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「ようやく君の大切さに気付いたんだ」と言われましても、もうあなたと私は他人なのですが  作者: 水嶋陸


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結実2


 「行かないでください」


 希う声が耳に吹き込まれ、ドッと心臓が跳ね上がる。


 「っ鷹野?」


 動揺しつつ尋ねると、怜司は椿を抱く腕に力を込めた。


 「私は肝心な時に貴女を守れなかった。ボディーガード失格です。警護対象に私情を抱いた挙句、自分の都合で突き放し、ひどく悲しませている。男としてもどうしようもない」


 神に懺悔する罪人のような声色で怜司が言う。抱き締めた理由を、言葉の意味を確かめたかったが、それが彼を追い詰めてしまうような気がして口を噤んだ。


 黙って身を委ねていると、逃れようとしないことに安心したのか、怜司は腕の拘束を緩めた。


 「お嬢様の縁談が決まった日、桜を見に庭へご一緒したことを覚えておいでですか」


 「ええ、大切な思い出だもの。覚えているわ」


 「では、私が最後に言いかけてやめた言葉を、まだお知りになりたいと思いますか」


 「! もちろん知りたいわ。教えてくれるの?」


 「はい。()()()が訪れたなら包み隠さず秘密を明かすとお約束しましたね。今がその時です」


 期待と不安で痛いほど胸が高鳴る。椿を腕に抱き込んだまま、怜司が熱っぽく言う。


 「――椿様。貴女をお慕いしています」


 「!!」


 切実な声に胸が震える。彼の表情を確かめたくて上体を捩ったが、止められた。


 「どうか振り向かず、このまま話を聞いてください」


 「……っ、分かったわ」


 逸る鼓動を鎮めるため、手で胸を押さえ深呼吸した。怜司は静かに口を開く。



 「あの時、叶わぬ恋に涙を流す貴女に心揺さぶられ、貴女の想いが一方通行ではなかったと伝えたかった。ですが、私は一介のボディーガード。貴女と添い遂げられる立場ではない。想いを告げたところで余計に別れが辛くなると思い、はぐらかしました。ただ、それだけが理由ではありません」



 怜司の纏う空気が張り詰める。彼は躊躇いを振り切るように、胸の内を吐露した。


 「たとえ想いを通じ合わせたとしても、貴女が私を選んだことを後悔して去って行くのが怖かった。今もこうして未練がましく貴女を引き留めておきながら、顔を見て手を取る自信がないのです。臆病な男で申し訳ございません」


 いつも余裕があって優しい微笑みを絶やさなかった彼の、胸の奥に隠されていた想いを知り、心が震えた。


 長年の片思いが一方通行ではなかったことに、泣きたいほどの喜びが湧き上がる。それ以上に、他人に隙を見せない彼が繊細な一面を曝け出してくれたことに、言葉にならない感動を覚えた。


 (踏み込んでいいと、許されたみたい)


 椿は怜司の腕にそっと掌をのせた。


 「……秘密を打ち明けてくれてありがとう。あなたの気持ちを知ることができて嬉しいわ。でも、あの時聞かなくてよかった。もし聞いてしまったら、今すぐ私を連れ去ってほしいと泣いて、あなたを困らせてしまったから」


 怜司が息を呑む気配がする。内気で控えめな椿が大胆な発想をしたことに驚いたのだろうか。椿はふっと笑みを零した。


 「だけど、実際に行動に移したら確実にあなたの立場が悪くなるでしょう? 私以外、誰も幸せにならない。だから片思いでよかったのよ。つらい気持ちを飲み込んで、お互いの大切なものを守ってくれてありがとう」


 怜司の腕を労わるように撫でると、彼が身じろぐ。耳に焦れた声が降ってきた。


 「どうしてあなたはいつも、ご自分のことばかり後回しにされるのですか……」


 「あら。あなたにだけは言われたくないわ。自分が傷付くことを少しも顧みないくせに。私がこれまでどれほど肝を冷やしてきたか、分からないでしょう?」


 怜司へのとめどない愛おしさを感じながら、どうしても聞き捨てならない発言に抗議することにした。


 「さっきの話だけど、ひとつだけ間違いがあるわ。どうして私が後悔すると決めつけるの? 鷹野。ちゃんと私の顔を見て。()()()よ」


 我ながらずるい戦法だと思ったが、形振り構っていられなかった。怜司は観念し、腕を下ろして椿を解放する。すぐに振り向いて彼を見上げると、彼はひどい顔をしていた。

 

 (道に迷った子どもが途方に暮れて、今にも泣き出しそうなのを堪えているみたい……)


 想いを通じ合わせた恋人が、いつか自分に愛想を尽かして去って行くかもしれない。それを不安に思う気持ちは理解できるし、何も不思議じゃなかった。けれど、怜司の怯えた瞳から、一般的な恋の悩みの範疇を超えた根深い傷を感じた。


 (鷹野の過去を詮索するつもりはないし、言いたくないことを無理に暴こうとは思わない。ただ、私から離れて行くことなんてありえないと、安心させたい)


 「あなたは自覚がないだろうけど、初めて会ったあの日から、離れてからもずっと私を守ってくれていたのよ」


 椿は怜司の両頬に掌を当て、温めるように包み込んだ。


 「あなたが同じ空の下で生きている。誰かを背に庇い、時に傷を負いながら、人前ではいつも通り笑ってる。あなたの存在に、言葉に、行動に。どれほど勇気をもらって励まされてきたか、到底語り尽くせない」


 「……っ!」


 「鷹野。あなたを愛しているわ。生きていてくれてありがとう。こうして気持ちが通じ合えて幸せよ。まだ私の願いを叶えたいと思ってくれるなら、これからもあなたの隣にいたいと望んでもいい?」


 椿はありったけの愛情を込めて、ひたむきな眼差しを向けた。彼の胸にわだかまる憂いを少しでも溶かして、冷えた心に温もりを灯したかった。


 怜司は切なげに眉を寄せ、椿の手を守るように、大きな掌を重ねた。そして熱を帯びた声色で問う。


 「……本当に私でいいのですか? 後悔しても手放してあげられませんよ」


 最後の警告をしながらも、決して離さないという揺るぎない意思が瞳に宿る。怜司は辛抱強く息を詰めながら、椿の唇が紡ぐ許しを待ち焦がれていた。


 「あなたがいいの。それに、手放されたら困るわ。もう、あなたがいないとまともに息もできない。だからどこにも行かないで、ずっと側にいて」


 応えると同時に、掻き抱かれた。怜司は椿の華奢な体を痛めないよう注意を払いながら、溢れ出る愛おしさを抑えきれず、ぎゅっと腕に力を込めた。


 「椿様……っ」

 

 腕の中にいるのを確かめるように何度も名前を囁かれ、涙が溢れた。体に響く、甘く切ない声音にどうしようもなく胸が焦がれる。ありふれた名前も、彼の声で聴くと世界で一番素敵に思えた。


 椿は自分からも怜司の背中に両腕を回し、堅い胸板に顔を埋めた。彼の落ち着いた爽やかな香りが鼻腔を満たし、眩暈がするほどの幸福に包まれた。




 お互い夢中で抱き締め合った後、怜司がゆっくり体を離す。椿の横髪を丁寧に梳き、額にキスを贈る。涙で濡れた頬を親指の腹でそっと拭い、眦にも唇を寄せた。


 椿が頬を染めて俯くと、怜司は愛おしげに瞳を細める。安心させるように細い肩に手を置き、空いた手で優しく頤を掬い上げた。



 ガラス屋根から燦燦と降り注ぐ陽光の中、温室の草花に見守られながら――


 椿は長年想い続けた愛しい人と、初めて唇を重ねた。


 

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