嘲笑
「椿。今帰ったぞ」
「! お帰りなさいませ」
理人の言いつけ通りリビングで帰りを待っていた椿は、すぐに腰を上げて出迎えた。しかし次の瞬間、硬直する。理人の後ろから、見知らぬ若い女性が部屋に入ってきたのだ。
「あの、そちらの方は……?」
「それは後で説明する。とりあえず座って話そう」
「はい……」
理人に促され、不安を覚えながらダイニングテーブルに着席する。椿は理人の対面に座ったが、ごく自然と彼の隣に腰掛けた華やかな女性は、にやにやと喜色を浮かべていた。
「さて、単刀直入に言おう。君とは今日限り離婚する。この離婚届にサインして、明朝退去しろ」
「!?」
理人が鞄から取り出したファイルには、離婚届が収まっていた。それをペンとともに目の前に放り投げられ、言葉を失う。
「……私は何か、離婚される原因を作りましたでしょうか?」
予想外の展開に鼓動が逸ると、理人は乾いた笑みを漏らした。
「まるで心当たりがないといった顔だな。結婚後三年も寝室を別にして夫婦生活を拒否し、子を授からなかっただろう? 十分な離婚理由になるじゃないか」
「……!」
意表を突かれ、動揺する。理人の言い分はあまりに身勝手で理不尽なものだった。
「っ寝室を別にしていたことについては、私に非があると認めます。ですが、元はといえばあなたが私を拒絶したのではないですか。後継者はどうとでもなる、君を抱くつもりはないと。お忘れですか?」
「浅ましいな。君は自分の怠慢を棚に上げるのか? 抱いてほしいならその気にさせてみろと言ったが、君は一度だって努力の素振りすら見せなかったじゃないか」
「それは――」
「うるさい。口答えするな。この件で君と押し問答をする気はない。離婚は決定事項だ。理由が理由だけに、父も母も納得している。一条家と縁続きになった恩恵は十分に与った。君はもう用済みだ」
呆然と言葉を失っていると、理人は隣の女性に目を遣った。
「紹介しよう。彼女は君と結婚する前から僕の恋人だった女性だ。将来を誓い合った仲だったが、君の家に縁談を持ち掛けられて仲を引き裂かれた。だが三年待ってようやく、彼女を妻に迎えることができる」
「初めまして、泥棒猫ちゃん♡ 理人の恋人の雅です。よろしくね♡ ま、もう二度と顔を合わせることなんてないだろうけど~!」
バカにしたように笑われ、愕然とする。この時はじめて、理人に恋人がいたことを知った。たしかに彼の理想通りの、豊満な体つきの快活な美女だった。
何も言えずに言葉に詰まると、雅は心底愉快そうに侮蔑する。
「あはっ! その顔、傑作ね~! ようやく復讐できて胸がスッとしたわ。最後にどうしても一目会って聞いておきたかったのよ。三年間、夫に見向きもされず冷遇され続けた気分はどうだった〜? 健気にお仕事頑張ってたみたいだけど、ぜ~んぶ無駄な努力だったわね! ご愁傷様!」
すっと心が芯まで冷えていく。怒りよりも、虚しさが胸に湧き上がってきた。ペンを手に取り、離婚届にサインする。書き終えてすぐに理人に手渡した。
「短い間でしたが、お世話になりありがとうございました。愛する方とどうぞお幸せに」
平然とした態度で告げると、雅が面白くなさそうに眉を吊り上げた。
「はぁ? 何それ強がっちゃって可愛げない。心の中では悔しくてたまらないんでしょ? みっともなく泣き喚いて理人に追い縋ったらどうなの?」
「私から申し上げることは何もございません。お話が終わりでしたら、これで失礼いたします」
「っちょっと待ちなさいよ! 元名家のご令嬢だか知らないけどお高く止まっちゃって。そんなだから理人に愛想尽かされるのよ!」
「もういい、相手にするな。元から感情の起伏に乏しいつまらない女なんだ。構うだけ時間の無駄だ」
「でもぉ……」
恋人らしく親密な空気を醸し出し、理人に甘える雅。もう、二人と同じ部屋の空気を吸うことすら不快だった。
椿は無言で席を立ち、理人に向かって深くお辞儀する。そのまますぐに部屋を出て行き、自室の荷物をまとめた。




