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第九章

 


 名勝、(たん)(らん)(ゆん)(しぇん)を訪れた際に、帝は雨に降られて、湖家に屋根を求めた。


 湖家は一帯の名家であって、帝を受け入れる家としてふさわしかった。


 湖毛の娘湖(ふぅ)(ちゅん)(ふぁ)は、その日帝に見初められ、帝のものとなった。



 世にも(まれ)なる美貌である。

 この世の全ての宝玉も及ばぬ、(はす)の花の上の(あさ)(つゆ)(たま)(せい)(じょう)なる風と水に(はぐく)まれし、美しきもの。

 ()()(おん)(ぎょく)(しい)()(ひい)で、心優しく、名家の出であり、(こう)(きゅう)に登るにこの人ほどふさわしいものはいない。



 (ふぅ)(ちゅん)(ふぁ)(みかど)にそう(うた)われ、童女たちが花びらを()く道を、輿(こし)に乗って入宮した。

 王宮の敷地で輿に乗れるものは厳しく決まっており、新入りの扱いとしては異例中の異例であった。





 一方、(のう)(すい)(りょう)(ほう)(ぐう)(ひん)(じゅん)であった。

 帝の覚えもめでたく、寵妃として、後宮に上がる期日はあらかじめ定まっていた。


 偶然、そして突然に、湖充華の入宮が、同日となった。


 人々は()(せい)・宮中に(かかわ)らず、湖充華の入宮に立ち合おうと押しかけ、萌宮から帝の相手と補佐をしてきた翠柳の入宮を気にかける者はいなかった。

 後宮の宦官、役人、女官たちは、突然の充華の入宮に、手持ちの仕事を擲って、準備に追われたのだ。

 翠柳のために用意されていたものは、翠柳の女官たちの抵抗も叶わずに奪われ、充華の歓迎と入宮のために使われた。

 新しく入る庵にすでに飾られていた、絵も織物も飾りも移動させられた。

 華々しい入宮の段取りを定め、用意をしていた翠柳付の女官たちはこの侮辱に腹を立て、怒りのあまり涙を流した。


 ただ引っ越しをするだけのようなそっけなさで翠柳の入宮は終わった。

 翠柳の新しい部屋は、寝室に寝台と寝具はあったが、壺も、絹の房飾りの掛け布もなく、花毯も剥がれて、床の板が見えていた。

 卓と椅子も、女官たちが入念に選んで手配した、美しいものは運び出されて、飾りもない木のものが置かれていた。

 まるで、戦に破れ、何もかも奪われたようだった。


 この日のための装束だけは見につけていた翠柳は、入宮のための儀式だけは几帳面に行い、やがて自分と、女官たちだけになると、部屋の中をそれぞれ見て回る。


「絨毯の下というのは、板でしたのね……。壁に飾り布がないと、こんなにも部屋が広く見えるのねぇ……」


 いくつかの感想を述べると、翠柳は粗末な椅子に座る。合図をして、自分の前に女官たちを並ばせる。女官たちは主人より目線が上にならぬようにしゃがんだ。


 翠柳は言った。


「あなたがた、今までご苦労様でした。この後宮で、私についていては未来がない。他の役を取るがよい」


 女官たちは息を詰めた。

 主人の命は絶対で、告げられたならば従わなくてはならない。


「こうなっては、私に出来ることは、新しい女官の引き受け役ぐらいでしょう。あなたがたは、もうとっくに優秀で、帝の為に尽くす力があります。私の元から離れなさい」


 女官たちは嗚咽を漏らした。

 だが、告げられたなら従わなくてはならない。ここは王宮であって、掟があるのだから。


 (かん)(がん)が呼ばれ、ただちに女官の入れ替えが行われた。

 (ふぅ)(ちゅん)(ふぁ)の入宮のために、いくらでも人手は必要だったので、差配の宦官は喜んだが、女官にその場で、

「本日中に必ず、若くても見所のある女官を翠柳さまにつけなさい」

 とすごまれていた。



 女官も宦官も去り、翠柳は一人になった。


 戸をあけ、庭を見る。

 座るものが欲しいと思い、椅子を手にしたら、なんの飾りもない椅子は軽かった。

 今まで椅子一つ、自分で動かしたことはなかった。

 庭の見える場所に椅子を置いて、腰を下ろす。

 空が明るく晴れていて美しかった。

 雲が、輝いて流れていく。幾層にも重なって、下層の雲が足が速い。

 まぶしい。


 こんなに一人なのは、はじめて。


 そう思って、翠柳は深く息を吸い込んでみた。

 牡丹の盛りで、花の香りがした。緑の、そして土の香り。流れを作ってある水の香り。

 風で牡丹が揺れて豪華だった。

 様々な絵も芝居も見てきたけれど、これもとても美しいと翠柳は思った。


 今までとはまるで違う世界に来たようだ。 


 なるほど、自分の少女時代はすっかり終わったのだと思うと、面白かった。

 こののち、もし皇太子を産んだら殺され、または公主を産んだら(とう)(ぐう)に向かわされる。それが自分の運命で、(おきて)だ。


 (くつがえ)すことはできずそれに(のっと)って生きる。後宮に上がるために生まれ、育てられた自分なのだから。瑙家はそうやって名家となったのだから。


 瑙家の美女全てが歩んで来た同じ道を歩いていくと、覚悟をしていたので、全てが新しくなる感覚は新鮮だった。自分の人生には何の変化も起こらないと思っていた。



 それが今日だけのことで、結末は変わらないのだとしても。



 廊下で足音がした。

 知らない女官が現れて、廊下で平服した。


「なにか」


 翠柳が問うと、女官が答えた。


「おそれながら翠柳さま、私は湖充華さま付の女官でございます」


 翠柳は驚きに目を見開く。


「湖充華さまがただいま、お一人で渡りの間でお待ちです」


「一人で!?」


 なんのつもりだ。

 入宮の日だ。いくつも儀式があるだろう。帝はどうなされた。なんの用事だ。私に?

 わからない。

 女官は伏せたまま言った。


「私も湖充華さまに先刻ついたばかりでございます。どうかどうか翠柳さま、お助け下さいまし。湖充華さまは、翠柳さまのところへ案内せねば、私の目の前で簪で喉をついて果てるぞと仰るのです」


「なんと恐ろしいことを」

 床についた女官の指は白く震え、声は怯えて掠れていた。


 少し考えて翠柳は言った。

「では、こう告げよ。櫛、簪、佩玉、全て外し、薄物一枚でここへ来るならば会おう、と」

 女官は身を震わせながら、伏せたまま下がる。

「お言葉賜りましてございます」

 と、離れた場所から言って、去った。



 わけがわからない。


 風が出てきた。


 庭の牡丹の葉がざわざわと鳴る。梢も揺れはじめた。


 翠柳は扉を閉めた。


 椅子を戻す。


 入宮のための衣と装飾はずっしりと重い。

 もう脱いでしまおう。本来であれば帝のお渡りののち、帝に伴われて先代の帝たちの石像の間に挨拶に行く段取りだが、湖充華のせいで、その段取りは失われるだろう。

 いずれ帝が思い出すかも知れないが、今日のところはすっかり忘れているだろう。自分の為の段取りも、儀式も、支度も、すっかり湖充華が奪うのだ。

 湖充華がなんのために渡りにきているのかはわからないが、儀式の最中に、妃が抜け出せる機会は何度かあるのを翠柳は知っている。金の帳の中にいて、外で他の役人や道術士たちがなにかしているときだ。今はきっとそれだ。


 儀式のための装束も髪結いも、つけるのも作るのも時間がかかる。


 装束を外すわけにはいかないのだから、充華は決して来ない。


 

 風が当たると、布を張った窓と扉が揺らぐ。

 激しく躍る木々の影が、細い格子に張られた窓の布に映っている。

 庭の()(たん)が散ってしまうかしらと思った。


 残されていた鏡で、肩に掛けた透ける緑色の披帛の具合を直した。


 扉の布に、髪を下ろした女の影が映る。


 まさか、と翠柳は思ったが、その影は扉の前で平伏し、言った。


「湖充華でございます」


 翠柳は、少し待った。

 返事をしないであればどうなるか。

 この女はどうするのか。

 だが、充華はなにもしなかった。

 ただ、平伏して待つだけだった。



 どのぐらいそうしていただろうか。

 翠柳は言った。


「入れ」


 影は端正な動きでなおり、作法通りに、膝を閉め、爪先だけでしゃがんだまま扉を開けた。

 どっと光が(あふ)れ、牡丹の花びらが一斉に室内になだれ込んできた。

 まばゆい。

 部屋の中に進み平伏する充華の姿が目に入る。

 言ったとおり、黒髪はほどかれ、乳房の上で結ぶ薄物一枚だけの姿だ。

 伏せていてもわかる。

 この娘は美しい。



(おもて)を上げい」

 充華は言われるがまま顔を上げた。


 雲が切れて黄金の陽光が差し込む。布越しの光はより輝き、影は(しっ)(こく)となる。


 光と牡丹の花びら。明るく輝く晩春の緑に彩られたその人は、桃色の頰と、うるむ黒い瞳と、艶めく髪をしていた。

 化粧と爪の色は落とせておらず、薄布だけの身体に不似合いだったが、それもまた倒錯した色気があった。


 この娘の存在そのものに、道を曲がったら唐突に開ける絶景のような衝撃がある。



「……扉を閉めい」


 翠柳は言う。

 扉を閉めたら二人きりになる。

 女官もいない。


 充華は扉を閉める。音を立てずに。



 部屋の中には吹き込んできた牡丹の花びらが落ちている。

 充華は板の上に座って、緊張と高揚を隠せない様子をしていた。

 (まばた)きを忘れ、()(しつけ)なほどに翠柳を見つめて頰を紅潮させている。

 紅潮しているのは頬だけではない。

 身体全体が薄い桃色に染まっている。

 爪に塗られた金色とあいまって、初夏を告げるみずみずしい果実そのもののようだ。


「立って、椅子を持って、私の横に座りなさい」


 翠柳は、つい、そう言ってしまった。

 そうしたかったからだ。


 充華は瞳を輝かせた。

 星が数え切れないほど入れられているようだった。


「よろしいのですか!?」


 翠柳は圧倒されつつも答える。


「そう言ったわ」


 充華は、薄布の裾を押さえて立ち上がると、卓の対面に置かれていた椅子を掴んで、翠柳の横にぴったりとくっつけようとしたが、翠柳の桾を挟んでしまうので、どうしようかとためらった。

 それを見て、翠柳は、自分の桾の幅を押さえてやる。

 充華は嬉しそうに笑うと、翠柳の椅子に、椅子をくっつけて置いた。


「お掛け」

「ありがとうございます」

 充華の体香がふわりと立ち上る。

 花と蘭奢待が混ざったような、独特の香りだ。抱きしめて嗅ぎたいと思わせる香りだ。


 充華が椅子に腰掛けると、翠柳は自分の披帛をとって、充華に掛けた。


 充華は驚いて翠柳に披帛を返そうとしたが、翠柳はその手に手を重ねて言った。


「よい」


 充華は今度は盛夏の桃ほどに全身を赤くした。


 翠柳は心配になる。


「どうした? 酒でも飲んだのか? それとも風邪か? 私が裸にしたから」


 充華はたまらず、と言ったように翠柳から視線を外し、披帛を握りしめた。


「お、おっ、畏れながら翠柳さま、ど、どちらでもなく、私のこの、身体のほてりは、ただ、翠柳さまにお目通り叶い、また、このような幸運に……はあっ……翠柳さまに、お手を重ねていただけるなど、充華は、胸が破れて死んでしまいます」


 翠柳は慌てて立ち上がる。


「宮医を呼ばねば!」


 充華は、翠柳の手を強く握る。


「畏れながら翠柳さまにおかれましては、充華のこの有様は、医によっては手の施しようのないものであるとお知りいただきたいのです!」


 翠柳は充華に手を握られたまま椅子に座り直す。


「許す。話せ。なぜお前はそのような有様になっておる」


 充華は、翠柳の手を両の手の平で包んだ。


「ありがたき幸せでございます。実は、私の世話役は、以前萌宮に仕えていたものです。そのものが翠柳さまの話をしたのです。私は、あれが語る翠柳さまのお姿、気高い振る舞いに、すっかり心を奪われてしまったのです。あまりにも焦がれて、翠柳さまのお姿を垣間見ようと、道術も習いました。王宮の道士たちの防御術は私の熱意の前には」

「……私をのぞき見していたの?」

 翠柳はわずかに眉根を寄せた。

 だが充華は、視線に熱をこめて答えた。

「はい」

「お前」

 翠柳はかっとなって、充華に取られた手を引こうとしたが、充華は力をこめて握り、離さなかった。

「ご安心下さい。一度だけ、一度だけでございます!」

「だとしても気味が悪い、離せ」

 充華は焦って早口で言った。

「あれは春先でございました。翠柳さまは、萌宮の池の島に建てた東屋にいらした。私は白い小鳥となって訪れたのです。翠柳さまは微笑んで、私を指にとまらせ、そ、そして、あの」

 充華は、今度は熟れた桃のように真っ赤になって、翠柳から視線を外して肩を震わせた。

 翠柳は目を細めた。

「ああ……覚えている。かわいらしい小鳥。指を差し出したら桃色の足で乗ってきたから、私は思わず、あかるい灰色の嘴に口づけてしまったの。そうしたら、驚いたのか、飛んで行ってしまって、寂しい思いをしたのだったわ……」

 春の薄い影。

 名残の雪の様な小鳥。

「あれは、あなただったの?」

 充華は目を閉じて、首まで赤くして震える声でやっと言った。

「左様でございます。充華の心は、すっかり翠柳さまに奪われてしまった。それからは、どうやって翠柳さまにお目にかかれるか、そればかり考えておりました。帝が(たん)(らん)(ゆん)(しぇん)にいらっしゃるのは、暦の上からわかっておりました。十年に一度の帝の行事でございます。月山には先々帝の廟がございますから、必ずの行いでございます。私はずっと、その年その日と決めて、計画を練ったのです。雨を降らせたのも私でございます。私には時間がございました。私は、私を美しく賢く、そして道術の力を強く、育てたのです。帝の心を得るために、そしてあなたに、お目にかかるために……!」

「おまえ」

「いえ、それでは足りない。あなたをお救いしたい。叶うことなら充華は翠柳さまと長い時間を過ごしとうございます。そして翠柳さまと一緒に充華は死にたい。お聞き入れ下されなければ、充華は死にます。ここではなく、どこかで、遠くなくいつか、翠柳さまのお邪魔にならないところで」

「充華」

 翠柳は充華の名を呼んだ。

 充華は思いがけないことに、目を見開いて涙をこぼした。

「翠柳さまが」

「充華」

「翠柳さまが、充華の名をお呼びになられた……ッ」

 翠柳は、充華の手の中からするりと手を抜いて、充華の背中を撫でた。

「落ち着きなさい。おまえの気持ちは今聞きました。私に恋慕しているのですね」

 充華は泣きながら真っ赤になって、何度も頷いた。

「私は、おまえの思うようなものではないかも知れませんよ」

「とんでもない事でございます。私が思うより、翠柳さまは、ずっと……ああ、何に、何と喩えたらよいのでしょう……翠柳さまは、私の知る世界の美しいものの全て……そう、私の全てでございます……帝になど、殺されてなるものか……充華は決してそれをゆるさない……」

 翠柳は、ふ、と息を吐いた。

 それは笑いになった。

「あ、ははは、ははは! なんてことを、なんてことを言うのかしら、充華! ほほほ!」

 翠柳が笑うので、充華はただ賛美の視線で見つめていたが、垂れそうになっていた唾液をこっそり指の背で拭うと、蕩ける声で言った。

「充華は本気でございます」

 はぁ、と笑いを収めると翠柳は、自分の顎に指を当てて言った。

「おまえが、帝によりころされないようにするのは、私だけか?」

 充華は息を整える。

「いいえ」

「私の以後全てを? 全ての女たちをか?」

「はい」

「なぜ?」

「きっと、翠柳さまはそのように望まれると、確かに信じていたからです」

「そう」

 翠柳は、耳の飾りを外した。卓の上に転がす。翡翠と金の飾りだ。

「私は、そう、思っていたわ。今まで言葉には出来なかったけれど」

 櫛を外す。

 簪を抜く。

 宅の上に、宝物が積み上がる。

「そう。そうよ、私はそう望んでいるの。何が掟。臆病者ども。たった一人の女の再来を怖れて、何人も殺す。なぜ私は、それをはっきりと言葉にして、意思としなかったのかしら? 私は靄を吸い込んで、頭を鈍らせていたのだわ。なんという屈辱か!」

 翠柳は怒りに顔を染め、簪をまた一本抜く。

 どっと黒髪が雪崩れ、翠柳は卓の上に手を置き、その甲に簪を叩きつけるようにして刺した。

「翠柳さまッ!」

 充華が顔を真っ青にして悲鳴を上げる。

「いいのです、こうでもしなければ、こうでもしなければ私はこの怒りを鎮める術を持たない」

 翠柳は傷みに息を荒げ、簪を抜いて放り投げる。

 白い甲に鮮血が走り、指を伝って衣装を汚す。

「礼を言うぞ、湖充華。おまえが言わねば、私の目が覚めることはなかった。私の怒りが燃えることはなかった。おまえが私に火をつけた。私は愚かで怠惰であった。そしてこれからはそうではなくなるのだ」

 充華は、自分が纏っている最後の薄物の紐を外すと、脱いで丸め、翠柳の傷に当てた。

「寒かろう」

「いいえ」

 充華は、翠柳の帔帛一枚の姿になったが、輝く黒い目で翠柳を見た。

「翠柳さま、充華はあなたの火の側におります故に」

 翠柳は、その応えに満足して深く微笑んだ。

 充華はその微笑みにまた、心臓を射貫かれて息を呑んだ。

「……道士であれば、傷の手当てもできるでしょう」 

「はい」

「よくてよ。だけれど、傷跡は残して。私の心の火の故に」

「……はい」

 翠柳は、充華に傷を抑えさせたまま立ち上がると、寝室に向かった。

 充華は、誘われるままついていく。

 白い布を取って、手当をし、止血のための術を掛ける。

「血で汚れたし、こんな服は下らないわ。どうせ誰も見ないのよ」

「翠柳さまの血は、ものを汚すものではございません」

「充華、私の衣装を取り払って」

 充華は、ごくりと唾を飲み込む。

「私は自ら衣装を外したことがない。あなたもそうでしょう。だから一緒にやりましょう」

 これは残されていた寝台の上に二人で乗る。

 帯を解き、佩玉を外し、床に無造作にばらばらと落としていく。

 布を剥ぎ、紐を外し、沓を脱がせて、とうとう二人は裸になった。

 翠柳がかけた帔帛も落とす。

 どちらからともなく唇と身体を合わせた。


 寝所の窓には張られた布の向こうに、夕日が落ちていくのがわかる。木が風に(あお)られて躍り狂っている。

 風は()(ぜん)強く、時折巨人の鼓動のように庵が揺れて震える。


 するとここは心臓だ。


 ここは世界の心臓だ。

 二人ともがそう感じた。


 充華は寝台の上に起き上がり、(いっ)()まとわぬ姿で座った。夕日が透けて(にじ)んで光る窓と、おそらく外では全天で夕焼けが始まったのだろう、赤く、窓の布が染まる。(こう)()の繊細な細工の影が室内に伸びる。


 充華の、しみ一つ、傷一つない身体はまだわずかに幼さを残していて(みず)々(みず)しい。

 その黒い瞳だけが、溶岩のように燃えている。


「あなたを死なせはしない」

「充華」

「私が、翠柳さま、あなたを、まもる」


 充華が言う。

「……私が連れてきた者の中にひとり、変わった者がおりますの」

「どのようなかた?」

「あまりにも遠方から来たものだから、考え方がまるで違うのです。帝など、掟など、不変のものであるはずがないと、変えてしまえばいいと、言うの……」

 充華は微笑んだ。

「……ばかなことをと思っていたけれど、あなたが死なないためになら、私はきっとそれをします。お美しい翠柳さま」

 充華は、桜貝のような爪の指で、翠柳の手を取ってそっと握った。

「翠柳さま。あなたを(たた)える言葉は、あなたを目にしたものたちにより、(ばん)(じょう)の高きまでに積み上がり、天に届くほど(ささ)げられてきました。私はそれをいくらでも聞いてきたのです。私が耳にしたその言葉の群れの中で、通ずるものがあるのです」


「なにと?」


「暗闇で輝くもの。星や月や(かがり)()や、(ともし)()など」


 充華は翠柳の手の甲、傷に巻いた布に(ほお)()りをした。


「それはけして消えない、正しい目当てというものなのです。ずっと、そう喩えられる、あなたにお逢いしたかった」


「充華さま」

「私はこれより帝のもとに参ります。一目あなたに逢えたなら、それで終わりでいいと思っていました」

 その言い方に翠柳はぎくりと身を(こわ)ばらせた。


「まさか」

「はい」


「あ、あなたを帝が()()めたのは」

()(つき)前のことでございます。私にはすでに月のしるしがない。おそらくここには皇太子がいます」


 充華は下腹を()でる。翠柳は、暗くなり始めた室内で、両手で頰を押さえて目を見開き、うろたえる。


「ではもう時間がないわ。なにか……なにか手を打たねば」

「いえ、翠柳さま。あべこべにお考えください」

「あべこべに?」

 充華は裸のまま翠柳に近づき、目を(のぞ)き込んで囁く。

「あと、七カ月もあるのだと」

 翠柳は充華の目を見つめ返し、唇を引き結ぶ。


「では充華さま、日を見て軍議でございます。その、遠方からの旅人も呼びましょう」

「はい、呼びましょう」

「名は?」

()(ほん)(しぇ)と申します」





 意識体となって成り行きを見ていた唱亀が冥華に言う。

「君の探してるやつじゃない?」

「そうですけど、この時から関わってたのか……。知らなかった……」

 (いま)々(いま)しげに冥華は言い、唱亀はなんか怖いなと思って黙った。




 二人が軍議をすると決めた日、大宮学は現れた。

 髪は黒くて短かった。若者と言っていい年齢で、黒と青の(ほう)に紫の帯を締めていた。


 宮学は、華麗に姿を調えた二人の前に平伏し、女官たちが支度した酒と(さかな)と茶の卓についた。

 そののち女官たちは全員下げられた。


 翠柳の庵は、きちんと翠柳好みに整えられていた。

 床には高所に生息している山羊の毛で織られた花氈が、きっちりと敷かれて輝いているし、卓も中央に螺鈿の飾りを入れ、巨大な木の輪切りを磨いて、側面に吉兆の飾りを描いたものだ。


 女官たちも下げ、誰もいないとしても、万が一にも声が漏れないよう三人は寝所の、寝台の陰に隠れ、(ひたい)を寄せ合って話をした。

 万が一にも漏れてはいけない話だからだ。

 茶器を(じか)に床に置き、飲みながら話をする。

 可能か可能でないかは問題ではなかった。


 失敗したら死ぬ。

 それだけのことだ。


 このままでも二人は皇太子を産めば死ぬのだ。

 策を練り、結論にたどり着いて、充華は翠柳に抱きついた。

「ああ! 楽しい! 楽しいわ! 私、こんなに楽しいことがこの世にあるだなんて存じませんでした!」

 翠柳は充華の頭に頰を預けて微笑む。

「そうね、私もよ」

「私たちこんなに勉学に励んでいるのに、知らないことがあるのが不思議だわ」

 すっかり冷えてしまった茶をすすって宮学は言う。

「そりゃそうでしょう」

 二人は宮学を見て言う。

「どうして?」

「だってそれは、希望というものだからですよ」

「希望?」

「希望って何ですの?」

 宮学は二人に問われ、ぼりぼりと首の後ろを搔いた。

「ココにはそもそも、その言葉がありませんからねぇ。おれのとこでは、何より大事なもんでしたよ。あのね、だから、そう、明日とか一年後とか、何をしようかなって、わくわくする気持ちっていうか」

「わくわく?」

「なあにそれ」

「えーと、充華さまが翠柳さまに会いたいと願った気持ちの種類ですよ」

「ああ! あの気持ちのこと!」

 宮学はへらっと笑う。


「この計画を絶対に完遂しましょう。俺だってこの国の掟で、あんたたちが殺されるところなんて見たくないんだ」


「そうね」

「そうね」

 宮学は二人に膝を詰める。


「ではまとめます。まず、充華さまは、帝をメロメロにして、皇太子が生まれても殺されないようにする。翠柳さまは、充華さまをお守りするために、他の妃に根回しをしてください。一度はお手つき為されましょうが、すぐに王宮から皆様お下りあそばされるように、充華様は仕向けて下さい。皆様に向かっていただくのは冬宮がよろしいでしょう。今は寂しい場所ですが、あそこを豊かにしましょう。それで他の妃のご懐妊の確率は減るはずです。でも、言っておきますがね、この計画はめちゃくちゃですよ。充華さまおひとりの魅力に全てかかっております」


「ええ」

「そうね」

 なんでもないことの様に二人は微笑む。宮学が顔を歪ませて言う。

「ご不安ではありませんか?」


 充華が月下の花のように笑う。

「まあ、宮学ったら。だって、それができるって、私たちはとっくに存じておりますわ」


 翠柳が夜明けの星のように笑う。

(どく)()で沈んだ国など古今東西いくらでもあります。そもそも、この掟自体、皇太子の母を恐れて為されているのですもの。私たちにできないわけがない」


 宮学が短く鋭く息を吐く。

「そもそも一番偉い帝が掟をひっくり返したらもうそれでいいんじゃないんですかねぇ」


 翠柳が言う。

「それを(じか)に帝に申し上げたところで、そうかそうしよう、なんてなるわけがないわ」

「なんでさ」


「それはもう掟だからよ。十三代も続いた掟。帝は掟をたたき込まれ、考えることもなさらない。疑いを持つことも。おそらく、ご自分が、充華に皇太子を何人も産ませても、その矛盾を認めようともなさらない」


 充華は翠柳にすり寄って言う。

「だから、私たちが、まずは土台を揺るがさなければ。事実を積み上げて、突きつけて、脅かして、はっと気づかせ、それでようやく帝は掟について考えることになるでしょう。この国から掟を奪ってやるのです。皇太子を産んだら殺されるなど、なんと愚かしい掟でしょう。私たちは皇太子を産むためだけに生きているのではない。何年かけても、私たちが、帝に掟を変えさせてやらねばなりません」

 翠柳が充華の細い肩を抱いて言う。

「充華さまを殺されてなるものですか。たとえ何年離れることになったとしても、私は必ず充華さまを永らえさせます。私は充華さまをけして裏切らない」

「私も翠柳さまをけして失望させません」


 宮学は半笑いで、肩をすくめた。充華が笑いながら言う。

「宮学、おまえが私を裏切り、翠柳さまを失望させたなら、地の果てまでも追いかけて捕らえ、全身の肉を(にぶ)(やいば)で毎日わずかずつ()いで三年かけて殺してやるからな」


 宮学はぐびりとつばを飲み込んだ。

 翠柳も微笑んで宮学を見て言った。


「まずは鼻の(ふく)らみの片方から削ぎましょうね。そこに(あんず)(かん)()()の汁を塗りましょう。虫が来て、卵を産みやすいから」

「いやいやいやいや、俺だってそうですよ、俺だって裏切りませんよ大丈夫ですってがんばりますし!」

 宮学は真っ青になって(かぶり)を振った。

 翠柳が言う。

「作戦は至って単純。充華さまが帝の心を(とら)えて独り占めにすること。私が他の妃を、まとめて冬宮に下げて、帝のお渡りをなくすこと。その間に充華さまは皇太子を産むこと。帝に充華さまを殺させないと決意させること」

 充華が翠柳に言う。

「では翠柳さま、帝の全てを教えて。あの方の心全て、私が(から)()るわ。そして私を殺すなど惜しくてできないようにしてやります」

「ええ、教えましょう。私の心を全て奪ったあなたに」

「ええ、私の心もそうですわ。帝に抱かれても私の心はあなただけのもの」

「俺帰っていいッスか?」

 宮学が言った。



「で、充華さまは、湖皇后となり、翠柳さまは(のう)(ちゅん)(びー)()となりましたというわけ」

 ここまでの一部始終を見ていた冥華が言い、唱亀が頷く。

湖皇后(ははうえ)は殺されずに僕らを立て続けに産み、後宮の妃たちは湖皇后(ははうえ)以外は不要ってんで全員冬宮行き。妃たちの外交仕事は冬宮で済ませて、視察や遠征とかも、冬宮発冬宮着で、報告は書簡で済ませるから大仰な行列とかを後宮から出さなくていい分、簡素化はされてて節約になるし、瑙正一品の()(づな)の取り方がうまいんだろうけど、くだらない(ちょう)(あい)争いなんかなくて、すごく助かってる……」

「そうなんです。もちろん、冬宮に下された妃の中には、皇后を呪って殺してやると言うかたもおられるのですが、瑙正一品様が根気よく諭され、半年のあとほどには毒気を抜かれてしまうのですわ」

 唱亀は考え込んで言った。

「それでも後宮に、新しく誰かが上がれば、帝は一度は御手をつけなくてはならない。そして冬宮で、子が生まれる」

「そうよ」

「───今まで産まれたのは女子ばかりだよな? 男子であれば……」

 唱亀は冥華に問い、冥華は(こた)えない。切り替えた声で言う。

「さて、見るべきものは見たかしら」

 唱亀は深追いしなかった。

「そう思うね」

「では、最後の札を切ってくださいな、唱亀さま」

 唱亀は頷いて、甘えた声で言った。

「ねぇ(まあ)(まあ)。僕をおうちに帰して」

 


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