44 心の形
「いらっしゃい。待ってたわ」
どこまでも広がる巨大な書庫――の中空に、天球儀のような構造体が浮んでいた。その中心にベルナデッタはいた。
前に分離作業をした担い手用のスペースとは明らかに違うな。イメージ的にはグリモワールに蓄えられた知識を集めたような場所、という感じか。
いつの間にか小さな円卓に着かされていて、隣の席にはコーデリアが静かに座っていた。
「お茶とお菓子でもいかが? 感覚だけだからお腹が膨れるわけじゃないけれどね」
向かいの席に座ったベルナデッタが手を一つ叩くとティーセットと砂糖菓子がテーブルの上に現れる。便利なものだ。ノンカロリー且つノンカフェイン。健康志向だな。
「いや、あんまり長居するつもりは……前みたいに三日も寝たら困るし」
「あの時は枯渇の反動があったし、作業もしていたからでしょう。お話をするだけなら一晩あれば十分過ぎるわ。焦っても仕方がないのだから、ゆっくりお話ししましょう」
まあ、そういう事なら。
ベルナデッタ手ずからお茶を淹れてくれた。何茶か知らないけれど良い風味だ。
砂糖菓子を口に運ぶ。こっちも上品な甘さで、美味いな。
「コーデリアとはいつもこんな感じ?」
「ええそうね。後は庭園の散歩をしたりとか。モンスター達には会いにいかないけれどね」
「どうして?」
「混乱させてしまうもの。あの子達には自分の意志で、あなたと契約を続けるかどうか選んで欲しいと思っているのよ。コーデリアは契約を続けて欲しいと思っているけれど、それが伝わってしまったら結局コーデリアとの契約じゃない?」
「成程ね……」
じゃあその内「平坂黒衛は認めない」なんてモンスターも出てくるかもしれないな。
「……さて。あなたが聞きたい事は大きく分けて二つだと思うのだけれど。どちらから行きましょうか?」
「じゃあ……まずは今日覚えた違和感からかな? レリオスの話を先に聞いたりすると、その後からの話がちゃんと頭に入ってきそうにない」
「なら、そっちの話からしましょうか」
そう言って、ティーカップの取っ手を摘まんで口に運び、傾ける。
「存在規模絡みで境界が曖昧になっているとかじゃないのか? 今こうして、男言葉を話している事でさえ、違和感を覚えるんだよ。これは何かが違うって思うんだ」
「……そうだとしたらそもそも疑問さえ感じないわ。あなたは誰? どこで何をしているの?」
「……俺は、平坂黒衛だ。コーデリアを演じている。そして庭園でベルナデッタと話をしている」
「そう言える内は大丈夫よ。第一、存在規模であなたとコーデリアの間に問題が出ているなら、私かコーデリアが気付く。そこは安心しなさい」
ベルナデッタからはっきりとそう言い切られて、多少気が抜けた。
だからって疑問が氷解したわけでも、違和感が消えたわけでもない。
「じゃあ、この違和感はなんなんだ?」
「カモフラージュが影響を与えた、というのは大いに考えられるわね。けれど……それだけかしら」
ベルナデッタは口元に手を当てて暫く考えた後、こんな事を言ってきた。
「ね。あなた今、何で考えてる?」
「何……で?」
何「で」って何だ? 何「を」考えているが正しいんじゃないのか?
「ええと……何語で思考をしているか、という事ね」
「何語って、共通言語だけど。それが何なんだ?」
今の俺は、思考形態も共通言語を使っている。コーデリアを演じると決めたあの朝から、ずっとだ。
日本語で思考すると、耳から入ってきた言葉を一度脳内で翻訳し直すような感覚になる為、話す言葉も思考も共通言語で統一しないと非効率的である。外国語の会話に慣れて来た時と同じであろう。
「じゃあ、今から日本語で考えて、日本語でお話しましょうか? 『いいわね?』」
ベルナデッタの用いる言語が、日本語に切り替わった。
「そんな事に何の意味があるってんだ?」
「試してみれば解るわ。ほら?」
「別に……『日本語に切り替えたからって変わるわけがないだろ?』」
意図する所が解らずに、そう答える。試してみれば解ると言うのなら付き合うけれど。
「なら、根拠と言うか……私の考えを言っても?」
「……ああ」
「こちらの世界の言語での女性詞の多用。つまり……女言葉による思考形態って、つまりあなたにとってはコーデリアの心の動きのトレースでしょう? 反対に日本語は、あなたが一七年慣れ親しんだものだわ。そのどちらにも共通言語で男言葉を多用するというフォーマットは存在していないわ」
――は? そんな、単純な事で?
「あなたの場合に限った話よね。こちらの世界の「女言葉」は、コーデリアの心の因子を揺り動かす物。あなたがグリモワールの紋章を見て心を動かされたのだって、そういう事じゃない。他ならないあなたが、こちらの世界の言語、しかも女言葉を話し、思考する事って、つまりコーデリアの心に寄り添う事よ? まだ、違和感はある?」
「……解らない。庭園だと自分の正しい形がよく解らないから」
「そうね。でも男性の使うような言葉が、とても板についてるわ」
「当たり前だ。一七年使ったんだから」
だって一七年。そうやって育ってきたんだから。
……。
だから、こっちの世界で馴染みのない共通言語での男言葉を使うと、違和感が出るって?
今は……確かに落ち着いていた。
この庭園では黒衛かコーデリアか曖昧な感じなのだけれど、ビジュアル的なイメージは黒衛に近付いた気がする。
「まあ、確かに……こちらの世界で距離が近くなった分、相互に影響を与えている部分も大きくなってはいるわね。コーデリアは、シルターの花の……あなたの買った香油の香りが大好きなのよ」
あの匂いが決定的な違和感のトリガー、か。
その時、丁度カモフラージュが掛かっていたのだ。身体は少年のそれと「認識の誤魔化し」を受け入れていて……呼び覚まされたのが無意識的な情動だったのなら、理性で受け入れるも何もない。全力で反発するだけだ。だからカモフラージュを拒絶して魔法が解けてしまった、と。
「香りは脳に直接届いて刺激するとか、そっちの世界の情報じゃなかったかしら? 普段は無意識で引っ張られているけれど、カモフラージュを使っていたばかりに、自分との乖離が激しく感じられて一気に違和感が出てしまったんでしょう」
「俺に限ってはカモフラージュで男になるのは、鬼門、か。いや、日本語で黒衛としての思考をしていれば大丈夫なのか?」
「まあ、そうかも、ね。でもそれだけじゃないわね。あなたのどこがコーデリアに似ているかって言うなら、表情の作り方とかちょっとした仕草とか、そういう部分なのよ? それって演技でやっているわけ?」
「……いや」
そんな無意識的な部分が似てるのか?
一方でそれもそうなのかと納得する所もあった。
例えば……生まれて大きくなる過程で親と過ごした記憶と、大きくなってから恋人と過ごした記憶があるとする。
どちらの方が重要とは言えないだろうけれど、前者が失われるのと後者が失われるのでは、やはり人格に大きな影響が出るのは前者なのではないだろうか? それはつまり、人格という建物の土台の部分を崩されるに等しい。
一方で新しい記憶が失われるというのは……建物の屋上が崩されてもまだ全体の形を残しているというようなものだ。
だからどこからどこまでが切られたのかは解らないが、より本人の本質に近いベーシックな部分までも切り離されたからこそ、コーデリアの人格が崩壊するのしないのって言う話になった。
つまりそれを引き継いだ俺がコーデリアとして振る舞ったら、無意識的な部分が似通ってくるというのは……考えてみれば当然の話で。
こちらの世界の言葉で思考する事。それは俺に限ってはただそれだけでコーデリアの思考をなぞり、心の形を模倣する事に他ならない。
だから意識して演技をしているしていないに関わりなく、ディアスでさえ見抜く事が出来ない。レリオスなんて言わずもがなだろう。
あの店で覚えた感情は何だったか。……そう。郷愁だ。
懐かしい。じゃあ、黒衛にとってこちらの世界にある物の、一体何が懐かしいのか?
そんなもの、普通に考えればあるはずがない。
でも、それはそうだろう。俺の知らない懐かしい匂いがあるとするなら、それは俺が覚えている物じゃないのだから。
俺にはそれと知覚出来なくても、コーデリアの心にとっては違うんだ。これ以上ないぐらい揺り動かされるはずだ。だけど俺には別の土台がある。現代日本で一七年生きた土台。だからそこで齟齬が生じて違和感を自覚してしまった。今回は、カモフラージュのせいでそれがより顕著になったのだろうけれど。
「あなたがコーデリアに寄り添う事で、コーデリアに近付いているのも事実よね。時々……見てて危ういぐらいダブって見える時があるわ。あなたは特異な立ち位置なんだから、私だって予想し切れない部分がある。時々日本語を使ったりして、自分という物の在処を確認ぐらいはした方がいいと思うの。無意識に引き摺られているばかりでは、ダメよ。存在規模とは関係のない話だから、あなたが飲み込まれると言う事はないけれど、あなた達は音叉みたいに共鳴するから」
……そう、だな。今後もコーデリアとして過ごさなければならないんだし、結局こっちの言語は使わなきゃならないんだから。
けど、あの風景だって……とても綺麗だと思ったのは事実だ。
あの時は確かに驚いてしまったけれど、怖がる必要なんかどこにもないんだ。
生まれた時からコーデリアの因子も含んで育ったのが、自分であるというのなら、コーデリアの因子が欠けたら、それはもう『平坂黒衛』でさえないのだし。
自分の心なのかコーデリアの心なのか。
区別することに、もうあまり意味は無いのかも知れない。ただコーデリアから預かっている物が……彼女にとって、とても大切なものであるというのは重々心に刻んでおこう。




