第十一章
翁文江の執務室は王宮にあった。
湖皇后が囚われていた建物は、後宮の奥の区画にあったので、随分長く歩くことになった。
唱亀は慣れた様子で歩いていたが、冥華は王宮の壮麗さに目を瞠るばかりだ。冬宮や萌宮ももちろん贅沢で飾りも精緻だったが、比べものにならない。
細密な浮き彫り、宝石を砕いた絵の具の着色、木組みの見事さ、柱や梁の木材の太さと均一さ。飾る布の刺繡の見事さ、織物の珍しさ、風に揺れる薄絹の華麗さ。
女官や文官が先刻の轟音に驚いて廊下に出てざわついていたが、その全員が唱亀を見て廊下の端に寄り、袍礼を取る。
唱亀は気にもせずに通り過ぎる。
今更ながらこの人は皇太子なのだと冥華は思い知る。
やがて辿り着いた小さな正円の連なる格子の前に護衛が立ち、声を上げる。
「唱亀さまのお成り!」
中から出てきた文官が、唱亀を確認すると、たちまち袍礼を取り中に戻る。扉が開き文官たちは十人ずつ通路の左右に並んで膝をついた。それぞれが発声する。
「唱亀さまのお成り!」
「唱亀さまのお成り!」
天井から下げられていた鈴がじゃらんじゃらんと鳴らされる。
部屋の中の様子を冥華は見る。
整って清潔な、文机が並んだ部屋だ。書類箱や巻物、紙挟みが山と積まれている。
文官たちが筆を置いて床に両手を着いて頭を下げていた。中央に、一段高い壇が設えてあって、そこに一人、文官が他のものと同様に平伏していた。
冥華はざわりとした。
なんだかここは空気が違う。
冥華は思わず言った。
「……唱亀さま……」
「死ぬのが僕だけなら、べつにいいんだ」
振り向かず言われた言葉に冥華は頭の芯が熱くなった。
「何を」
「哥哥と鳴鳳が無事ならいいのさ」
「ふざけ」
「同じことをしてるんだろ、道士小姐。望みの代わりに命を使う」
言葉をなくす冥華に、ふ、と唱亀は笑った。
冥華は顔をしかめて、喉奥から軋む声で言った。
「私はいいけどあなたはだめです」
「だめだめ。ずるい。そうはいかない」
子供に言うように言われ、冥華は顔を真っ赤にして唸る。唱亀は壇上の男に言う。
「文江、君とは長いつきあいだったと思うんだよね。面を上げぃ」
壇上で平伏していた男は、黒く長い髪を結い上げて繻子で包み、銀色の紐でくくっていた。
銀ねず色の衿と、黒と薄茶色の袍、菱形の文様を浮き織りにした帯に藍色の紐を結んだ出立ちの、顔の長い男だ。長いあごひげを、油で整えている。
太子たちよりずっと年上だ。
文江はすっと背筋を立てて起き上がり座り直す。
その平然とした様子に、唱亀は鼻に皺を寄せ、今にも嚙みつきそうな犬のような顔で言う。
「母上を監禁したことを知って、父上が黙っておられるはずがない。お前、父上に何をした。父上はどこだ」
「奥の宮で政務に励んでおられます。毎年この時期は奥向きの政務が多うございますから」
「拝謁いたすぞ」
「はい。皆の者。持ち場に戻りなさい」
護衛が一歩前に出て言う。
「文江さま、ですが、籠庵が破壊され湖皇后が」
「ああ、音が聞こえたからそうだろうな。どうせ行く先は冬宮だ。ほうっておけ、女に何ができる」
冥華はそれを聞いて唇を引き結ぶ。
頭の中に泥を入れられたような気分になる。
文江は立ち上がると、廊下に出ずに、奥にある扉を開けた。
「唱亀さま、どうぞこちらへ」
奥の扉から続く廊下は、昼だというのに暗い。明かり取りの、小さな丸い窓が高所に並んでいる。
キッキッと廊下を鳴らしながら文江は歩く。廊下はわざと鳴るようにできているようだ。
唱亀と冥華も続く。
冥華は奥歯を嚙みしめる。
唱亀は自分は死んでもいいと言う。
それは嫌だ。
あの日、抱いていた赤ん坊が腕の中でどんどん静かになっていく。暴れてうるさい、邪魔くさい赤ん坊が静かになっていく。
死はよく見る。
冬宮で看取った人もいたし、街に出れば家のない者たちが道ばたで死んでいる。
それでも、年寄りたちは戦がないから今は随分死体を見ないと言って笑い、今の帝を称えていた。
「人はね、その人の人生を生ききるべきなんだ」
そう言ったのは宮学だ。
「だからホントは俺はお前のことバカだと思ってるけど、まあ仕方ねェだろうなとも思ってるよ」
そうよ、私は間違ってない。
あの日、死にかけてた、もう死んでいた赤ん坊に、自分の命をあげるから生き返らせてと願った。
自分が死んでもかまわないから、この子を生き返らせてと願ったんだ。
でもどうしてだろう、私は、唱亀さまが、死ぬ気でいるのがすごくいやだ。
恋とか愛とか多分そんなんじゃなくて、もし唱亀さまが死んだら、哄竜さまも鳴鳳さまも傷つくだろう。
扉を開けたら、寝台に三人並んで仲良く座ってる。
雀みたいに。
なんだか、かわいらしかった。
私は冬宮の娘だけれど、あんな絆はなかった。
あれは、なんだろう。
何という気持ちだったのだろう。
ああ、そうだ。
「ココにはそもそも、その言葉がありませんからねぇ」
宮学が言っていた。
希望だ。
文江は廊下の端に行き着き、扉を叩く。
まるで物置のものような、粗末な小さな扉が開かれて、文江は淀みなくその中に入る。
部屋の中は明るかった。
冥華の顔の前を蝶がよぎる。さわやかで温かい風と、緑の香りがした。
水の流れる音がしていて、部屋の中は広大だった。外に出たようだった。見上げれば青空が見えた。
文江は地面に膝をつき、袍礼をして頭を下げる。
「畏れながら、唱亀様をお連れ致しました」
唱亀が地面に片膝をつき声をかける。冥華は文江に倣ったが、視界を保てるようにわずかに顔を上げていた。
「父上!」
藤棚の陰に置かれた文机の前に座り筆を執っていた、三太子に面差しのよく似た男性が、筆を置いて立ち上がる。
黒々とした髭を蓄え、肩幅ががっしりとしていた。
「唱亀。久しぶりだな」
帝は簡素な麻の袍を着て、頭に略式の金の冠を被っていた。
「父上、ご無事で……! この唱亀、宮廷の悪事に父上が煩わされていないかと……」
「悪事? 何のことだ?」
帝は笑い、軽く肩を回した。
「内向きの仕事が溜まっていたのでなあ。専念させてもらっていたよ。哄竜から話は聞いていないか? 表向きの仕事はあいつに任せてあるのだ」
「何も」
「おや、おかしいな」
「母上のことはご存じでしたか?」
「息災であるぞ?」
帝は当惑したように言う。
「今まで私の隣で執務を手伝ってくれていたぞ。少し疲れたので休むというので下がったが」
唱亀はすっと表情を冷たくして言った。
「道士小姐」
「はい」
冥華は唇を引き結ぶと、懐から道術用の細い剣を取り出し、躊躇なく抜き放つ。唱亀の背後から駆け出して帝の身体に剣を突き立てる。
「うわあ!」
文江が驚いて叫んだが、帝の身体は紙の束になってばらばらと足下に落ちた。
唱亀は文江を睨んだ。
「文江! 本物の帝はいずこにおわす!!」
だが、文江は青ざめ、目を見開いておろおろしていた。
「そ、そんな、帝が偽者だなど、そんな」
「……なんだと?」
「そちらも騙されてたようですね」
冥華は剣を納めてまた袍の懐にしまった。
唱亀が唸る。
「どういうことなんだこれは」
「だから、王宮の術士の仕業よつまり。唱亀さま」
「母上が?」
「いいえ、もう一人。そうでしょ宮学。出てらっしゃい!」
その名を聞いて顔を輝かせたのは文江だった。
「宮学! そうだ宮学いるんだろう! どういうことだこれは! 帝はどこにおわすのだ」
それを聞いて冥華は唇を曲げた。
唱亀が冥華に訊く。
「ふたまた?」
「とは、また、俗っぽい言い方ですけど、唱亀さまらしいですね」
「おやおや」
「あらァ、その言い方、お兄さまそーっくり」
奥から一人の女性が出てきた。
肉付きがいい女性だ。目立ったところのない服装をしていて、帯から官吏の印の柞の木札を下げている。
冥華は彼女に見覚えがあった。
萌宮に上がったとき、
「あなたをこの萌宮に上げるのを許した者です。よくよく萌宮のしきたりに従い、王宮にお仕えなさい」
そう言われたのをなぜか鮮明に覚えている。
名前は、侑美杏。
「文江様、宮廷の奥で騒ぐのは法度に触れます」
美杏がそう言い、文江が身体を震わせて言う。
「帝はどこにおわすッ!!」
「そこに謀反を起こすものがいるのに、訊かれて答えるものですか」
美杏は悠然と歩いてくる。後ろには警備の兵をずらりと従えていた。
「帝の意志は絶対。けれど鵬国十三代の掟も絶対である以上、帝の意志といえど、これより重ねての掟破りは天地正道に背くもの。宮廷の行いを取り仕切る全ての者のこれは総意でございます。この掟は建国以来、過ちを繰り返さぬための、絶対の掟であったはず!」
唱亀は言う。
「ならば我ら三太子は、過ちの結果であったと申すか」
「湖皇后が生きておられるのはまったくよくない。今はおとなしくしておいででも、この後きっと皇太子の母として君臨し、そして国を滅ぼすのに違いないのです」
冥華は聞いてつくづく溜息を吐いた。
「それ十三代も前の話じゃないですか」
「鵬国の安寧のためです、仙冥華。事実この掟のおかげで、鵬国はこうして栄華と繁栄を享受している。国家と民草のためです。三人までは私たち宮廷も見逃せましたが、この期に及んで四人目だとは」
唱亀は唇を引き結んで息を漏らしてから言った。
「父上はどこにおわす」
「奥の間で政務に励んでおられます」
「母上に害を為せば、父上も気を病もう。それもわからぬのか。大臣たちはどこだ」
「大臣のみなさまは、私に全てをお任せくださいました」
美杏は堪えきれないというように高らかに言う。
「天地正道に恥じぬ理を、我が鵬国は取り戻すのです」
冥華は面倒くさくなって言った。
「礼貴さまの服に毒を塗ったのはあなたでしょ。自ら手を下してないとしても」
美杏は水を差されたような顔で冥華に言った。
「そうですよ。萌宮の者は、必ず一度は毒を盛られなくてはなりません。そういうものです」
冥華は唱亀に言う。
「なんでこんなのが権力握ってんです? ほったらかしてたのは怠慢だとしか言えませんよ」
「宮廷内で権力闘争があって、奸臣を粛清した結果、これが一番ましだったんだよ」
「あら、まあ、おかわいそうに」
美杏は心から嬉しそうに言った。
「皆の者、唱亀さまをご保護奉れ! そちらの小娘は引っ捕らえい!」
文江が叫ぶ。
「帝はどこだ!」
だが護衛の兵士たちはどっと唱亀と冥華に駆け寄る。美杏は返事をしない。
冥華は懐から札を取り出そうとしたが唱亀が言う。
「ダメだよ」
「え」
「君、道術を使えば使うほど命が縮まるんだろ」
唱亀がふっと笑う。もう一度同じことを言った。
「ダメだよ」
冥華は胸が苦しくなる。
「でも、ここで捕らえられたら、どっちみち死ぬんじゃないですかね」
「そうはさせない」
唱亀は冥華の手を握って引き寄せ、肩を抱いて身体に密着させると、美杏に言った。
「私の大切な人だ。傷一つでもつけたらお前たちの首を飛ばすぞ」
冥華は頭の中が真っ白になる。
なんだこれ。
なんだ。
ああそうか、ここを切り抜けるための方便だ。そうだ。ああびっくりした。
「では、お二方ともご保護奉りましょう」
護衛の兵士が手を伸ばせば二人を捕らえられる距離まで詰めてくる。
唱亀は冷徹な目で周囲を見回し、あたりが震えるような声で言った。
「余は、鵬国黃帝が第二子唱亀である。触れるでない」
威厳のある声で唱亀は言い、兵士たちはそれ以上間を詰められない。
見えない壁が突然現れたように思えた。
文江がひっくり返った声で言う。
「美杏殿、みみみみみみ、帝はどこにおわすかと訊いておるのだ!!」
「奥の間で政務に励んでおられると申しましたよ! お前たち、唱亀さまをはやくご保護なさい!」
唱亀は重々しく響く声で言った。
「保護とは片腹痛いぞ、美杏! 父上と母上を監禁し、このうえこの唱亀とその愛人冥華を捕らえようとは、いかな大義があろうがこれは反逆である!」
愛人と呼ばれた冥華は、唱亀の胸の中で、どう調子をあわせたらいいのかぐるぐる考えていた。何しろ男性と密着したことが無いし、なんだか身体の感じが全然違うし体温も熱い。布越しでも解る。唱亀は実にいい声だし。
「父上の御前に案内せい! この目で無事を確かめる!」
「唱亀さま、わ、私も同行しとうございます!」
文江が言い、唱亀が頷く。
「よし」
美杏が冷たく言う。
「いいから全員保護して」
その冷たい声音に兵士たちははっとして、棍棒を構えて唱亀に詰め寄った。
「唱亀さま、ご同行ください。叶えばご自身の足で」
葛藤の滲む声で言われ、唱亀はその兵士を睨みつける。
兵士は思わず一歩下がり、他の兵士にぶつかる。が、誰もそれを非難したり笑ったりはしなかった。美杏が言う。
「文江さまもお連れしなさい。帝の奥の間でよろしい」
文江がはっと顔を上げた。美杏が面倒そうに言う。
「帝に拝謁なさりたいなら、そういたしますということです」
「父上の前に出るのなら、兵士たちはいらぬよ。下がれ」
唱亀が言い、美杏が眉を上げる。
「何かあってはいけませんから」
唱亀は口の端を上げる。
「お前たちもご苦労だな」
兵士たちは返事をしない。
美杏が歩き出し林の中に入る。下生えがくるぶしまでしか生えておらず、適度に木漏れ日の落ちる快適な林だ。
美杏の足音に紛れて、冥華は近くにいた兵士に言った。
「あなたが仕えているのは誰?」
「……なんですと?」
「あなたが仕えているのは鵬国宮廷ではないの? それは、ひいては帝、そして皇太子ではないの?」
兵士は答えない。冥華が続ける。
「鵬国は安定していて、帝と皇太子は意志を一つにしています。それがどれだけ希有なことか、わからないのですか。今は反乱など起こしても民に混乱を招くだけです」
「ですが、掟が」
「湖皇后が、私利私欲に走るような方ですか? 哄竜さまが、それを許すような方ですか? あなたは誰の命令を聞くべきですか?」
兵士は黙り込んだ。
唱亀は冥華に囁く。
「いいよいいよ、西方で言うところの悪魔ってヤツだ。もっとやって誘惑しちゃって」
「茶化さないでくださいよ」
「文江、お前は誰に仕える」
唱亀に言われ、文江はびくんと身体を震わせる。
「私は鵬国に仕えています。私の全ては鵬国のためのものです。だから掟も保持しなくてはなりません」
唱亀はふっと笑う。
「そういう考えなんだ? 僕はいいけど、哄竜兄上はどうかなあ? 兄上は酷薄なところがあるからねぇ」
「帝と鵬国のためなのです!」
「僕たちは喜ばないけど?」
「みなさまは湖皇后に狂わされている」
その言葉を聞いて、冥華は唱亀が纏う気から一切の温かみが消えたのを感じた。
ぞっとした。
突然灯りのない氷室に入れられたようだった。
「本当に、ここに兄上がおられなくて良かったと感謝しろ文江」
文江は唱亀からの怒りと冷たさを受けて、いい年の男性だというのに猫の前の子鼠のように固まってしまった。立ちすくんでしまった文江を置き去りにして二人は歩く。
目の前が明るくなった。森の中に草の広場があり、唐突に寝台と椅子と机が現れた。寝台に横になって、一人の男が本を読んでいた。




