追憶1 Side鷹野怜司
はじめて椿に会ったあの日のことを、鮮明に覚えている。
依頼を受けて訪れた一条家の屋敷。当主の執務室に現れた、可憐な少女。
視線が交わると、大きな榛色の双眸を見開き、頬を薔薇色に染めてはにかんだ。
髪も肌も日本人にしては色素が薄く、小柄で華奢で、透明感のある儚げな雰囲気を纏っていた。
性格は内気で控えめな印象だったが、少し話をしてすぐに認識を改めた。
彼女は聡明で、しなやかな芯が通った娘だった。周りの人間を慮り、優しさを注ぐことができる。決して汚れることのない、清廉な心の持ち主だった。
『鷹野、お誕生日おめでとう!』
専属ボディーガードに着任した年から、契約が終わり一条家を去るまでの七年間、椿は毎年欠かさず誕生日を祝ってくれた。
心のこもった手書きのメッセージカードにプレゼント、そして大きなホールケーキ。願いを込めてケーキのろうそくを吹き消すよう促され、そんな経験のない自分が戸惑いながらも応じると、嬉しそうに拍手してくれた。
どうして一緒に祝ってくれるのか。その理由はすぐに察しがついた。
『ご心配には及びませんよ。詳細は申し上げませんが、私に何かあって悲しむ家族はおりません。現在恋人もいませんし、今後も作るつもりはございません。どうぞご安心ください』
出会った日のやり取りを、心の片隅に留めていたのだろう。それでも、彼女の眼差しや態度に同情の色はなく、その日を温かい気持ちで過ごせるようにという純粋な思いやりで溢れていた。
人見知りではあるが、人と関わるのが嫌いなわけではない。時間がかかっても、打ち解けてしまえば豊かな表情を見せてくれるようになった。
ただ、やはり内気な面があり、大勢の招待客で賑わう社交パーティーはいつも緊張していた。会場に向かう途中は俯きがちで、拳を強く握り締めていた。
「ご気分が優れないようでしたら、無理をなさる必要はございませんよ。旦那様もそのようにおっしゃっています」
彼女の小さな拳を両手で包み込んでそっと開かせると、こちらを見上げた椿は気丈に微笑んだ。
「ありがとう。でも、大丈夫よ。私は一条家の娘としてきちんとご挨拶しなければならないわ。頑張るから、上手くできたら後で褒めてくれる? もし失敗したら、どこがダメだったのか正直に教えてね」
「おや、重要なお役目ですね。私でよいのですか?」
「ええ、あなたがいいの。でも、お父様には内緒ね? 知ったらきっとヤキモチ焼いちゃうから」
「ふふ。はい、かしこまりました」
椿はあまり自分に自信を持てない様子だったが、ひとたび人前に出れば堂々と顔を上げ、名家の娘として恥じない振る舞いをしていた。
そのために彼女がどれほど勇気を振り絞っていたか――日頃努力を重ねてきたかを知っていたからこそ、応援せずにいられなかった。
椿は学校から帰宅すると、毎日家庭教師とともに勉強や稽古事に励み、夕食の時間まで自習に勤しんでいた。
「お嬢様。あまり根を詰めますとお身体に障りますよ。お嬢様の努力家なところは大変素晴らしいですが、少し休憩を挟んではいかがですか?」
「気遣ってくれてありがとう。心配を掛けて申し訳ないけれど、あと少しきりのいいところまで終わらせておきたいの。お父様お母様だけでなく、私に期待を掛けて時間を割いてくださる先生方のためにも、人一倍努力しないといけないわ。それに……」
言葉を切り、少し躊躇いを見せた後で彼女はまっすぐこちらを見つめた。
「あなたがこうして隣で見ていてくれるでしょう? それが心強くて、頑張ろうって気持ちが湧いてくるの。あなたは口に出さないけれど、見えないところでたくさん努力しているのが伝わってくるから。負けられないと思うのよ」
気恥ずかしそうに微笑んだ椿が、再び真剣な顔つきで机に向かうのを見守りながら、胸に温もりが広がるのを感じた。
彼女の目指す先に自分の姿があることが嬉しかった。何事も前向きに取り組む彼女の姿は、とても眩しかった。
そして――
椿が中学に進学して二度目の夏季休暇。一条家の所有する海辺の別荘で過ごしていたある日、海水浴を楽しむ彼女を保護者代わりに見守っていた。その時、大きな波に飲み込まれて椿の姿が見えなくなったことがあった。
驚き、咄嗟に海に飛び込んだが、幸い彼女はすぐに海面から顔を出した。
「お嬢様! ご無事でよかったです」
「まあ、鷹野。わざわざ様子を見に来てくれたの? ありがとう。大きな波で驚いたけど、楽しかったわ」
弾けるような笑顔を浮かべる姿に、心底胸を撫で下ろした。その後一旦浜に戻って休憩することになり、砂浜を歩き始めた椿が申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。私を助けようとして、全身ずぶ濡れになってしまったわね」
「かまいませんよ。海に入ることを想定して水着を着用しておりますから」
怜司は海水に濡れて上体に張り付くラッシュガードを脱ぎ、水気を絞って再び着用した。隣で息を呑む気配がして椿の顔を見た瞬間、失態を悟った。
「失礼いたしました。見苦しいものをお見せして申し訳ございません」
一条家を訪れる前、かつて警護の任務中に負ってきた傷の数々。それを思いがけず目の当たりにした椿はショックを受けた様子で、悲痛な面持ちで尋ねた。
「……たくさん傷があるのね。今もまだ痛む?」
「いいえ、いずれも古傷ですよ。ご心配ありがとうございます。お嬢様はお優しいですね」
「鷹野は私のボディーガードだもの。心配するのは当然よ。でも……矛盾してるわね」
「矛盾? 何がでしょうか?」
「あなたに守られて安心しておきながら、あなたに傷を負わせるのが怖くて、守って欲しくないとも思うのよ。私が強ければ、自分で自分の身を守れるのに……。いざという時にあなたを守る力もなくて、歯痒いわ」
悔しそうに唇を結ぶ椿の優しさが、深く胸に沁み入った。ボディーガードとして警護対象を守るのは当然で、守れと命じられることがあっても、守らないで欲しいと――守りたいと言われたのは初めてだった。後にも先にも彼女だけだ。
「そのように大切に思っていただき光栄に存じますよ。お嬢様はご自覚がないでしょうが、存外人誑しでいらっしゃる」
「え? 人誑し? それは誉め言葉と受け取っていいの?」
「もちろん。人を虜にする才能がある、という意味ですよ」
「! それなら私より、あなたにぴったりの表現だわ。どこに行っても女性たちの注目の的だもの」
不服そうに頬を膨らませ、顔を背ける椿。その姿が愛らしく、つい、笑みが零れた。
必要な時だけ、上辺の愛想の良さで歓心を得る自分とは性質が異なり、彼女は自然と人を惹きつける魅力がある。それに自覚がないところも好ましく、微笑ましかった。こうして彼女に心を動かされた思い出を挙げれば、きりがない。
いつしか椿は、特別に守りたいと願う、唯一無二の存在になっていた。




