第五章
もう一度訊こう。お前は冬宮から一体何をしに来たのだ」
哄竜が問う。
なるほど、さすがは次代の帝だと冥華は納得する。人を従え、意のままにするのが当然だという声である。
「まずは飛蝗の発生と対策をお伝えに」
「弟から聞いている。国のためを思ってのことか」
「そうです」
「うむ。だがそれだけではあるまい」
冥華は口を開いたが、先んじて哄竜が言う。
「私に作り話は通用しないぞ」
冥華は微笑む。
哄竜も笑う。
「人を探しに参りました」
「肉親か?」
「道士仲間でございます」
「それで街にいたというわけか」
「みなさまはなぜ街にいらしたのですか?」
「お前が飛蝗のことを言ったからだよ」
空いた茶碗を少し冥華のほうに押して、哄竜はおかわりを促す。冥華は次の茶を注いで押し戻した。
「旅人たちに話を訊きに行ったのだ。何しろ真偽を確認せねばならない。詠草国にはもう視察を向かわせたが、視察が戻るにも時間がかかる。街に行けばなにか聞けるかもしれない。勿論情報は集めているが、商人たちの話というのは常に実に興味深い。直に話を聞くのはとても大切なことだ」
「外に出るのは、御身が危のうございます」
「我らに安全なところなどない。なればどこでも変わらん」
おもしろがっているように哄竜は言う。
「それに我らが行くので、街の警備はとても厳しく治安もよいぞ。幸い父は賢帝である。鵬国は栄えている。それで?」
哄竜は冥華を見て、茶をくいと飲んで言う。
「それだけではなかろう。冬宮の娘」
言われて冥華は微笑む。
哄竜は言葉を続ける。
「冬宮は、我らが三人、湖皇后から生まれたことで怒り狂っているだろう? 腹の中の子が男子であれば殺される、女児であれば冬宮行き。そうであったというのに湖皇后だけは特例だ。湖皇后が入宮してからは、帝は他の妃に対しては、しきたりにより一度手はつけるが、たったのそれきりで、いつもさっさと冬宮送り。それでもその一度で生まれた姫は」
「六名でございます」
「皇太子は」
「おりません」
「ほんとうか」
冥華は唇を引き結び、哄竜を見つめる。
「ほんとうです」
冥華は唇が震えそうになりながら、なんとか頷いた。
哄竜は瞬きをして視線を切った。
「そうか」
一度強く目を閉じてからもう一度言った。
「そうか……」
冥華も瞬きをした。涙が零れてしまった。
哄竜は何も言わずに懐から手巾を差し出したが、冥華は軽く手を振って自分の手巾で洟と涙を拭いた。
哄竜は手巾をしまいなおして、調子をとりもどして言う。
「後宮の庵は皇后のものを残し全て閉ざされている。荒れないように手入れはしているがな」
「今上は実に慎ましうございますね」
「そうだ。愛の庵は一つあれば良いという帝と皇后だ」
「……ここは末弟、鳴鳳さまの宮」
「そうだな」
「哄竜さまは自分の宮はよろしいので?」
「好きにするさ」
「それとも私をどうにかなさいます?」
冥華は紅をひいた唇をゆるく開けて吐息を漏らす。
哄竜は噴き出した。
「似合わんよ道士小姐」
「ですよね」
冥華は片方だけ口の端を上げる。
哄竜は立ち上がると冥華の側に立ち、耳元に唇を寄せて囁いた。
「だが誤魔化されんぞ冬宮の娘。それで? 重ねて問うぞ。私たちを殺しに来たのか? 母上か? それとも父上か?」
「申し上げられません」
「ほう」
「申し上げられません」
「ここでお前を殺しても、私はなんの咎も受けぬのだよ、仙冥華」
「承知しております」
「申せ」
「申し上げられません」
「よし」
哄竜は懐から短刀を取り出し、抜いた。
「ではお前の道はここで途絶える」
「まあ、御手ずから?」
「なあにたいしたことではないのさ」
冥華は恐れなどないように微笑んだ。
「それはどうかしら」
「それはどうかな」
窓際の椅子の上で眠る猫が髭をぴくりと動かした。哄竜は短刀で冥華の首を突いた。目の前に何か黒い霧のようなものが立ち上った。
刃が肉に食い込む。
血が滴る。
哄竜は驚いて目を見開く。
「ほう。面白い」
刃が食い込んだのは冥華の首筋ではなく、少年の掌だった。
「黒潭、床に血が落ちたわ」
冥華の言葉に少年はにやりと笑った。年の頃はまだ十歳ほどだろうか。
「あとで拭くよ」
哄竜は少年の手に刺さった刃を押し込んだ。
「すまないが、挨拶をしてもらってかまわんかな?」
「おい、痛ェよ」
「そうだね、痛そうだ」
「刃を引かないからだろう? おい刺したまま刃を回すな、痛ェだろ」
「ふり払えばいい」
少年は軽く首をかしげる。黒い髪を半分だけ切り、もう半分は長く伸ばして髪留めで押さえている。着ているものは冥華同様、黒の褲と丈の短い袍と帯だ。脚絆を巻いて、刺繡のある沓を履いている。
色のあるものはただひとつ、髪留めの瑪瑙だ。
「皇太子さまの衣を、俺のようなものの血を飛ばして、汚すわけにも参りませんから?」
戯けたように黒潭は言い、冥華は懐から手巾と札を出して黒潭に渡した。
黒潭は受け取って、札と手巾で刃の刺さった場所を覆うと、ゆっくりと手を引いた。
哄竜の刃に血は残ったが、札と手巾で押さえた箇所からは血も傷も消え失せた。
「ほう。便利だなあ。これがあれば戦で大変有利だ」
哄竜が呟き、片手を黒潭に差し出した。黒潭は冥華の手巾と札を渡す。哄竜が触れると、札は灰になって崩れ、床に落ちる前に消えた。
「冥華、この札をどれほど作れる?」
哄竜は手布で刃を拭いた短刀を鞘に収め、帯の中に仕舞った。
「作れません」
「うん? 牢に入れようか?」
「ああ、ええと、返事が正確ではなかった」
冥華はいかにも面倒くさそうな顔をすると、考えながら言った。
「この札は人間には効かないので、哄竜さまが期待なさるようには作れません」
「なるほど。人間ではないこいつはなんだ」
「鬼の一種です」
「鬼? 死人か?」
「まあそんなようなものです。黒潭、ややこしいから猫になっていて」
「あ、待て」
哄竜が言って黒潭の手を取る。
黒潭も冥華も驚いて、哄竜の顔と握られた手を交互に何度か見た。哄竜は少し高揚しているようだった。
「なあ、弟たちに見せたい」
黒潭が顔をしかめる。
「会わせる、でしょ。ものじゃないよ俺は」
「そうかそうか、済まんな」
「あの、哄竜さま」
冥華は眉根を寄せて言う。
「なんだ冥華」
「王宮におかれましては道士、道術は珍しいものですか? そんなに興味をお示しあそばして」
哄竜は得たりとばかり微笑んだ。
「さよう。父が、道術ぎらいでなあ。宮廷に道士はおらぬのだ」
「それでまあよく今までご無事で!」
嘘だ。
冥華はそれを知っている。
哄竜は声を上げて笑った。
「全く、さよう、さよう。はははは、そんなわけで、弟たちに君を会わせたいんだ。ふしぎな猫、いや、少年よ」
黒潭は不審そうに哄竜を見て言う。
「従ったら、冥華を傷つけないと誓うか」
「さて」
「誓え。話はそれからだ」
哄竜は、ふふ、と笑って掌を黒潭に向けて立てた。
「泰一公主現前聴力」
黒潭は全くあてにならないなという顔で誓言を唱える。
「泰一公主現前聴力」
ぱちんと気の入らない音を立てて掌は打ち合わされる。
「じゃあ一応考えとく」
「なんだと」
驚く哄竜の前で、黒潭は黒猫になった。
「ああおい、それはないんじゃないか……」
哄竜は肩を落とし、猫を摑もうとしたが、猫は窓から出ていってしまった。
どうしたらいい、と、自分を見てくる哄竜に、冥華は言う。
「今夜はもうおやすみになってもよろしいんじゃありませんか」
哄竜は息を吐いた。
「そうだな」
そしてぱっと前髪を払って言った。
「明日は?」
「はい?」
「明日は街に行くのか」
「はい」
「わかった。では街で会おう。蛾楼門に部屋を借りたと聞いたぞ、そこに招待しろ。さて、明日も朝から激務だ。お前にも何か役職を振るからな」
「めんどくさいな」
「んん?」
「なんでもないです」
「まあ、顔の前の紙は外せよ」
「あれは、私は嬪準として来たのではないので、皆さんの敵ではありませんという印なんですよ。通じてないようですけど」
「ほう」
「いちいち目玉の色のこと言われるのもいやだし」
「わかった、あったほうが都合がいいならそれでいいさ。では、おやすみ!」
出ていく哄竜を視線で追い、扉が閉まると冥華は呟く。
「来るときは大仰なのに帰る時はあっさりしてるのね」
静かになった部屋で、冥華は自分でばさばさと着物を脱ぐ。装身具を取って髪を櫛で梳き、濡らした布で軽く顔と身体を洗う。歯を磨いて、薄荷の葉を嚙んでうがいをすると薄桃色の寝間着を着て帯を締めた。
寝床に入って布団を被ると、布団の上に何かが乗った。
「黒潭」
冥華が呟くと猫の姿の黒潭だった。
黒潭は猫の姿のままするりと冥華の寝床に潜り、小さな地響きのような音を喉で鳴らしたまま目を閉じた。
冥華は黒潭を数回撫でると、眠りに落ちた。
長い一日だったのだ。




