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第六章


 まだ、夜は明けていない。

 薫玲は起き上がると、灯りを灯し、綿を入れた外套を着込んで外に出る。

 剃刀のような冷たい空気が、鼻の奥に届く。

 まだ鳥も眠っている。

 薫玲は(ねん)(ちゅあん)(かま)(ぐち)に回ると、鉄の扉を鉄の棒で開ける。白い灰が宙に飛んで落ちる。まだ昨日の火種が残っていてほっとする。新しく火を点けるのは手間だし暖まるのに時間がかかる。

 火かき棒で灰の始末をして、薪を入れ、手持ちの鞴を使って空気を送ると、薪に火が回って燃える。

 顔と身体(からだ)に熱が来る。手をかざして少し温める。

 釜口の鉄の扉を閉め、周囲を軽く掃除してから、服をはたいて灰を落とす。あくびをしながら部屋に戻り、身なりを整え、庵の入り口に向かう。

 一度入り口で平伏してから中に入る。(めい)(ふぁ)はまだ眠っている。猫はどこにいるだろう。見つからない。

 使ったまま置いてある昨晩の茶器を盆に()せて卓を拭く。一度厨(くりや)まで出向き、茶器を汚れていないものに換える。そのころには鳥が騒がしく鳴き出す。


 朝番の(かん)(がん)に、主人の朝食はどうすると()かれ、冥華が好きそうなものを何点か上げる。

 もう一度戻って猫の器を取り、こちらは自分で洗い、手に持って戻る。

 だが急いでも、戻るころには、空が白んでいた。

 主人が起きていようがいまいが、夜明けの時には女官は主人の寝室の前に(ひざまず)き床に(ひたい)をつけていなければならない。

 冥華は気にしないだろうし、もしかしたら起きもしないだろう。

 だが、きまりだ。しきたりだし、(おきて)だ。それが正しいし、守らなくてはならない。

 薫玲は冥華の庵に戻り、寝室の前で床に額をつけた。

 寝室の扉が開いて、冥華が言った。


「何やってるの?」


「おはようございます」

「おはよう。なにそれ」

(ほう)(ぐう)でのしきたりでございます。守らなくてはならない掟でございます」

 冥華は寝台に座ったまま言った。

「くだらないわ。それやめて」

「は?」

 思いがけない言葉に薫玲が思わず顔を上げる。冥華は寝台の上で立てた両膝に顎を乗せて薫玲に言う。

「私は、私の世話をしてくれる人が這いつくばってるのを毎朝見る義務があるの? いやだわ」

「でも」

「私がここの主なら、私が決めるわ。それやめて。明日からなしね」

 冥華はあくびをして、もう一度寝台に横たわった。

「朝ごはん、できたら起こしてぇ。食べたらもう一回寝るし」

「はあ……」

「薫玲も寝てていいわよ。そのへんの布団使って」

「はあ……」

「おやすみ」

 言われて薫玲は扉を閉める。

 寝台から降りた猫が足下に来て鳴いたので、薫玲は戸棚から鶏肉の干物と、水差しから水をそれぞれ猫の皿に入れた。

 猫は鶏肉の干物を食べはじめ、薫玲は、おずおずと、床に横になってみた。足先を猫がするりと身体を押しつけて通り過ぎて嬉しかった。


 温められた床が気持ちよく、疲れた身体に()みるようで、薫玲はたちまち眠ってしまった。

 朝食の膳を持ってきた女官が薫玲を見つけて、慌てて声を潜めて薫玲をたたき起こし、汚物を見るような視線を送って去っていった。


 あとでいろいろ言われるんだろうなと薫玲は思ったが、仕方ないなとも思った。

 でも私は、言われたことを守ってるだけだ。そう思うと薫玲はひどくつまらない気分になった。


 どうして主の言うことを聞いて、あんな顔をされなきゃならないんだろう。


「冥華さま。(あさ)()でございます」

 寝室に声をかけると冥華はもぞもぞと起きて来た。

「食べる」

「はい」

「お茶ちょうだい」

「はい」

 薫玲は湯を沸かし、茶を()れる。冥華は、干した貝柱と木の実の入った粥と、絞りたての油で揚げた油条、いい香りのする草と、糸のように細く切った葱、五種類のそれぞれ異なる味と香りの漬け物という食事をしながら茶を待った。

 薫玲は冥華に茶を出して言う。

「あの」

「なに」

「私、掟通りにやりたいです」

 冥華は粥を食べながら言う。

「おいしいわねこれ。薫玲も食べる?」

「とんでもない! いや、だからそういうの、やめてくださいって話です!」

「私はやめないけど、それならあなたは掟通りにしたらいいわよ、別に」

「え」

「したいようにしていいわよ。私があなたにどうしてほしいかは伝えたから、あとはあなたの問題だわ」

「……そんなふうに言った人は今までいません」

「そう。あ、これ食べたら(りー)(ふぇい)さまのとこに毒入りの服お返しにあがるから」

「えっ」



 (わん)礼貴は柳のような()(ぜい)の美しい女で、真珠を(えり)(ふち)にずらりと止めた藤色の(じゅ)に、桃色の(くん)穿()き、金色の帯を締めて赤と銀の飾り(ひも)を垂らした装いをしていた。

 (かんざし)(くし)も、玉石や金銀で彩られたもので、化粧も今流行の朝焼け風のものをしている。



 三萌宮一、流行に敏感で、だからこそ薫玲も服を借りに来たのだ。

 庵も彼女に合わせて、朱色の雲の透かしのある(こう)()細工の()()りのある(そと)(ろう)を、水の流れの上に巡らし、すっきりとした植物を配置した、(おもむき)のある庭に囲まれた仕立てにしてある。


 女官たちは礼貴の左右にふたりずつ控えて、頭を下げて目を伏せている。


 主人を引き立てる飾りの人形のようで、本来、女官とはこうあるべきよねと薫玲は思う。

 一方自分の主の冥華はといえば、相変わらず黒ずくめの衣装と、紙を顔の前に垂らしたあの姿で、見慣れないし異様だし、見慣れた今では単純にパッとしない。

 冥華は一応客人扱いされ、椅子を勧められたが、しきたりどおり椅子を断って床の上に座った。これには薫玲もほっとした。

「来てくださってうれしいわ」

「昨日は私にうつくしい着物をお下げくださいましてありがとうございました」

(ほん)(ろん)さまのお渡りがあったそうね」

「冬宮の話を聞きにいらしたのです。お茶を一杯差し上げて、お見送り致しました」

「あらそう」

 礼貴は微笑んで(うなず)いた。


「それで、あの着物は気に入っていただけたのかしら? 哄竜さま、何か言ってらした? 色がいいとか……裙の(ひだ)のぐあいが好きだとか……」


 なるほど、それが訊きたいのかと薫玲は思った。


「いえ、襦の内側に毒が塗ってありましたので着られませんでした」


 冥華が言って、礼貴が息を呑み、周りの女官たちが目をむき、薫玲はそれ言っちゃうんだと思って心臓に痛みを覚えた。


 礼貴が驚いて目を見開く。

「な、なッ、なん」

「せっかくお下されてありがたかったのですが」

「わ、私が服に毒を仕込んだというのですか!?」

「何か、私への戒めなのかと」

 冥華に言われて、礼貴の顔は真っ赤になり、指はかぎ爪のように曲がった。

「あの襦は私の大のお気に入りなのですよ!? それなのにどうして毒など仕込むと!!」


 冥華は、はっと目を見開いて大きく頷く。

「そんな、大切なお気に入りを私にお下げくださるなんて……なんと心の広い……」


 まあ白々しい、と薫玲は思う。(なん)(くせ)つけるようなこと言ってたくせに。

 礼貴は顔を真っ赤にして言った。


「無礼もほどほどになさい!! この侮辱は(かん)(がん)(とう)に申しますよ!!」

「その前に、誰が毒を襦に塗りつけたか、明らかにせずよろしいのです?」

 礼貴は両手で顔を(おお)って、全身を震わせてから、パッと顔を上げて絞り出すような声で言った。


「それは、するべきではない」

「────なぜです」

「このことは()(ぜん)(りょう)に申します」

「ほう」


 保全料というのは、萌宮、ひいては王宮における、治安のための部署である。貴人の警護をする者、不正をただす者、それを精査する者と部署が分かれている。最終的には(みかど)に報告して判断を仰ぐが、緊急性がない場合は、報告書を作って、後々に帝に了承を得る。


「私が探り、なにかわかり、私情が入ってしまえば、見誤り、罪のない者にも濡れ衣を着せることもあるでしょう。私はそれをよしとしません」


「おお、あなたには正道の心がある」

 感心したというように冥華は言う。

 礼貴はまた、まなじりを吊り上げる。


「世が世であれば斬って捨てるぞ小娘ッ!」


「姿は清流の(そば)にて涼しく輝く柳の名木、美の風を知る心と目を持つ。時代を先駆ける賢さと、(ほん)()を律する(ことわり)をその身に修める貴き礼の姫」

 冥華が即席の詩を、情感のある甘い音律で(ぎん)じた。


 つくづくと感極まると、こうやって詩を吟じて相手を(たた)えるというのは、王宮での(うたげ)の余興の一つであり、それを真似た貴族たちの間では当然のこと、()(せい)にまで広がっている。

 冥華が吟じた王礼貴への讃吟を受けて、王礼貴の顔から険しさは薄らいだ。

「なるほど、愚弄したというわけではないのね」

「もしそのような心根から出た詩であれば、礼貴さまの怒りは更に強まったことでしょう」

 礼貴は少し考え込み、それから言った。

「こちらに座って」

 礼貴は青い石を薄く切った、円い天板の卓を軽く指で叩く。

 冥華は立ちあがり、卓の向かいの椅子に座る。

「先日いただいた酒があったでしょう。あれを二つ持て」

 礼貴の言葉を受けて、女官が支度をする。そのあいだ、冥華と礼貴は何も言わず座っていた。

 薫玲は冥華の後ろに控えて見守る。

 ややあって運ばれてきたのは、二つの陶器の足つきの杯だ。透けるほど薄くなった部分があり、そこを囲むように青や緑で草の柄が描いてある。


「二人きりにして」


 言われて女官たちが下がる。

「薫玲」

 冥華に言われて薫玲も下がった。


 静かになった室内で、礼貴は冥華に言う。

「どちらかの杯に、毒を盛りました」

 冥華は首をかしげる。

「……なぜ?」

 礼貴は口元を笑みの形にした。

「毒の(らん)(よう)は、萌宮に(とど)まらず、王宮の悪習です。保全料が出来て、なおそう」

「でも、あの襦に毒を塗ったのはあなたではないのでしょう?」

「ええ」

「ならなぜ」

「犯人捜しは保全料にまかせます。でもね、あなたの考えは聞いておきたいわ。誰が私の襦に毒を塗ったのかしら。薫玲が来て、頼まれて、外に置いてあった間はあったのだけれど、そんな、わずかな時間よ? その(すき)に仕込めるようなひと」

「心当たりは同じではないですか」

 礼貴は黙り込んだ。

 窓の外を鳥が横切った。

 礼貴は言う。

「あなた、さっき私を吟じたでしょう」

「はい」

「覚悟をお見せ」

 礼貴は深く微笑んで言う。

「この杯のどちらかには、毒が仕込んである。けれどお前が吟じ、讃えた私の出す酒よ? 断るわけにはいかないわよね? どちら」


 にする? と礼貴が言う前に、冥華はなんでもないという仕草で、一方の杯に酒を注ぎ、一気に飲み干した。


 目を丸くして息を止めて見つめる礼貴の前に杯を返して、冥華は言う。

「おいしいお酒ですね」

 つぶやくと、冥華は椅子から滑り落ちるように床に倒れた。

 礼貴は立ちあがり叫ぶ。

「ちょっとやめてよ噓よ、毒なんか入れてないわ!」

 礼貴はおろおろと卓を回りこんで、冥華の横にふらっと座ると、顔にかかっている紙を(つま)んでめくって言った。

「なによ。生きてるじゃないの。起きて。起きて」

 指で冥華の頰をつつく。冥華の顔が赤い。

「ふみまふぇん……」

 吐息が酒臭(くさ)い。軽く手を振ろうとしているが、その動きがくたくたとしている。

「……まさかあなたお酒弱いの?」

「ふぁい……でもおいしい……うふ」

 冥華は嬉しそうに笑うと、その場で眠ってしまった。

 礼貴は、冥華の顔の紙をめくったまま、冥華の頰をつついた。柔らかく、若かった。


「へんな子、へんな子!」


 礼貴は女官を呼ぶ鈴を鳴らした。

 薫玲と女官たちが戻ってきた。

「今日は私のつとめはなんだったかしら」

 問うと、女官の一人がすらすらと言った。

「昨日届きました地方からの報告書の清書とまとめでございます。今日からかかりまして、五日で仕上げることとのお達しでございます」

「では、ここで出来るわね。今日一日、私はここにいるから、お前たちは休暇でいいわ。(ひる)()だけ持ってきて。あとは庵にあるもので充分」


 女官たちは驚いたが、抗せずに頭を下げ、膝をかがめた。


「あなた、薫玲だったわね」

「えっ」

 礼貴に名を覚えられていると思っていなかった薫玲は、ぎくんとして目をあけた。

「あなたも休暇になさい。冥華さまはこちらにいますから」

 礼貴はそう言って扉を閉め、女官たちは足早に外廊を歩いて庵を離れ、声が届かないであろう、桃の木と躑躅(つつじ)の植え込みを抜けた、すかし細工の(ろう)(まど)のある白い壁のところまで来ると声を潜めてはしゃいだ。

「お休みですって!」

「うれしい! どうしましょう!」

「私、街に買い物に行きたいわ」

「私も!」

「私、手持ちがないんだけれど、一緒に行ってもいいかしら?」

「よくてよ、大勢の方が楽しいわ!」

「薫玲はどうする?」


 薫玲は女官たちと庵に、交互に視線を動かしながら言った。

「あっ、私はいいや……」

「どうして?」


「あ……いや……ちょっと、疲れてるし……ありがと、ごめんね……」


「何よご主人様が心配なの?」

「どうせ私たちなんか、人事次第で右から左じゃない」

「なによ、あなたたちだって、礼貴さまのことは気になるんじゃないの?」

 薫玲に言われて女官たちはぐっと詰まる。

「……ま、まあそうだけど」

「礼貴さまはしっかりしてるもの」

「ねー」

 薫玲が言う。

「うちの冥華さまはしっかりしてないのよ。庵で掃除でもしながら待ってるわ。誘ってくれてありがとね。楽しんできて」

 薫玲はそう言って冥華の庵に向かって歩き、礼貴の女官たちは言う。


「うちの、ですって」

「薫玲、入れこんじゃってますわよね」

「ねー」

「でもうちの礼貴さまはしっかりされておられるから、私たちは遊びに行っちゃいましょう」

「ねー」

 女官たちは子雀のようにはしゃいだ。



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