33 嬉し恥ずかし
鈴宮を誘うのにバッティングセンターを選んだのは正解だった。俺にとっては十分に勝手を知っている場所で、鈴宮の前でおろおろしないで済んだから。彼女にとっては、一度来たとはいえ、まだまだ目新しくて、小さなことにも驚いたり楽しんだりしてくれたから。今日は特に防具をつけてキャッチャーの練習をしているおじさんがいて、鈴宮は目を丸くしてその人を見ていた。
バッターボックスには交代で一度ずつ入った。
俺は彼女にいいところを見せたかったけれど、そんなことを考えていたら、いい当たりなど出るわけがないのは当然だった。ほかの客も俺の胸中を見透かして冷笑しているような気がして、緊張のあまり大汗をかいてしまった。けれど鈴宮は、ボールがバットに当たって前に飛んでいくだけで手を叩いて喜んでくれて、ちょっと格好悪いなと思いつつ、やっぱり嬉しかった。ついでに、「こんなに可愛い女の子を連れてるんだぜ!」と――まあ、周囲はおじさんばかりではあったけど――心の中で自慢した。
鈴宮の方は、今日はプレッシャーが無いせいか、とてもリラックスしてバットを握っていた。ヘルメット姿も可愛らしく打席に入った彼女は、前回とは違う凛々しい表情をしていた。空振りもたくさんしていたが、肩の力が抜けて、のびのびとバットを振っては楽しそうに笑った。俺はうしろから声をかけながら、彼女が打席に入るときに脱いだカーディガンを持っていた。そして、やっぱり周囲には、俺たちはバッティングセンターでデートをしている高校生に見えるんだろうな、なんて思って、くすぐったい気分に浸っていた。
「早く梅雨が明けてほしいよ。」
ベンチに並んでの休憩中、雑談の途中で俺が言った一言に、鈴宮が素早く反応した。
「え、あたしはイヤ。」
眉をひそめてはっきり異議を唱える彼女はとてもめずらしい気がして、俺は彼女の顔を見つめた。それに応えるように、彼女はさらに言った。
「夏休みまで、ずーっと梅雨が明けないでほしい。」
「えぇ?」
無茶な注文に思わず笑ってしまう。
「それじゃあ、俺たち練習ができないよ。ずうっと筋トレばっかりじゃ困る。」
「え〜? じゃあ、昼間は降って、放課後になるとやむとかでもいいけど。」
「あはは、何だよそれ? 何が嫌なの? 体育?」
「……そう。」
言われてみれば、鈴宮は体育は苦手そうだ。
「でも、雨降ってたって、体育館でやるじゃん。」
「それは一年中同じだもん、諦めてるよ。」
「じゃあ、なんで? …ああ、日焼けするからか。」
確かに女子はよく「紫外線が〜。」なんて言っている。
「そんなのは別に……。」
どうも鈴宮の歯切れが悪い。
(まあ、無理に聞くのも悪いかな。)
言いたくないこともあるだろう。そもそも他愛ない雑談なのだから、ここで彼女が言葉を濁したからと言って、特に不快にも思わない。
俺はそこで話を切って、ベンチにのんびりと寄りかかった。隣でぼんやりと考え込んでいる彼女を斜め後ろからそっと見つめるのは、予想以上に幸せな気分だった。俺の存在を忘れたように考えごとをしていることが、俺が隣にいることを当たり前のこととして受けとめられているような気がして。
「ふぅ。」
と、ため息をつきながら、彼女が隣に寄りかかる。と思ったら、くるりとこちらに半身を向けた。不満そうにとがらせた唇が可愛らしい。
「どうした?」
「だって、プールがあるんだもん。」
「プール?」
「梅雨が明けたら、体育はプールでしょ?」
まださっきの話題が続いているらしい。相変わらず唇をとがらせて、まるで小さい子どもみたいだ。
「嫌なのか?」
「すごーくイヤ。」
「ああ、泳げないのか。」
「違うもん。」
ますます小さい子みたいになってきた。彼女の拗ねた態度が楽しくて、ちょっと笑ってしまった。その空いた数秒を埋めるように、彼女が続けた。
「水着になるのがイヤ。」
「ああ。」
(そういうわけか。)
そういう話もたまに聞こえてくる。主に体型がどうとかって。
「別に気にすることないだろ? 女子しかいないんだし、外から見えないじゃないか。」
そうなのだ。うちの学校のプールは外側がちゃんと囲われている。それを確認したとき、そうだろうと思ってはいたものの、男はみんな密かにがっかりしたのだ。
けれど鈴宮は、俺の指摘にまるで睨むような顔で反論した。
「女子ばっかりだから余計に気になるんだよ。」
「そ、そうか…。」
その勢いに、それ以上は何も言えない。何が問題なのか、さっぱり分からないけれど。
そんな俺の様子が気になったらしく、彼女は1、2秒俺の顔を見ていてから唐突に言った。
「あたしね、胸が無いの。」
「……え?」
(え? え? え?)
突然のカミングアウトに頭の中が混乱する。
驚いて彼女の顔を凝視するけれど、彼女にふざけている気配は無い。聞こえた言葉の漢字変換が間違っていないかと何度も確認。でも、単純明快な音の響きには、ほかに当てはまりそうな漢字は出て来ず……。
「む、む、」
(いや、口に出せない。具体的過ぎて。)
「なな、な、無いって…あの。」
下に向かおうとする視線を必死で彼女の顔に固定する。
彼女はほんの一瞬考えて、俺の耳に口を寄せた。近付いてきた彼女の……話題の部分に視線が行ってしまい……。
(ああ、確かにあんまり……。)
そう思った罪悪感で目を閉じる。
「あのね、バストが小さいの。」
ダメ押しのように鈴宮が囁いた。
(どうフォローしろって言うんだ!!)
たちまち首から上が熱くなった。色が白ければゆでダコのように赤くなっていることが分かるだろう。でも、一年中日焼けしている俺では、よく分からないかも知れない。それもいいような悪いような、微妙なところだ。言った本人は恥ずかしがる様子はなく、相変わらず拗ねた顔をしているだけ。どうも、彼女と俺は恥ずかしいポイントが違うらしい。
「あ、そ、そう、なんだ?」
なんだかもう、よく分からない。分からないけれど、ここはたいした問題じゃないように、軽く流してしまうのがいいような気がする。
「でっ、でも学校の水着だろ? そんなに差なんか出ないだろ。」
俺のやっとのフォローに、彼女は不満顔のまま息を吸い込んだ。どうやら俺のフォローがお気に召さなかったようだ。
「みんな同じだから差が出るんだよ〜! みんな<胸! ウエスト!>みたいなのに、スクール水着だと、あたしはきっとナスみたいなんだから〜。」
(ナスって!)
具体例を挙げられたので、彼女の悩みがよく分かった。でも、それをそのまま肯定するのはやっぱり失礼だろうし…。
「い、いや、ちゃんと出っ張って、いやそのあの…」
「それはそうだけど……。」
そこで黙られて間が空き、ますますどうしたらいいか分からなくなった。
「あ、じゃあさ、思い切って詰め物でもしちゃえば? あはははは!」
もう、冗談に紛らせてしまえ! …と、思ったのに。
「スクール水着にはそんな余地は無いもん。」
(冗談が真面目に返って来た!?)
策が尽きた俺の隣で、鈴宮は憂うつそうにため息をついた。俺ももう何も思い浮かばずに、噴き出した汗を拭きながら、同じようにため息をついてベンチに寄りかかる。
(俺がちゃんと彼氏だったらなあ……。)
そう。俺がちゃんと鈴宮の彼氏だったら――。
こんなときは彼女をそうっと抱きしめて、「俺はそのまま全部好きだからいいじゃん?」って言えるのに。
「なあ、そんなに気にするなよ。」
静かに言うと、彼女は思い出したようにハッとしてから俺を見て、ようやく少し困った微笑みを浮かべた。
「そんなことで鈴宮の価値が決まるわけじゃないだろ?」
「そうかな?」
「そうだよ。」
だって、俺は今まで鈴宮のその……サイズを気にしたことなんか無かったのだから。
「そうかなあ。」
ぼんやりと彼女が言う。
「でも、やっぱり男の子は胸の大きい子の方がいいよね?」
「いや、だから!」
俺の話を聞いてなかったのか? まあ、そこまではっきりは言わなかったかも知れないけど…。
「男が体ばっかり見てるわけじゃないぞ。外見よりも中身だ。」
言い切ってから、それに鈴宮は外見だって可愛いし……と言ってしまおうかと思った。けれど、やっぱりできなかった。困ってしまった俺を少し無言で見ていてから、彼女はくすくす笑い出した。
「ブラの中身?」
「ばっ、おい!」
慌てる俺に構わず彼女は笑い続ける。そこで気付いた。彼女は俺をからかって面白がることで機嫌を直そうとしているのだ、と。
ほっとして力が抜けた。彼女もほうっと息を吐き、隣でゆったりとベンチに寄りかかる。そのまましばらく二人でぼんやりしていた。
無言でいる時間は不思議に満ち足りていて、ふと、俺と彼女は同じ気持ちでいるのだと思った。
「なあ、猫。」
前を向いたままそっと呼びかける。
「ん? なあに?」
彼女も前を向いたまま応えた。
「なんで俺に話す気になった?」
「……え?」
「さっきの話。俺……男なのに。」
何秒か考えてから、彼女がにっこりと俺を見た。
「佐矢原くんだから、かな。」
トクン……と、心臓が鳴った。
(やっぱり彼女も――)
背もたれから体を起こし、彼女の肩に腕をのばそうとした。そのとき。
「男の子だけど男の子じゃないっていうか…。」
「ん? あ? それは……?」
俺の腕は上がらないまま止まった。
「佐矢原くんは、佐矢原くんだから。」
まっすぐ俺を見ている彼女。その瞳は今までに何度も見てきた彼女らしい無邪気さをたたえている。切ない想いをうかがわせる表情は一切無く……。
「ああいう話をしても大丈夫っていうのかな。安心なんだよね。」
そう言って嬉しそうに笑った。
「ああいう話ってね、女子には逆にできないの。」
「なんで?」
「だって……、なんかね、同情されるっていうか……。」
そこで考えるように言葉を切ってから、俺に向かってにっこりした。
「でもね、佐矢原くんなら平気。女の子とは違うから。」
「そう、か。そうなんだ。」
背中はすとんとベンチの背もたれに逆戻り。腕は力なく脚の上へ。
(でも、男でもないんだな…。)
―――危険度ゼロ。
汰白の言葉が太字になって浮かんでくる。
こういうことなのだと、あらためて思った。警戒する必要が無いから仲良くはなるが、男のうちに数えられてはいない。
「でも、びっくりさせちゃった? ごめんね?」
彼女が少し身を乗り出して、心配そうに尋ねている。
(こんなに近いのに。)
手を伸ばせば頬に触れられる。抱き寄せてキスすることだってできる。
「いや、いいよ。」
微笑んで言いながら、そっと彼女の頭をぽんぽんと叩いた。彼女がちょっと驚いてから微笑む。
(俺の、猫。)
どうせ男として意識されていないなら、これくらいのことは許されるよな。




