第四章
風が冷たい。外は提灯が明るく照らし、笑い声や喧嘩の声が響くが、やはり往来であるので空に散る。各店の窓が開いていて、音楽や歌声が漏れ聞こえる。
昼のせわしなさとは違う、不規則な人々の足取りを読みながら、冥華と明導は走る。
「こっち」
路地に入って少し行くと、水飲み場と飼い葉桶、柱の並んだ広場があった。ロバや馬がつながれている。
薫鈴が、遊牧民の袍を着て、馬に乗って待っていた。
「乗れますね?」
薫玲に言われ、冥華は鞍を摑んで薫玲の後ろに乗った。
「明導、明日の昼にまた饅頭食べよう」
「ありがと、待ってる!」
明導は言い、冥華は軽く手を振り、薫玲は馬をだく足で走らせる。
市街を抜けると更に早く走らせた。
「見事な手綱捌きね、薫玲」
「あなたもこれくらいできますでしょう」
「私はできるけど女官にしては珍しいでしょう」
「私は深潭の出ですから。あそこではみんな馬に乗ります」
薫玲は北門の、人家の少ない上り坂に向かう。月明かりの道を馬を走らせる。北門に着き、番人に名を告げて中に入る。
馬丁に馬を渡すと二人は早足で歩く。
「着物は」
「そろえてあります」
「ありがとう」
薫玲と冥華は自分たちの庵に入ると急いで鍵をかける。
部屋には、別の冥華がいて床で眠っていた。冥華が、眠っている冥華の顔の紙をとると、床の冥華は黒猫の姿になった。
薫玲は、足を入れればいいだけに用意してあった裙の円形の中に冥華を立たせ、するすると着付けをする。冥華もそれにあわせて動く、裙は緋色でたっぷりの襞が取ってあり、襦は刺繡の入った朱と牡丹色のものだ。
「すごく派手ね」
「文句言わないでください。あなたの行李にはろくな色の着物が一枚もなかったので、礼貴さまのをいただいてきたんです。もう着ないからと、お下げくださいました」
「礼貴さま?」
「江礼貴さまです。ここで一番長くおられる方です。大変に穏やかな気性の方で」
「これ、毒の匂いがするわよ。薫玲、具合悪くない?」
薫玲はみるみる青ざめ、大急ぎで今着せた服を脱がせた。
「申しわけございません! まさか、そんな、ああ!」
「よくあることよ、気にしないで。これ、そしたら外に置いてもイチャモンつけられるに決まってるからどうしようかな」
「イ、イチャモン?」
「せっかく下げ渡したのにどうのこうの言われて殺されかねないから、……行李の中に入れておきましょう、とりあえず。皮膚に触れなければ問題ない程度の毒なはずだから」
「どうしてそんなことがわかるんです?」
「それくらいじゃなきゃ仕込んだほうも死ぬでしょ」
冥華は言いながら行儀悪く足の爪先で裙と襦を丸め、空の行李に両手で持ち上げて突っ込んだ。
二人で念入りに手を洗ってから、冥華は運び込んだ行李から、墨色の裙と墨色の襦と帯を取り出す。
「これ着せて」
「行李の中全部この色でしたから、わざわざ礼貴さまのところに参ったのですよ!」
「問題ないわ」
「ありますよ!」
「時間ないから、ほら」
薫玲は言いたいことを飲み込んで冥華に服を着せていく。
「飾りも黒いのばっかり」
「でも綺麗でしょ」
薫玲は帯を結び、飾りの玉をつけて頷く。見事な黒玉だ。その先に黒真珠がついている。
「まあそうですけど」
「冬宮のみなさまがくださったの。お手持ちの中から、探してくださって」
そう言われては薫玲は言葉がなかった。
黒の透ける布に、銀糸と金糸で星が刺繡してある被帛を纏おうとして冥華は薫玲に言われる。
「お待ちください、髪を結いますから」
「あ、そうか」
髪結い台の前に冥華は座り、薫玲は膏と櫛と簪を並べる、冥華の髪を指ですくい上げて捻じり、膏を塗り、留め具で留めて美しい形を作る。それから簪と飾り櫛を挿す。
宦官の鳴らす鈴の音が近づいてくる。
「もういいわ薫玲」
「お待ちくださいあと櫛を三つ……はい、できました」
冥華は髪結い台の前から立ちあがると、文机の上に置いた紙箱を開け、
『冥』
と一文字書かれた紙を取り出し顔にかける。
留め具でこめかみに固定する。
「それよく前が見えますね」
「道術をかけてあるからね」
「あっ、声も違う」
「あら、よく気がついたわね」
「なんでそんな物つけてるんです」
「萌宮の中で嫉妬問題でごたつきたくないのよ。こうしていれば、敵じゃないことがきっとわかってもらえると」
「ムリですよ。もうごたついたじゃないですか。毒入りの服で」
「ねえ、どうしようこれ」
「処分用の行李をお持ちしますから、後ほどそれに入れてください」
鈴の音が近づく。
皇太子の登宮を知らせる鈴だ。
その鈴がどこで止まるにしろ、全ての萌宮のものは、この時間には美しく装って、扉の内側で頭を下げて待つのが慣例だ。
冥華は花氈に座って頭を下げる。薫玲は冥華の後ろで同様にしている。黒猫はいつの間にか起きていて、椅子に飛び乗り、のびをして、にゃあと啼いた。
鈴の音が止まり、扉が開かれた。
夜の風が入ってくる。
薫玲は相手を見ずに、身をかがめたまま外に出て扉を閉める。
外にいた宦官は、真綿の入った布で鈴をくるんで帯に挟むと、足早に立ち去る。
薫玲は庵の、呼び出しの鈴が鳴らされれば聞こえる距離にある小部屋に控えた。
庵には、萌宮の主人と、冥華の二人だけになる。
「よい夜だな」
冥華は声をかけられた。
「然り」
と、返答する。
ここまでがしきたりで、あとのきまりはない。
冥華は身を起こし、目の前の相手を見て驚く。
「あれっ?」
昼に会った皇太子鳴鳳ではなかった。
鳴鳳より年上の男性で、穏やかな笑みを浮かべている。
白の袍に銀鼠色の帯を締め、真珠の連なった佩玉をその上からつけていた。
街で会った伯久だ。
街で会った時とは全く雰囲気が違う。街で感じなかった威厳のようなものが滲み出ている。
あの叔翊は鳴鳳だ。化粧をしてなかったから人相が違った。
「鳴鳳が、面白い娘が入ったと言うのでな。代わってもらったのだ。我が名は哄竜。帝が第一子である」
するとあの仲玄は第二皇太子唱亀だ。
「仙冥華と申します」
「よい、楽にしろ」
哄竜は言って、椅子に座る。黒猫が窓際の椅子から降りた。
「おや、猫だ。抱いていいか」
「猫がよければ」
冥華は卓上の湯沸かしに、火打ち石で火種を落とし、中の藁に火が移るのを見て、細かく砕いた炭を入れる。小さな風口の窓を開け、風を入れる。
「湯が沸くまでお座り」
哄竜に言われ、冥華はそうする。
「それで、あなたは冬宮の使いか。我ら三兄弟を殺しに来たか。それとも目当ては帝か皇后か」
強くはないが、有無を言わせぬ口調だった。
冥華はどう答えたものか躊躇する。
哄竜が言う。笑みのない声だった。濡れた宝玉を想起させる声だった。
「面を見せよ。冥華」
冥華は、ここで抗う選択肢はないと判断して、紙を取った。
「ほ」
哄竜は笑う。
「やはりな」
冥華は卓の上に紙を置いて、ふてくされ、椅子の背もたれに体をよりかからせて、言った。
「どうも先ほどは」
「お互い時間に遅れそうで汗をかいたな、ははは」
「そうですね、――哄竜さま? 伯久さま?」
「冥? 冥華? 道士どの? 目玉の色の違う娘よ」
冥華は唇に指を当てて哄竜を見る。
「どれでも結構です」
「ふふん。帝の第一子に向かってその態度」
「不遜であるとして処刑しますか?」
「それをするのは帝になって、権力と引き替えに安眠と安心を失ってからだ」
「弟ぎみたちにとってはどうかしら。私の、この振る舞いは」
「弟たちの安心と安全は私が守るのだよ、道士どの。なぜ蛾楼門にいた」
「あなた方が、よくあそこに行くと聞いていたので。街に住処も欲しゅうございました」
湯が沸いて鉄瓶の蓋がチリチリと鳴る。冥華は立ちあがって茶を淹れる。熾に灰をかぶせて、火を半分にする。
漆と螺鈿の盆に載せられた、掌におさまるよりも小さな茶碗を哄竜は取って、茶を一口含む。
「うん」
微笑む。
「素晴らしい」
扉の外で鈴の音が一度した。
冥華が出ると、扉の外に行李が置いてあった。冥華は行李を中に入れて扉を閉める。
「なんだ」
「鉛張りの行李です。気になさらないで。ちょっとお待ちくださいね」
「重そうだな」
「鉛張りですから」
奥の間に行李を運び込んで、冥華はその中に毒入りの衣が入った行李を入れる。
「手伝おうか?」
座ったまま哄竜が言い、冥華は答える。
「お気遣いなく」
鉛の行李に蓋をすると外に出し、冥華は、壺から薬草を出して、何度か握って手洗い鉢で洗い流す。
「なんだ毒かい」
「お詳しいですね」
「ははは、そりゃね。生まれたときから毒殺対象さ。おかげで少々の毒にはやられない」
「ご苦労がおありですね」
「それで? 冬宮から何をしに来た? 蛾楼門で待ち構えて何をする気だった?」
「蛾楼門で待ち構えたのは、お話をしたかったから。このように、そちらから来てくださるとは思いもしませんでしたので、街でのほうが機会があるかと。──そして私が何をしに来たのかは、皇太子お三人がたは、お訊きにならないほうがようございます」
沈黙が落ちる。
哄竜は横目で冥華を見つめ、冥華はその視線を受け流す。




