第十章
空気が変わる。身体がちゃんと地に付いている。
冥華は自分が温かい床に倒れているのだと知った。よく磨いた白木の床。
蜜のような甘い声がした。
「……唱亀?」
冥華が初めて聞く声。
こんな声が世の中にあるのかと驚いた。
耳の奥に直接注ぎ込まれる快楽。この声を聞くためなら何でも、何でも捧げる。そんな。
横に倒れていた唱亀が哀れがましい声を出した。
「媽媽、ひどいよ……僕は身体もこころもどこかにいってしまうところだよ」
「唱亀、どうして」
足音が駆け寄ってきた。細い白い美しい手が、床に並べていた術具をばさばさとどける。高い明かり取りの窓から落ちる格子の影が、呪術の教本で見た高等な文様だと冥華は知っている。
近くからふわりと、嗅いだこともないようなよい香りが立つ。
「ああ、あなた、あなた、冬宮の娘ね。ここに入れられる前に、文をいただいていたわ。ごめんなさい、せっかく萌宮にあがってくれたのに、私、ここから出られなくて」
「いいえ、だいじょうぶです……充華さま……いえ、湖皇后さま」
「私あなたの名前を知っているのよ。冥娘」
「いえ、鳴鳳さまが、冥華と名前を下さいました……」
「まあ、私の文字をひとつ。あの子は良いことをしました。冬宮の娘よ」
湖皇后の、子を三人生し、年を重ねたその美しさは、いよいよ冴え渡っていた。
その美しさに憂いが加わっているのは、簡素な装いが故だろう。
湖皇后は、白い女物の袍と珊瑚色の帯に、瑪瑙色の透ける被帛で、身を飾る玉も宝石も見当たらなかった。
それが却って、美貌を引き立てている。仙女の様だ。
存在の全てが、このかたの為に何でもして差し上げたいという気持ちを、ごうごうとかき立てる。
長い黒髪は黒い紐で結われていて、ただひとつ、翡翠の簪があるだけだったがそれは見事に黒髪を引き立てていた。
唱亀が言う。
「媽媽、お久しぶり」
「唱亀、お久しぶり。ごめんなさいね、術の打ち返しの幽牢に入れてしまったわ。なんとか出せて良かった」
「いいんです、冥華、これが目的だったよね?」
湖皇后の美しさに意識を奪われたまま、冥華はぼんやりと言う。
「はい。王宮の奥に捕らわれたなら、とても私などがたどりつけない」
湖皇后が頷き、冥華が言う。
「老師と宮学が、『蛾楼門』のあの部屋に行くようにと教えてくれました。湖皇后さまが張っている、防護の結界にひっかかるように術をかけているからと。市塔の隣の建物に、街を守る結界の、仕掛けのひとつがありました。老師と宮学は、『蛾楼門』の女主人に話をつけてあの部屋を術に使ったのです」
唱亀が言う。
「……あの部屋で事件が起きたのって、そのせいなの?」
「違います。偶然です」
唱亀は、どうだかなという視線を冥華に送ってから湖皇后に訊いた。
「母上はずっとこちらにいらしたんですか」
「そうです。表はどうなっていますか?」
「先だっての行幸以降、湖皇后は、宮廷の奥で施政に励んでおられるということになっていますよ。そして帝の動向は、宮廷にあるかぎりは、僕たちでもわからない。王宮は秘密ばかりだ」
湖皇后は可憐に頷く。
「ええ、そうね」
「現在、帝のおわすところは、母上もご存じないのですか?」
湖皇后は眉を寄せて視線を下げ、それから唱亀に訊いた。
「存知あげませんわ。外ではなんと?」
「一月前に西域の高僧との面会を致しております。私も同席しましたが、その後は存じ上げません。哄竜兄上と僕、鳴鳳の三人で外向きの公務は為しております。重ねて問いますが母上は帝の所在をご存じではないのですね?」
湖皇后は身を捻って溜息を吐いた。
「術の様子で、宮廷におわすのは感じております。けれど帝は今捕らわれておいででしょう。自由であるなら、私をこの扉のない牢に置いてはおかれませんでしょうから」
湖皇后はふう、と溜息を漏らす。。
「宮廷の一番強い道士は私ですから、私にしかできず、そしてしなくてはならないことは多いので、こうしてつとめは、果たさせられておりますけれどもね」
唱亀が、腹立たしげに言う。
「一番強い道士が、なぜおめおめと捕まっているのです。こんなところ、壊して逃げてしまえばよろしい」
「まあ、唱亀。それは、この状態こそが、私たちが待ちわびた好機であるからです」
「なんと?」
「帝の目を覚まさせない、くだらない掟を守ることに全てをかけている、ばかものたち。それらがしびれをきらして動き出した時こそ、私たちが待っていた機なのです。それがとうとう今なのです」
冥華は床に座り、床に額をつけて礼を取って言った。
「畏れながら湖皇后さま」
湖皇后は言う。
「冥華、今の冬宮は瑙正一品そのもの、そしてあなたは冬宮の娘。さすればあなたは私の娘も同様です。ね、冥華。その様になさらないで、お顔を見せて」
冥華は身が熱くなる。
「湖皇后さま」
「瑙正一品から、よくよく話は聞いていますよ。よくはたらくかわいい人。冬宮のいとしい娘」
にこりと微笑まれて、冥華は胸を押さえて顔を赤くした。唱亀の冷たい声がする。
「ちょっと冥華」
「唱亀さま、お黙りあそばして。湖皇后様のお言葉の余韻が散ってしまいますわ」
「冥華、しっかり頭を使ってくださいってんだよ、なんだよ、ぼーっとしちゃって」
湖皇后が窘めるように困ったように言う。
「だめよ、唱亀。あなたの妹のようなかたなのよ、やさしくして」
「あああ」
「冥華、君、なんて声出してんだい、で、母上、帝はどちらに、誰に捕らわれているんです」
湖皇后はふぅと息を吐いた。
「掟を守らんとする人たちに捕らわれています。場所はわかりません」
冥華はおずおずと言う。
「畏れながら湖皇后」
「はい、冥華。なあに」
冥華は湖皇后に自分の名を呼ばれて、顔を真っ赤にして両手に顔を埋めた。
唱亀が自分の額に手を当ててうんざりとして言う。
「冥華、そりゃ母上に会ったらみんなそうなるけど、しっかりしてくれ」
「す、すみませ、すみません、で、あの、道士の件なんですけど、宮学の動向をご存じではありませんか」
「ええ、たいしたものだわ。こうでもしないとここには来られないもの。でも、私も囚われの身なので宮学のことはわからないのよ」
「無事ならいいんですが」
湖皇后は突然膝立ちで冥華ににじり寄ると、両手で冥華の顔を包んで上げさせ、まじまじと見つめた。
冥華はひゅっと息を呑んで止めた。
そしてしばらくすると、手を離し、忌々(いま)しそうに言った。
「この術は老師さまにかけていただいたの?」
「あ、はい……ちょっと……してほしいことがあったので……あの、……天命の計らいがありまして……」
「あなたのものはあなたのものです。馬鹿な子」
湖皇后が悲しげに顔を歪める。
冥華は笑う。
「あ、はい、いいんです」
「そうね。それなら急ぐしかないわね」
唱亀は、二人の話を黙って聞いていたが、やがて不満そうに言った。
「わからないんだけど?」
「いずれわかるわ」
道士二人は言った。声が合った。
顔を見合わせ、湖皇后は照れくさく、冥華は恥ずかしそうに笑った。
それから冥華だけが唱亀に言った。
「わかるまで、きっとそんなにお待たせしませんよ唱亀さま」
湖皇后が言う。
「さてと、そうしたらどうしましょう」
冥華が湖皇后に訊く。
「ここの守りはどうなっていますか。閉じ込められたときのことを教えてください」
湖皇后は、迷いのない様子で話す。
「行幸から戻り、湯浴みを終えたら引き立てられたのです。術具はすでにここに用意されていました。厠と湯浴み用の湯の取り替え、三度の食事はそのちいさな扉からしています。出入り用の扉はありません。私を入れた後に、この壁を取り付けたわ。それから一月、私はここで、宮廷の警衛と、城下の守護、地方への豊穣のまじない、疫病の鎮撫、皇帝の守護をしているの」
唱亀が言う。
「母上、ご自分でここから出られようとは思いませんでしたか」
「ちっとも」
「僕たちに知らせようとは」
「いいえ」
「あなたはこのような扱いを受けていいおかたではない、僕たちが知ればすぐにでも」
「行幸を終えてすぐ、衣を変える前に、私は届いていた文を読んだのです」
湖皇后は冥華を見て視線を緩める。
「これより、冬宮の娘が、萌宮に上がると、冬宮からの文を。だから、そののちに捕らえられたときも、その娘に私のことは任せようと思って何もしませんでした。───きっと助けてくれるでしょう。翠柳さまの娘なら」
冥華は微笑む。
「はい」
「そして、私は息子たちを信じておりますの」
唱亀が唇を尖らせる。
「いいですよそんな、ついでみたいに」
「まあ、あまえんぼうね、唱亀」
「僕はいいけど、それは哥哥と鳴鳳には、もっとちゃんと言ってあげてよ」
「覚えておきます」
冥華は立ちあがって、部屋の中を検分する。完璧に円形の部屋で、天井が高い。明かり取りの窓は二階くらいの位置だ。高度な呪術の文様を描いた格子の影が床に落ちて、太陽の動きに従って、さらに複雑な文様を作り出している。
部屋の真ん中に祭壇があって、冥華と唱亀と湖皇后はその前にいる。
「それで、私たちは、ここから出てしまってもよろしいのでしょうか」
冥華は立ち上がって部屋の中を歩き回る。湖皇后の声は室内に響く。
「ここが壊れたら道術による宮廷の守りがめちゃくちゃになるでしょう。だけど、私はまだ死んであげるわけにはいかないの」
「で、その、宮廷の掟を守ろうとする一党は、どうして今動いたんです?」
湖皇后は、喉の奥で猫のように笑った。
「さすがに四人目はね」
唱亀は大きく目を開けて、湖皇后を抱き締めようとしたが湖皇后は冷静に言った。
「おちつきなさいね唱亀」
唱亀は両手を胸の前で組み合わせ、頰を紅潮させて言う。
「鳴鳳が喜ぶよ!」
「あなたねぇ、ちょっと鳴鳳のこと気にしすぎよ」
「だってあいつは末っ子だからさ! でもこれからはお兄ちゃんだ! 僕もうれしい!」
冥華はその間も部屋を歩き回って検分する。内心はものすごく驚いていた。湖皇后の言うとおり円形の部屋には出入り口はない。厠や手洗いの水、湯や食事の取り出し口は小さく、拳一つ分の高さと、肘から先の幅しかなく、外から鍵がかかっている。
厠用の入れ物は、陶製の箱で、蓋が出来るようになっている。
部屋の端には寝台があり、また、術具を作るための机があった。今は火が着けられていないが蠟燭と燭台。火を着けるための火打ち石の箱と、麻屑の箱。火鉢と綿入れ。
全面が暖床らしく、どこを歩いても温かい。
してみると、まだ、敵方は湖皇后を殺すつもりも完全に敵に回すつもりもないのだ。いかな貴人とはいえ、いくらでも非道な扱いはできるのだから。
そして帝を弑するつもりもおそらくない。
敵は今のところはどちらに転んでも、なんとかなるように動いている。
「湖皇后、次の食事まで……いえ、この小窓が開くまでどれぐらいですか」
「そろそろのはずよ。厠の交換とお茶を持ってくるはず」
「ここからお出になりませんか? まずは湖皇后を安全な場所にお移ししたい」
「あら。どこへ」
「冬宮です」
湖皇后の表情が輝いた。
思い人に会えるのだ。
そのかわいらしさに冥華は、よしこの人のために死のうと思った。
「お連れします。あそこには東老師もいらっしゃいますので」
言い終わらないうちに、冥華は人差し指と中指を立て、爪に唇を滑らせると高くあげて呼んだ。
「黒潭!」
何事も起きない。
冥華は顔色を変えず、すたすたと湖皇后と唱亀の側に寄る。唱亀の肩を叩いて、ぐいぐいと押し、部屋の隅に寄せる。
「見られるとまずいでしょ」
「え? え?」
「いいから」
分からないという表情の唱亀に、更に、いいから、と手振りで示して、冥華は小窓の死角の壁に座った。唱亀も分からないながら一緒に座る。
湖皇后は散らばった術具を片付ける。
その片付けが終わらないうちに音がして、小窓の扉が開けられた。
「きゃあ!」
と外から女官の悲鳴が上がり、
「なんだこいつ!」
と宦官の声もした。
小窓から飛び込んできたのは毛足の長い黒い猫で、湖皇后は声を上げる。
「まあ! 猫だわ! まあ! かわいい!」
「湖皇后様、それ、それを、お出しあそばして」
外の女官の声がした。
湖皇后は逃げる猫を追う。
「えっ、無理よ、だって捕まえられないわ! この子凄く元気!」
「マタタビを持ってまいりますから! 後ほど! お待ちください! お待ちくださいよ!」
「きゃあ、かわいい! なんてかわいいの! ねぇ、この子ここで飼いたい、飼うわ! いいでしょう? 厠用の砂と食べ物を用意して!」
湖皇后の弾んだ声は蠱惑的で、この声を聞くためなら何でもすると冥華は誓った。
胸を押さえ額を上げたその姿を、唱亀は横目で見てうんざりした表情をした。
母にかかれば誰もが皆こうなる。
自分たち兄弟がそうならないのはただ血縁の故だろうし、母の魅力よりも、親子の関係の方が大切だと母が思っているせいだ。
女官が慌てている。
「そんな、皇后さま、いけません、いけません」
外で何人もの宦官の声がする。
「どこの猫だ」
「入り込んだのでは」
「どうする」
湖皇后は座り込んで猫を捕まえ、抱き締めた。
「つかまえたわ! ああ、なんてかわいいの……! とてもすてき……! うれしい! 私、ずっと淋しくて……ねぇかまわないでしょう? あなたたちが秘密にしてくれたらいいだけよ」
女官が悲鳴の様に言う。
「なりません!」
「だって、私淋しくて死んでしまいそう……せめて、この子が自分で出ていくまで…いえ、次の食事まで、お願い」
外で会話があって、女官が言った。
「では、次の食事までですよ!」
「ありがとう……! あなたっていい人ね、お名前は?」
つい弾んだ声で名を名乗った女官に、宦官たちの叱責の声とともに小窓が閉められ、鍵のかかる音がした。
「で?」
唱亀が壁に背を凭れ掛けさせて言った。
冥華は壁から離れて歩き出す。
「黒潭」
冥華が呼ぶと、猫は湖皇后の腕から抜けて走り出し、冥華の前に立つと、猫の姿がほどけて人間になった。
髪が半分だけ長い十歳ほどの少年が現れる。
「冥華」
唱亀が嬉しそうに笑って言う。
「哥哥に聞いたよ! 冥華のところの猫の話、君か!」
「どうもー」
黒潭が挨拶し、湖皇后は黒潭を見つめて、驚きに嘆息した。
「まあ」
黒潭は、少しきまりが悪そうに、恥ずかしそうに頭を下げた。
「……どうも」
その様子を見て、唱亀は独り言を呟いた。
「……哥哥は変なとこでとことん鈍いな。それともわかっていたのかな?」
それを聞いて冥華は言う。
「唱亀様がお聡いのです」
微笑んだ顔の角度の具合で冥華の瞳に光が入って、唱亀はふと気が付く。
「君、左の目の色がうんと薄くなってるよ」
冥華は短く息を吐く。
「急がないと」
唱亀が口を開くより早く、冥華が言った。
「黒潭、湖皇后を冬宮にお連れして」
黒潭は冥華を見上げると、まるで子供に言うように丁寧に告げた。
「すぐ戻ってくるからね」
黒潭は冥華の目を覗き込んで、もう一度念を押すように言った。
「すぐ。いいね」
冥華は微笑む。
「私のことは気にしなくていいんだよ黒潭。特にあなたはね」
黒潭は溜息を吐いて言う。
「冥華、馬鹿だね」
「なによ」
「すぐ戻ってくるから」
「行ってよ」
「すぐ戻る」
「いいから」
「俺、冥華が嫌いだ。馬鹿だから」
黒潭が吐き捨てるように言うと、全身がふくれて毛が伸びた。巨大な岩石ほどの大きさになると形が整う。巨大な猫だ。
湖皇后が少し不安そうに言う。
「蚤とかも大きくなったりするの?」
「冥が綺麗にしてくれてるから大丈夫のはずです。下がってて」
黒潭は身体を壁にぶつけて、三度目ほどで壁を壊す。建物はメキメキと音を立ててひしゃげ、外の空気が入ってくる。裂け目の向こうの日差しが明るかった。
黒潭は身体を低くし、湖皇后はその背に乗った。
湖皇后を背に乗せた黒潭は、目に見えない階段があるように空高く駆け上がる。唱亀と冥華は、巨大な猫が空に溶けるのを眩しく見送る。
外から騒がしい気配がやってきた。警備の兵士たちだった。
棍棒を持って駆けつけ、冥華と唱亀を囲んだ。一人が前に出てきて言った。
「これはどうしたことだ、お前たちは何をした!」
唱亀は冥華の前に立ち、堂々と言った。
「我は第二皇太子唱亀である! この事態は一体何であるかとはこちらが問う。官は誰だ!」
唱亀の声は響き渡り、護衛の男たちは背筋を正した。
「唱亀さま! なぜこちらに」
「話は官にする。誰であるか」
「翁文江さまです!」
「文江か。案内しろ。冥華、ついてこい」
言われて、冥華はしおらしく頭を下げてついていく。
「唱亀さま、こちらは」
「鳴鳳の萌宮の者だ。問題ない」
唱亀のあとについて歩きながら、冥華は袖の中で手を固く握りしめた。




