夏の終わりの買い物帰り
誰も悪くない、悪いのは私。
足をくじいた。お昼過ぎの薄い水彩絵の具で塗ったような空を見ながら歩いていた。もうすぐ夏が終わるなあと、弱々しく鳴く蝉の声を聞いてそんなことを考えていたら、ぐきっとやってしまった。道路に情けない声を響かせながら、重力に逆らうことなくどさりと体を道路に打ち付けた。
せっかくの有給休暇、駅前の本屋さんに行ってお料理の本を立ち読みして帰ってくるところだった。レシピサイトやアプリがあるから、今まで本なんて買わなくてもお料理はいくらでもできた。でも、こないだ実家でお料理の本を見てから、一冊ぐらい買ってもいいかなと思い見に行ったのだ。
いくつか気になる本はあった。でも、どれも決め手に欠けると言うか、これ! という本がなかったので、もう少し様子を見ることにして今日は買わずに帰ってきた。
せっかく気分良く過ごしていたのに。ちょっと……いや、かなりへこむ。
幸い血は出ていない。はいていたデニムが少し擦れただけで、服も破れていない。でも、でも、でも……
「いったぁぁぁ……!」
我慢できずに声が出た。痛い。とっても痛い。転けるのが久しぶりすぎて、こんなに痛いなんて忘れていた。そして熱い。もうすぐ夏が終わるとはいえ、アスファルトってこんなに熱いのか。
転けたことがちょっとショックで、すぐに立ち上がることができず、私は座り込んでいた。痛いし熱いしなんだか涙が出そうになってきた。しかし、流石にこんなところで泣きたくはない。涙の代わりにため息をついた。
「あの、大丈夫ですか? 立てますか?」
後ろから、いや後ろのかなり上の方から声が降ってきた。びっくりして振り返ると、きゅっと引き締まった茶色い足が見えた。その足をつたって見上げると、大きな馬が私を見下ろしていた。ツヤツヤと光沢のある毛並みをした、爽やか系イケメンの若い馬だった。
「立てますか? すみません、私は見てのとおり手をお貸しすることができないものですから……」
「そんなそんな、お気遣いいただきありがとうございます」
申し訳なさそうに話す馬を見て、私は大慌てで立ち上がり足についた砂を払った。でも、すぐに右足首に痛みを感じ、「いっ!」と叫びながらぐらりとよろけた。
ああ、また私は転けるのか。一日に二回も転けるなんてついてない、そんなことが頭によぎる。
ゆっくりと傾いていく世界、私には全てがスローモーションに見えた。視界はとってもゆっくりと動いていくのに、私の体は全く言うことを聞いてくれず、ただただ地面に着地するのを待っているようだった。
ぼふっ……
おや? 転けなかった。気づけば私は黒くて大きな手の中にいた。見上げると大きな大きなゴリラが私を見下ろしているではないか。少し白髪の混じったナイスミドルなゴリラだった。
「大丈夫ですか? 足を痛めてらっしゃるのでは?」
「あ、ありがとうございます。どうやら右足をくじいたみたいで……」
「それはいけない」
そう言ってゴリラさんは私の右足を見て、それから馬の顔を見た。ゴリラさんと馬は顔を見合わせるとこくんと頷き合った。
「お姉さん、お家はこの辺りですか?」
突然のゴリラさんの質問に戸惑いつつも、私は「はい、歩いて10分ぐらいのところです」と素直に答えた。
「ならよかった。もしよければこいつの背中に乗りませんか? お家までお送りしますよ」
ゴリラさんはぴんと立てた右手の親指をくいっとして馬を指差した。馬も爽やかな笑顔で私を見ている。なんだこの方々は、イケメンが過ぎる。
「え、そんな、いいんですか?」
「どうぞどうぞ」
私が恐縮していると馬が優しく言ってくれた。
「じゃあ、お言葉に甘えて……本当にありがとうございます」
嬉しいやら、恥ずかしいやらで私は少し困惑していた。でも、足首がかなり痛むので、この申し出はとってもありがたかった。
「じゃあ、早速乗せますね」
ゴリラさんはそう言うやいなや、「ちょっと失礼しますね」と言いながら私を後ろからひょいと抱き上げた。そして慣れた手つきですとんと馬の背中に乗せてくれた。
「乗り心地はいかがですか?」
馬がこちらに首をほんの少し曲げて具合を聞いてきた。そうか、馬は視野が広いからこれだけで後ろが見えるんだ。私はそのことに気づいて、ちょっぴり嬉しくなった。
「思っていたよりも高くてびっくりしてます。私、こんなふうに乗るの初めてで……」
私は少し緊張しながら答えた。そう、馬の背中は思っていたよりも高かった、そして少し固かった。でも、固いなと思ったことはなんだか申し訳なくて言わないでおいた。
爽やか系イケメンの馬とイケオジゴリラはご近所さんらしい。馬は今年働き始めたばかり、ゴリラさんは年金暮らし。年はかなり離れているけれど、同じアパートに住んでいてよく一緒に遊んでいるそうだ。今日は今から買い物に行って、帰りにどこかで飲むつもりだったらしい。
「すみません、遠回りをさせてしまって」
申し訳なくて謝ると、馬がブルブルと首を振った。
「とんでもない。困った時はみんなお互い様ですよ。ねえ?」
馬がゴリラさんに顔を向けると、「そうそう。いちいち気にしなくて大丈夫ですよ」と、ゴリラさんが優しい笑顔で私に言ってくれた。ああ、なんて優しいんだろう。私は胸の奥がじーんとした。
私のマンションに近づくにつれて、真っ白で綺麗な夕顔と夜顔の花が咲いているのが見えてきた。夏が来る前にクマと一緒に種を蒔いた朝顔、昼顔、夕顔、夜顔の花。秋の足音が聞こえ始めた今でも綺麗に花を咲かせている。
「あの白い花が咲いたマンションの前までお願いします」
私がそう言った時、ちょうどタイミングよく緑の大きなじょうろを持ったクマがマンションの前に出てきた。
「あ、クマだ」
私が思わずそう言うと、クマの耳がぴくぴくっと動いた。そしてこちらを見ると満面の笑みで「ゆり子さーん」と言いかけた。うん、たぶん言いかけたんだと思う。
「ゆり子さ……わー! わ! すごいすごい! かっこいいですね! ウマさんに乗ってどうしたんですか?」
まるで目の中にLEDでも仕込んでいるんじゃないかってぐらい、クマは目を輝かせて言った。
「お知り合いのようですね」
「……ええ、ご近所さんなんです」
優しい笑顔で私を見るゴリラさんを、私は直視できなかった。だって湯気が出るんじゃないかってぐらい、顔が熱くて仕方がなかったから。




