焦燥 Side鷹野怜司
理人を現行犯で警察に引き渡し、事情聴取を受けた後――
夕方になって一条家に帰った怜司は、急ぎ足で当主の執務室へ向かった。事件が終わってすぐに電話で事の顛末を報告したものの、詳細について直接話をする必要があった。
「旦那様、失礼いたします。鷹野です」
執務室の扉をノックして入室の許可を求めると、聞き慣れた声が応じた。部屋に踏み込んで当主と対面すると、彼はいつになく厳しい面持ちでこちらを見据えた。
「あの男は無事に逮捕されたのだな?」
「はい。現在は意識を取り戻し、警察署で取り調べを受けています。お嬢様に暴行を加えた後、私にナイフで襲い掛かった場面を多数の人が目撃しておりましたので、証言は容易く手に入りました」
「そうか。色々思うところはあるが、とりあえず一安心だな。あとは四ノ宮家がどのような対応に出るかだが、いずれにせよ手を緩めるつもりはない。引き続き情報収集を頼む」
「かしこまりました」
「では、今日はもう休みなさい。椿には妻が付き添っている。さすがに疲れただろう。また明日からよろしく頼む」
怜司は面食らった。話は終わりだと退室を促され、思わず言い募る。
「私を叱責なさらないのですか? 檜山さんの報せを受けて現場に急行しましたが、私は結局間に合わず、お嬢様の怪我を防ぐことができませんでした。こんなことになるならば、お嬢様のご意向に関わらずお側を離れるべきではなかったと悔やんでいます。何卒適切な処分を」
当主は短い沈黙の後、ふっと表情を緩めた。
「椿はもう成人しているし、一人で外出することもある。今回はイレギュラーな事件で、普段から危険に晒されている状況ではなかっただろう? 誰にも予測しえなかったのだから、君が責任を感じて思い詰める必要はない」
「しかし、私はお嬢様のボディーガードです。肝心な時にお役に立てなければ、お側にいる意味がありません」
「君は存外、融通の利かない男だな。依頼主がお咎めなしだと言っているのに、自ら罰を望むなんて物好きなことだ。檜山の連絡を受けた後、血相を変えて飛び出していった君を見て、やはり君に任せてよかったと思ったよ。君は椿のことを心から大切に思ってくれているだろう?」
「お嬢様のことは幼い頃から存じていますから。長年警護にあたっていれば、情も湧きます」
「はは。食えない男だ。普段は冷静沈着でなかなか本心を見せない君が、ああも取り乱す様を見られたのは新鮮だったよ。椿を守ってくれてありがとう。今後も良い働きを期待している」
「……身に余るお言葉でございます」
礼司は深く一礼し、執務室の扉へ向かった。怜司の後姿を眺めながら、当主がぽつりと呟く。
「そういえば、あの子が屋敷に戻ってきた日も同じようなことがあったな」
「何のお話ですか?」
怜司が足を止めて当主に向き直る。年齢相応に顔に皺の寄った当主が、眦を緩ませて言う。
「椿に君を屋敷に呼び戻したと伝えた時、すぐに居場所を確かめ、ここを飛び出して行ったんだ。あんな風に脇目も振らず走って行くあの子を見たのは初めてで、とても驚いたよ」
「!」
「君は椿にとってかけがえのない存在なんだろう。今回の件で私に報いたいと思うなら、あの子を悲しませないよう、怪我には気を付けて自分を大切にしてくれ。いいね?」
当主の言葉が胸に沁み入り、じわりと温もりが広がった。叱責を受ける心積もりで会いにきたのに、彼は再び期待をかけ、労わりの眼差しを向けてくれる。
「ご期待に応えられるよう、全身全霊で精進いたします」
畏まって告げると、当主は柔和な微笑みを返してきた。怜司は静かに退室し、まっすぐ自室に戻った。扉を閉めた後、そのまま着替えもせずベッドに雪崩れ込む。
目まぐるしい一日が終わった安堵と、遅れてきた疲労感。寝転がった状態で天井を仰ぎ、片腕で目元を隠した。思い浮かぶのは、椿のひどく焦った顔。
『鷹野、もうやめて! やり過ぎよ』
あの時、声を張り上げたのは理人を案じたからじゃない。怜司の立場を慮り、守るために警告したのだ。
結局、ナイフで襲い掛かってきた理人を正当防衛を口実に制圧し、一矢報いることに成功した。それでも心は晴れなかった。理人が椿にしてきた酷い仕打ちを考えれば、到底復讐し足りなかった。
どす黒い感情が怒りとともに胸に燻ったまま、どうにかナイフを手放した。こちらに椿が駆け寄ってきた時、理性も立場も忘れて彼女を抱き締めた。
あと一歩遅ければ、尊い存在を失っていたかもしれない。底知れない恐怖に震えていると、背中に細い腕を回してきた彼女が安心させるように言った。
『怖い思いをさせてごめんなさい。もう、大丈夫だから。あなたのおかげよ』
自ら怪我を負いながら、そんなことは微塵も介さない。ただ怜司の想いを大切に汲み取って、不安から守ろうとする。
彼女はいつもそうだ。
相手を慮り、自分のことを後回しにする。当たり前のように手を差し伸べて、笑ってくれる。それにどれほど心動かされてきたか――……
「椿様……」
不意に零れた声はあまりに甘く、切実で。笑ってしまうほど情けなく、弱り切っていた。
これまでできる限りお嬢様と呼び掛けていたのは、名前を呼ぶ度に想いが募らないようにするためだった。それがいかに無駄な抵抗だったか思い知り、自嘲する。
(彼女が好きだ)
いつからこんなどうしようもない沼に踏み込んでしまったのか、もう思い出せない。ただ、彼女との出会いの軌跡は忘れようもなく、昨日のことのように覚えていた。




