朝の喫茶店は素敵な気配
「ハトさんですね……」
「ええ……本当にハトさんがマスターなのね」
11月末の日曜日。クマと私はマンションから歩いて二十分ほどのところにある、昔ながらの喫茶店に来ている。もう冬眠しなきゃいけないというのに、何故か気合と根性でねばっているクマが、冬眠前にどうしても行きたいと言った喫茶店だ。
アルファベット三文字の、大手コーヒーブランドのロゴを大きくあしらい、スイッチを入れればほんのり光るレトロで大きな白い看板。少しすすけた自動ドアに、ドアの両サイドにはベージュのレンガを積んだ小さな花壇がある。かつては真っ白だったであろう、灰色に薄汚れた外壁の、三階建ての小さなマンション。その一階にある喫茶店は、まさに『レトロ』という言葉がぴったりな外観だった。
この喫茶店は先月クマが見つけたらしい。甘い秋の気配を頼りに金木犀を探し求めて歩き回った時に、たまたま見つけたんだとか。このクマは本当に何をしているんだろうと思う反面、クマらしいなとも思う。
「行ってみたいなーと思ったんですが、その後金木犀を見つけた嬉しさですっかり忘れてました」
クマの家でもつ鍋をご馳走になり、食後にホットケーキとコーヒーをいただいていると「一緒に喫茶店に行きませんか?」と誘われた。クマが調べたところによると、『ハトの喫茶』という名前でマスターはハトらしい。ふかふかのホットケーキに夢中になっていた私は、「いいわよ」と何も考えずに返事をしてしまった。
「やったー! じゃあ日曜日の朝に呼びに行きますね!」
私はたぶんクマのこの発言に対して、「よろしくね」と言ったような気がする。うん、たぶん言った。その結果、今朝八時に玄関から大きなモーニングコールをされた。
「おはようございます! ゆり子さん、朝ご飯を食べに行きましょう!」
日曜日の朝から何言ってんだこのクマは。そう思ったのが最初の五秒間。いや、この事態の原因は私がてきとうに返事をしたからかもしれない、と思ったのがさらにその五秒後。そして、私はどうしてすぐよく考えずに返事をしてしまうのだろう、と後悔をしたのがさらに五秒後だった。
「おはよう、クマ。朝から叫んじゃ近所迷惑だからダメって言ってるでしょう。悪いけど下で二十分ほど待っててくれるかしら」
私がクマの呼びかけに応じたのは、クマからのモーニングコールをされてから、おそらく三十秒は経ったころだと思う。温かい布団に別れを告げて、私はパジャマの上にカーディガンを羽織って玄関に向かい、ドアを少しだけ開けてクマに言った。ドアの隙間から入り込む冷たい空気は、私の出かける気をごっそりと削ぎ落とした。しかし、残念なことにドアの外には、早く出かけたくてそわそわしながら足踏みするクマがいた。
「わかりました! 十五分後に出発ですね!」
クマはそれだけ言うと、くるりと後ろを向いてどすどす音を立てながら階段を降りていった。なんで勝手に五分縮めるのよ。ちょっと不満だったが、待たせている立場上何も言えない。私は大慌てで身支度を整え、軽く化粧をすると、コートを羽織り家を出た。
白っぽい冬の青空の下、冷たい風を浴びながら歩くこと二十分、私たちは喫茶店にたどり着いた。お店の醸し出す雰囲気に、少し入りにくいなと思いクマを見ると、クマも少し入りくさを感じているのか足が地面に貼り付いていた。しかし、次の瞬間冷たくて強い風が私たちを襲い、私たちは寒さに耐えられなくなり喫茶店に飛び込んだ。
「空いている席へどうぞ」
私たちが入ると、渋いバリトンボイスが店の中に心地よく響いた。声がした方を見ると、店の奥に一羽のハトがいた。ハトは『ハト』と呼ぶのははばかられる、謎の雰囲気を漂わせていた。高貴な老紳士のような、思わず敬語を使いたくなる空気をまとっている。
私たちはハトさんの案内に従い、すぐそばの二人掛けのテーブルについた。店内はコンビニよりも一回り狭いぐらいで奥に細長く、真ん中に細長い通路があり、左右に二人掛け、四人掛けのテーブルが六、七ずつ並んでいた。
お客さんは私たちの他に、パンダ、アナグマ、人間の老夫婦、若いシェパードのカップルがいた。BGMは最近のヒットソングが流れていて、若いオオカミの遠吠えがリズミカルに響いている。
テーブルも椅子も木製のしっかりした作りのもので、赤い革張りの椅子の座面は使い込まれ、味のある色になっていた。店内を見渡すと、とってもおしゃれ! というほどでもないが、おしゃれでないわけでもない。時間と共にすすけ、味わいを深めたようなレトロな調和が心地よく店の中を満たしている。
「ご注文はなににしますか?」
私とクマが店内を眺めていると、ハトさんが、てちてち音を立てて歩いて注文を取りにきてくれた。ハトさんは黒いジャケットを羽織り、丸眼鏡をかけている。おじさん、よりもおじいさんの方がしっくりくる雰囲気だ。
「おすすめはなんですか?」
何を頼むか考えていなかった私が頭の中を真っ白にしている間に、クマがメニュー表を手に取りながら、慌てることなくハトに聞いた。メニュー表はA4サイズで丁寧にラミネート加工がされていて、たくさんのメニューが並んでいる。
「日替わりのモーニングセットですね。今日はホットサンドです」
ハトさんがいい声で教えてくれたので、私とクマは迷わずホットサンドを頼み、飲み物はホットコーヒーにした。ハトが去ってからメニュー表をよく見ると、バタートーストにサンドイッチ、トーストサンドにホットドッグなど、朝食メニューがたくさんあることを知った。それから、お昼にはきつねうどんや焼きそば、生姜焼き定食にエビピラフ、ナポリタンにカツカレーなど、定食屋のようなメニューを出していることもわかった。メニューの幅が広すぎやしないだろうかと少し驚いた。
「いろんなメニューがあるのね」
「そうですね。エビピラフが少し気になります」
「そうね」
なんてことを言いながら、私たちはメニューをちゃんと見ずに注文したことを若干後悔していた。




