平穏
一条家に出戻って一カ月――
怜司は椿の体調を気遣いつつ、天候の良い日は積極的に外に連れ出してくれた。
はじめは屋敷に近い場所を選んでいたが、徐々に椿の気力体力が回復すると、行動範囲を広げていった。
そして爽やかな秋晴れに恵まれたある日、彼の提案で紅葉を観に行くことにした。
怜司は公共交通機関の人混みを避け、車に乗って長旅に出発した。目的地は、美しい湖と紅葉を楽しめる日本屈指の景勝地だ。
標高の高い国立公園内にある湖の周辺には、赤や黄に色付いた森林が広がっている。それが鏡のように湖面に写り込む景色は素晴らしく、毎年多くの観光客が足を運ぶという。
屋敷から二時間ほどのドライブで目的地に到着し、いざ湖を目にした椿は感嘆の声を漏らした。
「まあ、とても綺麗ね……! こんな風に四季の移ろいを楽しむなんて、いつぶりかしら?」
無意識に本音が零れ、失言に気付いた椿は焦った。
四ノ宮家にいた頃は、一日を邸内で過ごすことが多かったのだ。無用の外出は理人が機嫌を損ねるため、妻として社交に絡む仕事がある時以外、なるべく外出を控えていた。
「冗談よ。あまりに素晴らしい景色で、つい大袈裟な反応をしてしまったわ」
四ノ宮家で理人に冷遇されていたことを知られるのは嫌だった。平静を装って明るくフォローすると、怜司は深く追求せず、優しく微笑む。
「これから何度でも機会がございますよ。いつでも喜んでお供させていただきます」
「ふふ。本当? 嬉しいわ。それなら来年も一緒に観に来てね」
怜司の言葉に胸が温かくなり、素直な気持ちで願望を口に出した。けれどすぐに後悔した。
(あ……。来年はきっと父との契約が終わっているわよね? 仕事でなければこんな風に側にいてもらう理由がないのに、深く考えず調子に乗ってしまったわ)
反省した椿はすぐに訂正を試みた。
「ごめんなさい。あなたを困らせるつもりはなかったの。今のは忘れてね」
恥ずかしくて彼の顔を見ることができなかった。景色を眺めるふりをして視線を逸らすと、怜司の気配が近付く。すぐ隣に来た彼が穏やかに言う。
「何も困ってなどおりませんよ。お嬢様がお望みならば、来年もまた二人で観に来ましょう。お約束いたします」
とても優しい微笑みを向けられ、胸の奥が切なく疼いた。
(どうしてそんなに優しいの……?)
不意に泣きそうになり、後ろに手を組んで自分の指を握り締める。
「いいの? そんな風に言われたら、本気だと勘違いしてしまうわよ」
気丈に笑って取り繕うと、「もちろん本気ですよ」と彼が真摯に言う。心を許したような、柔らかい顔つきに胸が高鳴った。無意識に見入っていると、怜司が自然に手を握ってきた。
「っ鷹野?」
動揺を隠せず彼を見上げる。怜司は慈しむような眼差しでこちらを見つめた。
「この辺りは少し足の踏み場が悪いですから、エスコートさせていただきます」
「! そ、そう。ありがとう」
危うく勘違いしそうになったのが恥ずかしくて、穴があったら入りたかった。しゅうしゅうと頭から湯気が出そうになりながら唇を引き結ぶ。
幸い怜司がからかってくることはなかったが、当たり前に歩調を合わせて歩いてくれる彼の温もりに慣れるまで、相当な時間がかかった。




