第八章
ひもじさも寒さも大嫌いだ。痛いのも辛いのも大嫌いだ。疲れているのも動けないのも嫌いだ。だからこのまま。このまま眠ってしまえたら。
「道士小姐。起きて」
「めんどうくさい……」
「僕を連れ帰ってよね」
その言葉に冥華は飛び起きた。
「唱亀さま!?」
「ここ、どこだい」
昼だ。
霧の深いどこかだ。しっとりしていて寒い。寒いが春の寒さだ。足下には土と草。
「野原かなー。山かなー。かぐわしい緑の香気だ。僕は花の季節が好きだけどね」
起きてみれば、冥華は大きな岩の上に寝かされていた。唱亀は岩の上に座っている。
「どうしてついてきたんですか! 私一人でなんとかします!」
「哥哥は鳴鳳が守るだろうから、僕は事態の収束に努める役だ。説明して、道士小姐。今どんな状況?」
冥華は両手で顔を覆って、一度心を静めてから言う。
「ええと、王宮の道士が寄越した殭屍に連れてこられて、おそらくここは術の中です。どこでもない。あなたか私の記憶の世界ですね」
「どうしたらいい?」
「運が良ければ助けが来ますけど、どうかなあ」
「どうかなぁって」
「皇太子であるあなたが術の中にいるのを知って、王宮の道士が術を解くほうが早いんじゃないかしら」
「待ってりゃいいなら待つけど」
沈黙が落ちた。
霧が流れる音だけがする。
唱亀が孔雀石の耳飾りを揺らして溜息を吐く。
「ここ、歩いていいのかい」
「え」
「この岩の上を降りるとろくなことにならない気がするんだけど」
冥華は少し考えてから、岩から身を乗り出し、一本、草を引き抜いた。
土のついた根が見える。
「草だし、土ですね」
「歩いてみるか」
二人は頷きあう。
唱亀は孔雀石の耳飾りを一つとって冥華の耳につけた。
「おまじないだ」
「私も」
冥華は髪を一本抜き、唱亀の手を取り、小指に巻き付けて結んだ。
「なんだ恋人同士みたいだな」
唱亀が言ったので、冥華はつくづくと唱亀の顔を見つめてしまった。そして唱亀は変な顔をして冥華に言った。
「そんな顔をしなくてもいいんじゃないかな? 僕はこれでももてるほうだよ?」
「そりゃそうでしょうけど、ちょっと……」
「君、思い人はいるの」
「萌宮に上がってるんで、もしいてもさようならですね」
唱亀は少し考えてから言った。
「えっひどいね!? そういうことになってるんだ!?」
「そうですよ」
「君、家族は?」
「私は冬宮の娘です」
冥華は岩の上からひらりと飛んだ。
地面に着くと思ったが、足は地に吸い込まれるように身体が沈んだ。
「うわ」
「冥華!」
唱亀が手を伸ばし、冥華の着ている袍の襟を摑んだ。そのまま岩にしがみつき、踏ん張っている間に冥華は岩にすがりついて、冷や汗をかきながら岩にのぼり直した。
二人で岩に座り込み、切れた息を整えてから冥華は言う。
「僕が残ってて良かったねぇ!」
「ほんとう! ありがとうございます!」
「びっくりしたぁ」
「でもこれじゃ、……いろいろできないわ」
「何とかしてくれよ道士」
「何とかしてくださいよ皇太子」
二人は唇を引き結んで睨み合った。
暫くそうしていたが、冥華は唱亀を更に睨んで、歯ぎしりをするように言う。
「この術を仕掛けた道士に、どうにかしてもらってくださいよ」
唱亀がうっと詰まった。
「いやそんな……ねぇ。君の師匠とかはどうなの」
唱亀が言って、冥華が鼻に皺を寄せる。
「は?」
「は? て」
「王宮の道士が、今術かけてるんだから、王宮の道士に言って下さいよ」
唱亀は横目で冥華を見て、どうかなと呟く。
「いいじゃないですか、一言言えばいいだけでしょ。早くして」
「君さあ、僕一応皇太子なんだよ? なんだその口の利き方」
冥華はふふ、と笑って頰に落ちた髪を搔き上げた。
「私道士よ? 私がいなかったらあなた、ここでどうなるのかしら?」
唱亀は冥華を見つめ、低い声で言う。
「君はとても危険だね。この国は帝を神として動いている。僕は帝の子だ。君の考えは、この国の考え方ではない」
冥華は臆さず微笑んだまま答えた。
「歴史書を繙けば、帝は何度も弑されています。帝が神でないなど、乱世になれば誰もが思い出すの。今は平和で豊かだから、帝の不可侵性が便利なだけ。そう、帝も、皇太子も、便利なだけ。ただ、自覚や教育、周囲の扱いで、変わるものも多いでしょう。だからこそあなたは、抜きん出て美しく高潔です。そして聡明で公正。これまでのやりとりで、充分わかっております。あなたは私を対等に扱ってくださっています。それがどれだけ尊いことか、私にはよくわかっています」
唱亀は冥華の言葉を聞いて口の端を片方上げた。
「────歯の根が浮かないかい?」
「いいえ、心から」
「哄竜哥哥なら、うむ。なるほど、もっともであるって言うんだろうし、鳴鳳なら最後まで聞かないぜ」
「だからあなたに言ったのよ唱亀さま」
ざっと霧が動いた。唱亀は視線を上げて周りを見る。
「おっと……」
「みなさまのお名前揃うのが呪文だったみたい。唱亀さま、哄竜さま、鳴鳳さま」
霧が動き、一部だけ凝って玉のようになる。
その中に男の子が三人現れた。ひとりが寝台に横になって、二人が横にいる。
「うわぁ……」
唱亀が嫌そうに顔をしかめる。冥華は訊く。
「おいくつぐらいのときです?」
「……哥哥が八つの時だよ。帽子がその時の色だし、鳴鳳が犬に仕込まれた毒針にやられた時だ」
「犬に?」
「子犬が迷い込んでさ。毛並みに毒針が」
「お労しい」
「もうありすぎて三人まとめて王宮の奥の奥で育てられたよ。食べ物も粗末だし、着るものも、何か仕込まれたらすぐ分かるように、生成りの布だし、住まいも、塗料に毒が仕込まれちゃいけないってんで白木のままで何にも飾りもないんだ。生活が麗しくないのってとてもいやなものだよ」
「唱亀様、洒落てらっしゃるから」
「僕は美しいしね」
「今の容色でなくても、きっと美を好まれたんでしょうね」
唱亀は少し考える。
「実は僕も毒を食らったことがあって」
「ええ」
「頭皮が一部ただれたままだ」
冥華は笑って唱亀を見る。
「剃髪なさったら、きっと溶岩めいた飾りでしてよ」
唱亀が笑う。
「なるほど! 周りに刺青でも入れてやろうか」
玉の中の二人の子供が動く。泣き顔で駆け寄ってくる。視点の主は、二人を深く抱きしめる。
この思い出を、この道士は大切にしているのだ。
寝台の上の子供に近づき、三人の子供と温かく顔を寄せる。
冥華は何も言わず、唱亀の膝に座った。
「失礼」
「なんだよ」
「抱き締めててください」
唱亀は思いも寄らない言葉に目を見開いて、口を引き結んだ。
冥華は唱亀を見て言う。
「逆でもいいですけど」
「えっ」
「私が唱亀さまをこう。うしろからこう」
「いや、何するのさ」
「えーと」
冥華は自分の袍の懐に手を突っ込んで、ごそごそした。
「何してんのさ」
「あった」
取り出したのは金の鎖につながれた翡翠だ。
「その翡翠すっごいいいやつだ。それに鎖の細工が素晴らしいね」
「釣ります」
「は?」
冥華は鎖の端を持って、もう片方を岩に沿うようにそっと垂らした。ぎりぎり地面に着かないほどの長さだ。
「翡翠が傷つかないかい?」
「翡翠の傷とご自分の命とどちらが大事?」
「翡翠」
唱亀の返事に、冥華は呆れた。
「おかしなひと」
「美しいものが傷つくのはイヤなんだ」
「では戦も? あれも美しいものを大きく損ないます」
「あたりまえだろ」
冥華は微笑む。
「……皇太子があなたたちで本当によかった」
「え?」
冥華はそれには応えず、翡翠を垂らしている方ではない手を高々と上げ、空気を震わす声で叫んだ。
「この翡翠は瑙正一品から預かったもの。私は冬宮の娘、瑙正一品の娘です! 道士湖皇后、私、仙冥華と、あなたさまの御子、唱亀さまがここにおられます!」
翡翠と金鎖に巻き付くように、地面から蔓が伸び、あっという間に花が咲いた。
花びらが一斉に散り、実が生り、地面に落ちると霧を散らし、大地を揺るがして芽吹き、伸び、緑を重らせ、花を咲かせて散り、種を落としてまた芽吹く。風の中に花びらが残っている間に、芽吹いて咲いて枯れるを何度も繰り返す。花の芳香がきつい。
唱亀が冥華を抱き締め、冥華は金の鎖を両手で摑む。その間も植物の生え替わりは何度も何度も行われている。瞬きの間に、植物は轟と共に地面を埋め尽くそうとしている。
唱亀が冥華を抱きしめて言う。
「僕怖いから、もっと強くぎゅってしてていいかい」
「ぜひ。できれば、足を踏ん張って!」
「ああっ藁底の沓にしておけば良かった」
揺れは岩の上にいる二人にも伝わっている。
「そんな、洒落た、沓、履いてるから滑るんですよ!」
「あっ待って、もしかしたら」
唱亀は集中した。沓底が大きな手の平になって岩を摑む。
「おっすっごい!」
「あっすごい! でも気持ち悪い!」
二人は歓声を上げたが、岩が植物の根に突き上げられ、岩ごと宙に舞った。風に満ちる白い花びら。きつい香り。上下が分からなくなる。冥華は金鎖を摑んでいる。唱亀は冥華をきつく抱きしめている。
世界が回転する。
今はいつで、どこだったろう。
自分は、誰で、今は。
この花はなんだった。
この香り。
ああ、
牡丹。




