心の内に潜むもの
エドガーと父の間で、そんな話があった頃。
クリストファーは一人、王宮の奥にこもっていた。
(……あいつら全員、俺を馬鹿にしやがって!)
心の底に淀むのは、泥のように醜い感情。
初めてシルヴィアーナを見た時、なんて美しい少女だと思ったことを今も覚えている。神が作り出した最高の芸術作品だとも思った。
まっすぐにこちらを見つめる紫水晶の瞳。艶やかな黒い髪は、瞳と同じ色のリボンで飾られていた。くるりとカールを描いた髪を肩から払いのけ、背筋をまっすぐにして立った姿は、年下の少女ながらも圧倒された。
瞳に込められた強い意思の力に、その時のクリストファーは、何も言えなかったのかもしれない。
(……俺は、この娘にはかなわない)
二歳年下の少女。家臣の娘。
それなのに、目を合わせた瞬間敗北したように思ったのを、二十歳を過ぎた今でも覚えている。年下のくせに、彼女の放つ存在感は圧倒的だった。
月に一度、王宮に招いて顔を合わせる。大きな瞳は、いつだって真正面からクリストファーをとらえてきた。
それは、王族に対する媚びへつらいの感情ではなく、クリストファー本人を見定めようとしている。そんな気がしてならなかった。
彼女のことを、恐ろしく思うようになったのはいつだろう。
彼女が学園に入学してからだろうか。
公爵家の一人娘は、クリストファーの恐れていた通り、彼をやすやすと越えてきた。
成績は常に優秀。礼儀正しく、おごり高ぶらず謙虚。
優雅な微笑みは、一瞬にして周囲の生徒達をとらえてしまう。
だが、その反面、クリストファーを見る目は厳しかった。扇越しにこちらを見る目には、なんの感情も浮かんでいない。
彼が三年かかって身に着けたことを、彼女は一年もたたないうちに完全に自分のものにしていた。未来の王太子妃としての教育を受けるために、王宮に通っていたため、他の学生の半分くらいしか講義を受けていないにも関わらず、だ。
(……いつか、王家は公爵家に乗っ取られる)
そんな恐怖が、いつしかクリストファーを支配するようになっていた。
彼の方が年上だったから、シルヴィアーナと顔を合わせる機会が少なくなって、ほっとしたというのもある。
そんな時だった――カティアと顔を合わせたのは。入学式の時間も近いというのに、学園内で迷子になり、焦った挙句転んでひざを擦りむいた彼女を大講堂まで案内したのが出会いだ。
『助けてくださって、ありがとうございます』
平民出身の彼女は、一年間だけ聖エイディーネ学園に通う形で編入してきた。新入生を迎えた当日、出会ったのは運命だと思った。
彼女の側にいると、楽に呼吸することができる。
有能な回復魔術の使い手。シルヴィアーナとは違う、素朴な愛らしさ。
『私、何も知らなくて――殿下が親切に教えてくださるから、なんとか講義についていくことができるんです』
なんて、愛らしい笑顔で言われたらなんだってしてやりたくなる。王族であるクリストファーが、護衛をつけてダンジョンに入るのはむしろ推奨されていた。
己を鍛え、いざという時最前線に立つというのは、王族貴族の義務だ、という理由で。それは、長い年月の間に、王族や貴族の方が、平民と比べると魔力が高く、有能なスキルを持っていることが多いからという理由だった。
シルヴィアーナやエドガーと比較すると凡庸、と言われたクリストファーでも、自分を鍛えることは、王族の義務とさえ言われていたのである。
『ねえ、クリストファー様。私、もっと自分を鍛えたいんです――だから、行ってみませんか? 新しいあのダンジョンに』
その言葉は、クリストファーを魅了した。
新しいダンジョンの踏破。それは、冒険者達にとって最大の名誉とされている。
『誰も見たことのない、新しい景色を見ることができるんですよ。私、クリストファー様とその光景を見てみたいです』
誘惑の言葉は、あまりにも甘かった。
カティアを鍛えるという名目があれば、ダンジョンに入る許可は簡単にとることができる。新しいダンジョンを踏破する名誉をカティアに与えてやりたいと思った。
そして、新しいダンジョンを踏破し――その時、呪いを受けたのだと周囲の者達は言う。
『私、シルヴィアーナ様のことは嫌いです。だって、私にいつも意地悪をするんですもの。平民だから、マナーがなっていないって言われたり、大切な学校の道具を壊されたり――』
周囲の者を魅了する呪い。その呪いに、クリストファーもむしばまれたそうだ。
まさか、彼女がS級冒険者だなんて思っていなかった。婚約破棄をたたきつけ、あの人形めいた顔が崩れるのを見たかった。
糾弾していたはずが糾弾された――あの時のことを思い返せば、今でもはらわたが煮えくり返りそうになる。
(つぶしてやるつぶしてやるつぶしてやる……)
けれど、それにはどうすればよいのだろう。
「クリストファー様、お会いできてよかった!」
不意に、懐かしい声が耳を打ち、クリストファーは顔を上げる。遠いエイディーネ神殿に監禁されているはずのカティアがそこにいた。
「どうして、ここに?」
「お会いしたくて、神殿を抜けてきちゃいました!」
胸の前で両手を組み合わせ、うるんだ目でクリストファーを見上げる彼女は、最後に見た時と全く変わっていなかった。
「そうか。会いたかったか」
「ええ。それで――神殿にいる間に、私、考えたのですけど」
呪いの影響はなくなったはずなのに、カティアの声はクリストファーの耳には甘く響いた。
「王宮の図書館には、いろいろな本があるでしょう? きっと、そこには使える魔術の本もあると思うんです。禁書とか」
なぜ、それをカティアが知っているのかなんて、クリストファーにはわからない。ただ、彼女の声を聞く度に、心の奥の方からもやもやとしたものがこみあげてくる。
「そうだな。いろいろある――」
どす黒い感情を抱えたまま、クリストファーは王家の禁書が保管されている図書館への秘密の通路を降りていく。
夜遅くだから、図書館の職員もいない。図書館の扉には、王家の人間ならば問題なく扉を開くことのできる魔術がかけられている。
そうやって図書館の扉を開き、奥へと入った。禁書の保管庫なんて、もう何年も誰も開いていない。中は埃が積もり、カビの臭いもする。そこに並ぶのはすべて、世の中から抹消された魔術ばかり。
(俺はもう、辺境にやられるしかない――だが、その前に)
辺境に追いやられるのはまだ諦めがつく。だが、その前にあの高慢な娘に一矢報いてやる。
ちゃっかり王太子の座をかすめていったエドガーにも。
弟にもいつだって劣等感を刺激され続けてきた。
同じ両親から生まれて、どうしてこうも違うのだろう――と、貴族達がささやいているのだって知っている。
(……ひとつくらい、面白いことをやっておこうじゃないか)
今までは勇気もなかったが、最後に一つ、面白い置き土産を置いてやろう。彼らがどうそれに対応するか。それはまた別問題だ。
夢中になって、禁書の保管庫の中を歩き回る。
「ねえ、クリストファー様。これなんて、どうですか?」
カティアが、クリストファーに差し出したのは、名前すら失われた魔術書だった。
「この魔術、クリストファー様なら絶対成功すると思うんです。だって、クリストファー様は素晴らしいんですもの」
いつだって、カティアはクリストファーのことをすごいと褒め称えてくれた。そんなことをしてくれたのは、彼女だけだ。
「楽しみ――すべてが終わったら、迎えに来てくださいね? そうしたら、私、クリストファー様についていきますから」
そう言って微笑んだ彼女の姿が、空中に溶けるように消えたのを、クリストファーは認識していなかった。
”普通”の人間なら――そんなこと、できるはずないのに。





