっと他に言い方はないの?)




