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第十三章

 (めい)(ふぁ)は腹を押さえてその場に(うずくま)る。

 息ができない、視界が回る。身体に力が入らない。


「冥華!」

 (ふぅ)(ふぁん)(はぉ)が衣が汚れるのもかまわず冥華を抱き留め、座って(ひざ)の上に頭を乗せた。


 (ほん)(しぇ)が、(えり)()を抜いて冥華の腹に当てて強く押さえる。


「す……すごい痛い……」


 宮学が低い声で言う。

「黙れ、冥。(はい)(たん)、冥の術具持ってこい」

「わかった」

 と(あせ)った声で黒潭が言って駆け出そうとしたが、冥華が止めた。


「行かないで……黒潭、話、話が、あるの……」


 どうしたらいい、と、黒潭は宮学を見たが、宮学も返事ができなかった。(みん)(すん)が、


「俺が行く」

 と駆け出した。


 (ちゃん)(ぐい)が響く声で言う。

(てん)()をここへ! 急ぎ、典医をここへ!!」


 黒潭は、冥華の横にしゃがみ込んで、血に濡れるのもかまわず冥華の手を取った。


「冥」

「私ね、ずっと、あんたに、謝りたくて」

「なんでさ」

「ねぇ、今すごい痛い」

「じゃ、黙って」

「言っておきたかったの。どっちにしろ、私そろそろ死ぬから」

「黙って」

「聞いてよ」


 冥華はぐすんぐすんと泣きながら言う。


 (みかど)(ほん)(ろん)、唱亀は、まだ警戒を解かず辺りを見回している。哄竜は(ほう)の袖で、剣の血を(ぬぐ)ったが、まだ(さや)には収めない。


「あのね、あんたを(ぐぉ)にしてしまって、ごめんね」


 言われて黒潭は、目を大きく開けて言った。

「どうしてさ。俺は冥に半分命をもらったよ」


「私が、もっと、かしこくて、もっといろんなことがわかってればよかった。でもね、おなかがすいてたの」

「わかってるよ。それに、悪いってんなら、謝れって言うなら、ここにいるこいつだ。帝だ。こいつさえ(おきて)をなくしていれば、どうせ有名無実の掟を、なくしてさえいれば」

「そうかもしれないけど、私も、だめだった。おなかがすいてたの。だから。だから、ごめんね」


 黒潭は大きな目からボタボタと涙をこぼして言った。

「おなかがすいてるのは、悪いことじゃないだろ。そんなふうになったのは、だって他のなにかのせいだろ。おなかがすいてることに、つらいことに、がまんなんかできるわけないじゃないか、あやまんないでよ、冥は俺のこと助けてくれたんだよ、それだけがほんとなんだ、あの時、大人の誰も、俺を助けなかった。冥だけなんだ」


「……宮学と、(らお)()もたすけてくれたよ……」

「あいつらおもしろがってただけだろ!」


 宮学がおろおろと一応言う。

「い、いや、そんなことは」


 冥は言う。


「唱亀、さま……」

 唱亀が、静かに近寄って、黒潭の隣にしゃがみ込む。

「なんだい」

「耳飾りを、お返し、しないと」

「君にあげるよ冥華。二人でした冒険の記念だ」

 優しく、(ささや)くように言われて、冥華は微笑んだ。

「ありがとう。楽しかった」

「そうだね。一人じゃあれは、つまらなかったね。二人でよかったね」

 ふふ、と冥華は笑って激痛に身を(よじ)った。

「動くな」

 宮学は真っ赤に染まった衿布をまだ押さえている。哄竜は自分の衿布を外すと宮学に、

「使え」

 と渡した。

 冥華は剣を下げたままの哄竜に言った。


「哄竜さまも、猫を飼えば、いいのに……」

「毒で死んだらかわいそうだから、飼わないんだよ」

「あなたは、もう、そんなことをされない、のに」


 冥華はぼんやりと空を見上げた。

 広くて高い、午後遅くの空だ。

 鳥が飛んでいく。

 きれいだ。

 (いく)()にも雲が連なって、とても高い。

「哄竜さま、唱亀さまを、大切になさって。このひと、ばかだから」

「うん、知っているよ、道士小(しゃお)(ちぇ)。それと、お前は死なないからな」

 哄竜が言い、冥華はぼんやりする。

「ほんと?」

「胸なら死ぬが、腹なら死なん。ましてや(うぇん)(じゃん)の短刀は(やいば)が短い。さらに言うが、私はお前のことをまだ何も知らない、だから死なないさ」

「……(ごう)(まん)にも、ほどが」


 哄竜が笑う。

「なにしろ(ほう)(こく)の第一皇太子である」


 鳴鳳と(しん)(りん)が中庭を全速力で駆けてくる。遅れて(りー)(ふぇい)も駆けてきた。あるまじき行いである。


「冥華さま! 冥華さまあ!」

 薫玲は泣き顔で、胸に術具を抱き締めるように抱えている。宮学は手振りで薫玲を呼ぶ。


 薫玲は唇を引き結んで宮学に、術具の箱を渡した。箱の底にはさらに小さな箱があって、札で(ふた)がされていた。札を()がすと、札が宮学の両手を包んで燃えたように見えた。


「冥、お前に一応外科用の道具を持たせといてよかったな。俺の道具は宮廷のうんと奥だから」

 宮学は箱の中から針と糸を取り出す。


「清潔な布じゃんじゃんくれ」

 薫玲が宮殿に駆け戻る。礼貴が(くん)の下の下着を破いて渡した。

「身につけたばかりです」

「ありがとよ」

 宮学が布で血を()いて傷を()る。


「冥。これなら助かるぞ。腹膜も内臓も脱出してないし、大動脈も傷ついてねぇ。あとは細菌感染だけ気をつけりゃァいい」


 言いながら、冥華の傷を、宮学は縫い合わせる。その場にいる全員が、知らない治療方法に息を呑んで見つめた。

 帝が感心する。


「なるほどなあ! 傷は縫ってしまえばいいのだな」

 哄竜が(うなず)く。

「ふむ、思いつかなかった。糸はどうするのだ」

「傷が(ふさ)がったら抜くんです」

「あー、ひと目ひと目、結んで止めるわけか。なるほど」


 冥華は痛みと失血で朦朧(もうろう)とし、もはや誰が何を言っているのかわからない。

 冥華は一言だけ言った。

「もう、だいじょうぶ、ですか」


「もう、大丈夫」


 誰が言ったのかわからなかった。

 誰が言ったのでもよかった。

 ここには、信じられる人だけがいるから、誰が言ったのでもよかった。


 冥華は安心して、そして何も解らなくなった。

 ただ、最後にこれで自分は死ぬんだなあと思った。

 大丈夫なのはみんなだけど、自分は死んでしまうんだなあと思った。

 つまらないなと思った。





 この数日後に(とう)(ぐう)から馬車で(のう)(ちゅん)(びー)()が到着する。一人の童子を同行していた。

 歓迎の、歌と踊りの儀式の後、帝と湖皇后が直々に迎える。


 湖皇后と(のう)(ちゅん)(びー)()がお互いの顔を見た。

 二人とも、穏やかに微笑んで再会の挨拶をした。

 お互いの手が、抱きしめ合うことをこらえて白く震えていた。


 儀式を済ませて人払いをし、帝と湖皇后、(のう)(ちゅん)(びー)()と、連れの童子は冥華が眠る宮廷の奥の部屋に向かった。


 静かで清潔な部屋に寝台があって、冥華は仰向けの姿勢で眠っていた。

 瑙正一品は、冥華の呼吸を確認してほっと息を吐く。


 冥華の寝台から少し離れた場所には(つい)(たて)があって、卓と寝椅子と椅子が置かれている。


「あれはなんですの?」

 と瑙正一品が問うと、帝が答えた。

「息子たちが夜になるとあそこに集まってな。いろいろ話をしているよ」

「冥華は、皇太子さまたちに気に掛けていただいているのですね」

 瑙正一品が言い、帝が頷く。 

 童子は何も言わず瑙正一品の後ろにいた。()(すい)色の着物を着た、六歳ほどの男子だ。



 時間は少し戻る。

 冥華が刺された夜だ。

 衝立の後ろでは皇太子たちや宮学、黒潭が座って酒を()み交わした。



「では、全て話してもらおうか、()(ほん)(しぇ)

 哄竜が有無を言わさない雰囲気で言い、宮学は気の抜けた顔で言った。

「いいよ。俺の話するんでいい?」

「噓や誤魔化しがなければな」

 黒潭が言う。

「おれが知ってる範囲で間違ってたら、言うからな」

 宮学はうんうんと頷いて言う。

「冥華と初めて会ったのは、俺がこっち来てから十年以上は過ぎてからだ。俺、旅行先ででかい地震にあってさ。それはこことは違う世界で、気がついたらこの国にいたんだ」

 突飛な話ではあるが、黒潭が何も言わないのなら噓ではないのだろう。全員がそう思って黙って聞いている。

「んでまー、俺、もてるから、何年か女の子に食わしてもらってたんだ。んで、言葉もね、そんときに覚えた。そのうちにちょっといろいろこじれて(にん)(じょう)沙汰になって、山に逃げたら当時まだ普通にヨボヨボだった老師に拾われて、老師ってのは冬宮で雇われてる(とん)(らお)()なんだけど、そしたら俺を拾った老師が若返って」

「え、なんでだよ」

 鳴鳳が言って宮学が肩をすくめた。

「いや、わかんないけどなんか」

 哄竜が興味深そうに笑う。

「ほほう気持ち悪いな」

 宮学は、あんたも気持ち悪いよとつぶやいて笑った。唱亀と鳴鳳が少しばかり()(しき)ばんだので、宮学は身をすくめ、黒潭はめんどくさそうにその情景を横目で見た。

「なんかね、俺のね、異世界の人間の気? が強かったんだって。それで老師は力をつけて、若返った。俺は老師に弟子入りして、二人で修行しながらフラフラしてたんだけど、(ふぅ)(ふぁん)(はぉ)家に住まわしてもらってた時期があってさ。そこに(ちゅん)(ふぁ)がいて。充華と一緒に老師に道術習ってたら雨が降って帝が来て、と」

 皇太子三人がここまで聴いてほぼ同時に、ああそういう流れかと頷いた。

「ほんで俺は充華付の世話役として、一緒に宮廷に入ったんだけど、ちょっと……まあなんていうか、その、充華の代わりに、毒っていうか呪い食らっちゃって、山に()もんなきゃいけなくなったのな」

「何で山に籠もるんだい」

 唱亀が言う。

「前からふしぎだったんだ。物語の道士たちもそうだよね。何かあると山に籠もるよね。あれ、なんでなんだい」

 宮学は少し考えてから手を動かして言った。

「……あの、山って異界なんだよ」

「ほう」

「なんか、変な感じするだろ」

 哄竜が笑顔で言う。

「しない」

 鳴鳳がそっと言う。

(だー)()、今は黙ってて」

「あ、すまん」

 哄竜は笑顔のまま頷いた。

 唱亀と黒潭は同じ表情をして黙っていた。

 宮学は続ける。

「で、道術というのはその異界から力をとって、こっちに出すんだけど、レートがあって、あっちの力をこっちに出すとお得なのな」

「れーと」

 哄竜が笑顔のまま言う。唱亀が少し考えて言う。

「外貨交換のようなことかな?」

「そうそれ! 西域の金貨一枚がこっちで金貨二枚だったりするだろ。そういうこと! あ、ここでこっちの取引の不平等の話にすんなよ。ややこしいからな!?」

 皇太子たちはいろいろ言いたいのを飲み込んだ表情で黙った。

「で、山に入るとそのお得力が増すの! ここまでいいかな!? 話進めていいかな!?」


「よしよしかまわんよ」

(にー)()

大哥(だーご)

 長兄にそのつもりがないのはわかっているが、まるで、ただ話をかき混ぜているような塩梅になっている。弟二人がたしなめね調子で言う。


 宮学は、哄竜の前ではいろいろと自制して話を進めようと決心した。

 黒潭は退屈しのぎに、目の前に置かれた、揚げた魚の骨をパリパリと食べている。

 宮学は話を進める。

「そんで、俺は山に籠もってたんだけど! ついでに老師も山に籠もったの! 俺の手当てとかのために! ほんでその山をね、一応冬宮の近くのにしてたんだよ。ちょうどいいとこあったし、あんまり充華と、でなきゃ(すい)(りょう)、どっちかとは離れたくなかったしな。そしたら冥が来て、そんときまだ冥、子供だったんだけどさ」


 鳴鳳が言う。

「って、あんたは何歳なんだ?」

「わすれた。なんか全然年取らねぇんだよなあ。まあ俺はともかく、黒潭、あんとき冥いくつだ」


 黒潭が言う。

「三歳か四歳だったって」


「そうそう、冥もちびっこくてがりがりだったのに、生まれたばっかの黒潭を抱いてて、夜でさあ、山でさあ、普通に野犬とか(しょう)々(じょう)とかいるしさ。んで黒潭はもう死んでたんだ。(はん)(ごん)の術は禁忌だけど、冥が私の命を半分やるからって言って、まあ(こよみ)やらいろいろ良くて、完全な反魂は無理だけどちょっと近くにいた猫の魂ぶっこんだら成功して。そんで冬宮に戻ったの」


「恐喝かい?」

 唱亀が言い、宮学が大きく息を吐いた。


「なんでそうなるかな。疑り深いな第二皇子。違うよ。そもそも俺は充華と翠柳の協力者だ。あいつらマジおっかねぇ。裏切れねぇからな。その俺が、冬宮からきた子供らを冬宮に返すのは当たり前だろ。そしたらなんかもう大歓迎されちゃって。やっぱりみんな後悔したとか言って……」


 宮学は暗い目をした。酒を三口飲む。


「んで、老師は冥を弟子にとって、俺はそのあとも復活に少しかかったけど、宮廷に戻って充華と一緒に宮廷の道士やって……でも、おまえらとは顔を合わせないようにしてたけど」

「なぜだい?」

 唱亀の問いに、宮学は苦笑した。

「ダブルスパイするのは予定のうちだったからな。おまえらと仲良くなったら、おまえらが悲しむだろと思って」

「だぶるすぱい」

 哄竜が言って考え込む。

「二重影のことだと思う」

 鳴鳳が言って、哄竜と唱亀がなるほど、と鳴鳳を()める。

「うん、うん、多分それな、ごめんな、わかりやすく言えなくて」

 宮学はつまみの木の実をパリパリ食べた。

「で、宮廷内をいろいろ()ぎ回ってわかったのは、宮廷内の誰が、掟を守りたいヤツか、またはそうじゃないヤツか、ちょっとやそっとじゃわかんないってことさ。全員の(はら)が読めない。どっちでもいいってヤツもいるけど、それならそれで把握しておきたいだろ。(めい)(しん)なんかは()(おもて)に立たされたほうさ。もっと(こう)(かつ)なヤツは今回全然動いてない。掟を変えるには、できるだけ多くの掟堅持派をあぶり出さなきゃいけない。てんで、俺は裏でちょろちょろ嗅ぎ回って、街に出て噂を聞いて回って。だいたい出そろったかなって思ったとき、充華が四人目を(はら)んで今回のことだ。俺は掟派に寝返ったと思わせて、(ろん)(ろん)(めん)から(ろん)(りゃん)までの道術移動直線ルートを引いて、冥を導いて、充華を助け出して」

 ふう、と宮学は両手を広げた。



「──(ふぅ)(ちゅん)(ふぁ)(のう)(すい)(りょう)の望みを、果たす手伝いをしたというわけ。冥華はよくやったよ」



 その口元には満足げな微笑みがあった。

 哄竜は、酒を避け、横に置いてあった水を一口飲んだ。

 それから静かに口を開く。


「……宮学道士、話をありがとう。これからは、私の話に少々おつき合い願いたい」


 言うと、哄竜は立ち上がり、椅子と卓のない場所まで行くと背筋を伸ばしたまま床に座った。皆が見守る中、黒潭に向かって言う。


「黒潭」

「え、な、なに」

「言っても本当にどうしようもないことであるのはわかっているが」

 哄竜は強く目を閉じると、絞り出すような声で言った。

「すまなかった」

 言葉を失う黒潭の前で、哄竜は頭を下げる。

 黒潭は目を見開き、息を呑み、驚きに全身の毛を逆立てた。


「私にできることは、きっとあった。けれど私はそれをしなかった。だから黒潭、君が」

「だ、だって、こどもだったんだろ、そっちだって」

「幼少ではあったが皇太子である。掟を壊すこと、それについての何かはできたはずだ、私はそれをしなくてはならないと感じていたはずだ、けれど、それをしようとしなかった、だから」

 唱亀と鳴鳳も、哄竜の後ろに回り、同様に座って頭を下げた。

 黒潭は椅子に座ったまま言った。


「もういいよ」


 誰も頭を上げようとはしなかった。

「だって、もう、いいよ」

 黒潭は疲れ切ったように言った。


「言ってもしかたないもん。謝ってそっちは楽になるんならそれでいいけど、何が戻るわけでもないだろ」


 三人の皇太子は頭を上げられなかった。

「でも、そしたらさ、ほんとにさ……ちゃんと、まともにやってくれよ。変な掟で、変な風になんないようにさ。おれみたいなヤツは、もうおれだけで終わらせてよ。おれの前には何人もいたんだから」


 哄竜は顔を上げ、まっすぐに黒潭を見つめて言った。

「私たち三人、その力の全てで、それを為そう」




 そんな話をした場所に、今は、帝と、湖皇后と、瑙正一品がいる。

 帝が、内密の話をするのにし都合がよかろうと言ったのだ。


「あのころ冬宮は疲れ果てていました」

 瑙正一品が語る。


「男児が生まれれば殺さなければならない。私たちは自分たちが死ぬのはもう嫌だったのです。私たちはみんなで一人でした。なのに黒潭が生まれてしまって、自分たちで手を下すのにも疲れてしまって、たまたまそこにいた子供に――冥に、押しつけたのでございます。そしてとても後悔した。それが人のやることか。それが大人のやることか。自分たちが、生き延びることばかり考えて、子供にそれをおしつけるなど。授かった命を……母たちの手で消すなど……だからあの子が帰ってきてくれたときはとても嬉しゅうございましたし──必ず掟を(くつがえ)そうと……誰が何を恐れて、何のためにあるのかわからない掟を覆そうと……改めて決意いたしました」

 耐えきれず瑙正一品がほろほろと涙を落とす。


 帝は、唇をきつく引き結び、顔を(ゆが)めて話を聞いていた。

 ぐう、と喉の奥から声が絞り出されて鼻の穴が大きく開く。


(ちん)がもっと早く決意していれば」


 湖皇后が、帝の手を取って言う。

「いいえ、いいえ、帝。囚われの身から解放されてからのあなたの動きはめざましゅうございました。宮学が告げた人間は全て粛清され、今や王宮にはさわやかな風が吹いてございます。この上は私もよくよく安心して、腹の子を(すこ)やかに産みましょう」

「さようですわ、帝」

 湖皇后と瑙正一品は声音だけは優しく言った。

 だが二人とも内心は全く違った。


 今までどれだけの恐怖を()いられてきたか。

 今までどれだけの悲しみと絶望があったか。

 わけのわからない掟一つで。

 掟の是非を考えられないものたちのおかげで。

 決断をしないこの男のせいで。

 けれどようやくここまで来たのだ。


 掟に(こう)(でい)する者たちをあぶり出し粛清し、帝は掟を撤廃する(ちょく)(れい)を出す気持ちを固めている。


 確かに実行されるのならばよし、実行されないならばその時は────。


 湖皇后と、瑙正一品は、地獄の業火を灯した視線を交わし合った。



「帝」

「私たちは、帝の味方でございます」




 童子の姿の、翡翠色の袍を着た東老師が、宮廷の中庭を歩いている。

 空には鏡のような満月がある。


「黒潭」

 東老師の影の中に潜むようについてきていた黒潭は、するりと人間の姿になる。


「夜だというのに見事な影じゃ。それだけ月が明るいということじゃが」

 東老師の言葉に黒潭は息を吐く。

「じいちゃん、おれ、どーしたらいいんだろ」

「なにがじゃ」

「皇太子さんたちが俺に謝ったあと、俺のこと弟扱いしてくるんだけど」


 東老師は小さく笑った。


「お前の好きにするさ。返魂(はんごん)(ぐぉ)よ。猫として膝に乗るか? 鬼神として(たた)るか? それとも弟としてともにあるか?」

 黒潭は少し考えて肩をすくめた。

「冥華次第かな?」

「おや」

「そりゃそうだろ、だって俺は冥華の半分だからさ」

 東老師は(ふところ)から煙管(キセル)を取り出し、指を鳴らして術で火を着けた。

 深く吸い込んで吐き出す。

 東老師は言う。


「好きにするさ。そしてなるようになるさ」

「そうだな。好きにするさ。なるようになるさ。まずは、冬宮の悲願は(かな)うんだから」


 東老師の煙管の煙は、夜の中に昇っていく。


「ああ、そうじゃ。それと、もうひとつ、(わし)のたゆまぬ努力により、おまえたちはまたまた儂に感謝せねばならんことができたんじゃよ」

「え?」




 いつ死んだっていいや。

 いつ死んだってかまわないの。

 だって私はあの時、黒潭を殺してしまったの。

 抱いて歩いているだけでは赤ん坊は死んでしまうだなんて思っていなかったし、どうやったら赤ん坊を生かしておけるかなんてわからなかったし、だっておなかがすいてたから、山に置いてったらいいと思ってたの。

 そしたら死んじゃって、これはいけないことだ、だめなことだと、その時初めてわかって。

 山の中は暗かったけど、でもどうしようもなく歩き続けた。

 そしたら宮学と、老師がいた。

 黒潭は、人間じゃなくなってたけど、新しい何かになった。

 いつ死んだってかまわないの。黒潭を生かすためだったんだから。



 冥華。

 散る覚悟ならいい名前だ。


 鳴鳳がつけてくれた名前。


 そう。

 そうね。

 でもあなたのお母さんは、湖皇后は、散るつもりなんかひとつもないのに()ちる華よ。



「冥」


 呼ばれて冥華は目を醒ました。

 翡翠色の袍を着た童子が横に立っている。

「老師、いいいった!」

 身じろいで思わず痛みに声を上げる。東老師が言う。

「まだ傷口がくっついたばっかじゃからなあ」

「老師、何しに来たんです……」

「お前を治療しに来たり、これをしに来たり」

 東老師は帯に挟んでいた鏡を取り出して、仰向けに横になったままの冥華に見せた。

「ほい」

 冥華は驚いて目を見開く。左目の色が藍色にまで戻っていた。

「えっ」

「まあ時間稼ぎだが、こういう術を()(とく)したので使ってやったぞい」

 東老師はにこにこと言う。冥華はわけがわからない。この人はいつもこうだ。

「えっえっちょっ……ゥう、痛い!」

「ほんじゃ次の奴が待ってるから代わるな」


 東老師はそう言って外に出て、入れ替わりに三人の皇太子と黒潭が入ってきた。

 宮廷の中で見る三人は、確かに太子のたたずまいで冥華は横になったまま見とれる。

「……まあ、みなさん、かっこいいこと」

「寝たままでいい。短く済ますから話を聞いてくれ、冥華」

 と鳴鳳が言う。

「はい」

 唱亀が微笑んだ。

「まずは生還おめでとう」

「痛いわ。笑わせないでね」

 哄竜が口を開く。

「頼みがあるのだ、(ちん)(めい)(ふぁ)

「はい」

「我らの味方になってくれ」


「は?」


 冥華は理解ができない。


「我らの周りは敵ばかりなのだ。冬宮の娘よ」

 哄竜はスッとその場に膝をつく。鳴鳳と唱亀も(なら)った。

 冥華は驚きに息を忘れる。


 哄竜は頭を下げ、(まつ)()の影を落として言う。

「我らを(あざむ)かず、あるときには率直な(しん)(げん)を渡す。そしていつでも我らに心を沿うてくれ。我らはそれに(あたい)する者たちであることを誓う。(ハイ)(イー)(クン)(ツゥイ)(シェ)(シェン)(ティン)(イー)

「泰一公主現前聴力」

「泰一公主現前聴力」


 冥華は驚いたが、言いたいことを全て飲み込んで考えた。


 悪くはない。この三人はそれぞれに理性があり、知的で、互いを思いやる力がある。

 ならば、命を捧げるのも悪くないだろう。

 なにより、同じ間違いをしないためなら。


 そして冥華はこの三人が好きだった。

 三人並んで、雀みたいに。

 かわいい人たち。

 あれが希望ってものなら、けっこういい。


 冥華は唱える。

「泰一公主現前聴力」


 三人は静かに立ちあがって、掛け布団の上に出ていた冥華の手に、自分たちの手をそっと触れさせた。


 唱亀が言う。

「まだしばらく死なないって?」

「そうみたい」

「よかった。君は勇敢だけど、その勇敢さが明日がないからじゃいけない」


 哄竜が笑う。

「そうだ、我らは明日がないように生きていたとしても、」


 鳴鳳が続ける。

「永遠のように今を踊るんだ」


 この三人の皇子と、何かをする。

 よりよい明日を作る。

 きっとそんなふうなこと。


 めちゃくちゃな掟で誰も殺されたりしない、お腹がすいて何も考えられない子供がいない、そんな未来を。


 つくろう。

 この命の限りに。


 冥華は心から微笑んで三人の皇子を見上げた。

 その微笑みは三人の心から、一生消えることはなかったし、誰一人として裏切ることをしなかった。


  【おわり】


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