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「ようやく君の大切さに気付いたんだ」と言われましても、もうあなたと私は他人なのですが  作者: 水嶋陸


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蜜月(最終話)


 後日――――


 怜司と入籍した椿は、一条家の屋敷からそう遠くない新居に住まいを移した。父から結婚祝いで譲り受けた物件は落ち着きのある心地よい洋館で、二人で生活するには十分な広さがある。


 怜司との結婚生活を待ち焦がれてた椿は、幸せでいっぱいだった。屋敷から派遣された使用人たちの手伝いにより住まいは快適に整えられ、荷解きも順調に終わった。


 そしてあっという間に夜になり、怜司と夕食を共にした椿は先に入浴を済ませ、寝室でそわそわしていた。


 (今日はついに結婚初夜……。体は清めたけれど、どこかおかしいところはないかしら?)


 鏡台の前に立ってくるりとひと回りし、自分の姿を確認する。


 この日のために用意した純白のネグリジェは手触りの良いシルク地で、Vラインの胸元がリボンで結ばれている。襟と袖口には繊細なレースが施されていて可愛らしく、一目で気に入った。けれど、


 (せっかく素敵なネグリジェなのに、私が着ると見栄えがいまいちね……)


 自分の色気のなさに落ち込んでため息を零すと、寝室の扉がノックされ、ドキッとした。


 「お待たせして申し訳ございません。お身体が冷えていませんか?」


 黒の着丈の長いナイトローブを纏った怜司が現れた瞬間、呼吸を忘れた。スーツじゃないこと自体が新鮮だが、普段は隙のない彼が寛いだ表情で醸し出す色気は破壊力が甚大で、直視が憚られるほどだった。


 「――椿様?」


 無意識に心を奪われていた椿は、心配そうに呼び掛けられてハッと我に返った。


 「だ、大丈夫よ。全く問題ないわ」


 「そうですか。それを聞いて安心いたしました」


 優しく微笑む彼に胸が温かくなる。しかし、ひとつだけ大きな不満があった。


 「怜司。いつまで敬語を続けるつもり? せめて二人きりの時くらい、砕けた話し方をしてほしいわ」


 「申し訳ございません。ボディーガード時代の癖が抜けず、つい」


 「もう。あなたは私の夫なのよ? そんな風に畏まられると寂しいわ。すぐには難しくても、近いうちに改めてね?」


 「善処いたします」


 少し困ったように笑う怜司が、側に歩み寄ってきた。無意識に拳を握り締めると、椿の前に立った怜司が掌でそっと拳を包み込み、労わるように開いた。


 「もしや緊張されていらっしゃいますか?」


 「!!」


 椿は頬に熱が集まるのを止められず、さっと俯いた。すると、頭上からふっと笑みが降ってくる。


 「少し座って話しましょうか」


 「え、ええ」


 背中に手を回され、ベッドに腰掛けるよう促される。素直に従って腰を下ろすと、隣に座った彼に手を握られた。


 「ずいぶん前の話になりますが、私が椿様に『何にも代えがたい宝物』を贈っていただいたとお話したことを、覚えておいでですか?」


 「! もちろん覚えているわ。今、教えてくれるの?」


 縁談が決まった日に怜司と交わした、大切な会話。紅葉鑑賞に連れて行ってくれた日にそれが何か尋ねたけれど、その時はまたはぐらかされてしまった。


 期待を込めて彼を見つめると、怜司は椿に愛おしげな眼差しを注いだ。


 「はい。何にも代えがたい宝物とは――椿様。貴女が与えてくださった愛情のことですよ。以前私の生い立ちをお話した通り、私は鷹野家で冷遇されて育ちました。温かい家庭とは無縁で、今後もずっとひとりで生きていくものだと割り切っていました。ですが、貴女に出会い愛を知り、変わることができたのです」


 誠実な声色で紡がれた言葉が、じんと胸に沁み入る。怜司は椿の頬に掌を添え、額に優しいキスを贈った。そして穏やかに言う。


 「今夜は結婚初夜ですが、椿様のお心に不安があるのであれば、無理をなさる必要はございませんよ。貴女の心の準備ができるまで待ちます。ご安心ください」


 空いた手で横髪を丁寧に梳かれ、椿は胸がぎゅっと締め付けられた。


 (怜司はいつも私の意思を尊重してくれる。今夜も、まだ怖いといえば先延ばしにできる。でも……)


 椿は頬に添えられた大きな手に掌を重ねた。


 「気遣ってくれてありがとう。嬉しいわ。でも、私は今夜、名実共にあなたの妻になりたい」


 「っ!」


 大胆な発言に驚いたのか、怜司が息を呑む。椿が無理をしていないかつぶさに顔色を窺い、忠告するように、熱を帯びたやや低い声で囁く。


 「よろしいのですか? 先日のように途中で止めて差し上げられませんよ」


 漆黒の双眸に獰猛な光が宿り、椿は一瞬たじろいだ。けれど、勇気を集めて怜司に応える。


 「大丈夫。私もあの日の続きを心待ちにしていたのよ。ただ、ひとつだけ伝えておきたいことがあるの」


 「何でしょう」


 「元夫のことなのだけど……」


 怜司はピクッとして、明らかに纏う空気が険しくなった。すぅっと目を眇め、口角を上げる。


 「あの男が何か?」


 (笑顔が怖い……!)


 怜司の胸にわだかまるどす黒い感情を垣間見て、挫けそうになる。それでもどうしても伝えておきたい事情があり、勢いで打ち明けた。


 「その、元夫とは白い結婚だったの! だから夫婦生活は一度もなくて……。恥ずかしいけど、こういうことは初めてだから、できればお手柔らかにお願いしたいわ」


 もじもじして視線を逸らすと怜司は瞠目し、椿をぎゅっと胸に抱き寄せた。 


 「――正直に言います。あの男が貴女の肌に触れていたかと思うと、頭がおかしくなりそうなくらい嫉妬しました。あの男がしたことは一生許しませんが、貴女の尊厳が守られていたと知って安心しました」


 背中に回された腕に守るように力が込められ、胸が震える。椿は自分からも怜司の広い背中に腕を回し、溢れる愛おしさをのせて抱き締め返した。


 しばらく抱き合った後、怜司がそっと体を離す。椿の瞳をひたむきに見つめ、互いの額を合わせた。


 「……今夜の貴女は格別に綺麗です。女神のような貴女をこの腕に抱ける日が来ようとは、まだ夢を見ている心地になります。夜が明けても、どうか消えないでください」


 希う切ない声に胸がときめく。椿は怜司の首の後ろに両腕を回した。


 「夢を見ているようなのは私も同じよ。はじめは上手く応えられないかもしれないけど、愛想を尽かさないでね……?」


 「それこそ的外れな心配ですよ。私がどれだけ貴女に夢中か、これから気が遠くなるほどの時間をかけてお教えしましょう」


 怜司に唇を重ねられ、深い喜びが湧き上がる。優しいキスが次第に情熱的なキスに変わって体が熱を帯びていく。その夜、蕩けるほど甘く、泣きたいほど幸福に満たされるひとときを過ごした。







 時は流れ、数年後の春――――


 一条家の屋敷の庭で花見を楽しんでいた椿は、怜司との間に生まれた長男に優しい眼差しを送っていた。孫を溺愛する父が眦を下げ、手を繋いで池の周りを散歩している。こちらに視線を向けた長男が明るい笑顔を浮かべ、大きく手を振った。 


 「お父さま! お母さま! 二人ともこっちに来て~!」


 「ふふっ。ええ、今行くわ」


 身重の椿は、少し離れた場所に設えられた長椅子に腰掛けていた。安定期に入り数カ月、臨月に近付いてきた腹は膨らみ、最近は仰向けで眠るのが寝苦しくなってきた。


 (でも、怜司と再婚してから怖い夢を見なくなった)


 常に纏わりついていた不安から解放され、溺れるような息苦しさにうなされることもなくなった。その理由は明白だ。


 「椿。体調は大丈夫? 無理はいけないよ」


 「このくらい平気よ。相変わらず過保護ね」


 傍らで心配そうにこちらの顔色を窺う怜司に、くすっと笑みが零れた。夫になってからというもの、怜司はさらなる過保護ぶりを発揮し、椿を溺愛している。そのため、父をはじめ使用人たちから生温かい目で見守られるのが日常になっていた。


 「呼ばれているから行きましょう。怜司、手を貸してくれる?」


 「もちろん。いつでも喜んで」


 穏やかに微笑む怜司に手を取られ、ゆっくり立ち上がる。怜司を見上げると、とても愛おしげな眼差しが返ってきた。かつて瞳の奥に潜んでいた怯えは消えている。そのことに安堵を覚えながら、心の中で決意を固める。


 (これからも、かけがえのない毎日を愛する家族と共に過ごしたい。怜司の心に灯りをともし続けて、曇りのない笑顔を守っていきたい)


 「ねえ怜司」


 「何?」


 「あなたのことが大好きよ。これからもずっと愛しているわ」


 幸せの魔法をかけるように、愛の言葉を紡ぐ。彼は眩しそうに瞳を細めて、「俺も椿を一生愛し、守り続けるよ」と、握る手に優しく力を込めてくれた。


 満開の桜が一陣の風に揺れ、無数の花びらが舞い上がる。澄んだ青空を背景に、家族で笑い合った。


 椿はこれから迎える新しい命に心弾ませながら、怜司と共にまた一歩、しっかりとした足取りで前に踏み出した。


 FIN

 完結までお読みいただきありがとうございました!


 椿と怜司の恋物語はいかがでしたでしょうか? もし作品をご覧になって「楽しかった」「面白かった」と思っていただけたら……


 下の評価欄【☆☆☆☆☆】から、星をポチっ★としていただけると評価につながり、執筆の励みになります。ブックマーク、ご感想も本当に嬉しいです!


 また、連載中から応援してくださった読者様、ありがとうございました。リアクション、誤字報告など反応がある度に、読んでくださる方がいるんだと更新の励みになりました。


 今後も新作をお届けできればと思いますので、またご縁がありましたらよろしくお願いいたします。

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