私のおふくろの味
私と母の関係に転機が訪れたのは大学に入学してすぐの頃だ。
大学からの帰り道、たまたま前を通ったアパレルショップのショーウィンドーを見た途端私はその場から動けなくなった。
一目惚れだった。
マネキンが身につけたブラウス、スカート、バック、ヒール、アクセサリー、全てが輝いて見えた。こんな風にお洒落をして出かけたいと思った。そしてそのすぐ後にぼんやりとガラスに映った自分の服装を見て絶望した。
着古したニット、どこにでもありそうなパンツ、汚れたスニーカー。私はなんてひどい格好をしているんだろう。
私は近くのATMに走った。そして子どもの頃から使うことなく貯めていたお小遣いやお年玉を下ろすと再びアパレルショップへ向かった。そしてマネキンのコーディネートをそのまま購入し、お店で着替えて家に帰った。
服を変える。ただそれだけで私には世界が変わって見えた。ああ、世界はこんなに鮮やかだったんだとその時初めて気がついた。美しい世界を見て私は決意した。これからは自分の生きたいように生きようと。
服をマネキンのコーディネート買いしたその日から私と母はよく喧嘩をするようになった。理由はとっても簡単で、私が母の言う通りにしなくなったから。
別に母の言うことを全て否定する訳ではない。でも、今まで無駄だと言われたことでもやりたいことはやるようになった。大学の部活に入り友だちと遊びに行くようになった。アルバイトをして漫画や服をたくさん買った。私は母に自分の意志を主張をするようになった。
「絶対にそれだけは認めない」
就職活動の時、私がアパレル会社に就職が決まったことを伝えると母は激怒した。
「お母さんがゆり子を何のために大学に行かせたと思っているの?」
「どうしてお母さんの言うことが聞けないの?」
「大企業に就職することがゆり子の幸せだってどうしてわからないの?」
母は何度も何度も私に怒鳴りつけた。私は黙ってそれを聞き続けた。でも私は折れなかった。折れるわけにはいかなかった。
「私の人生だから私のやりたいようにやらせて」
何度も怒鳴ってくる母に私は一言、静かに、でもはっきりと言った。母は私の言葉を聞いた途端ぴたりと動きを止めた。そして急に真顔になった。
「そう、じゃあいいわ。好きにしなさい」
さっきまでと違い母は落ち着いた声で言った。透き通るような青白い顔にはマネキンのように表情がなかった。
「ありがとう、お母さ……」
「でも、今すぐ出て行きなさい!」
私が言い切る前に母はそう言い放つと私に背を向けて奥の部屋に消えていった。
「お母さん?」
私はびっくりして追いかけようとした。でも、母はそれを許さなかった。
「出て行けって言ってるでしょう! お母さんの言うことが聞けないと言うのならこの家にいることは許しません!」
「そんな、お母……」
「出て行け!」
その後私が何を言っても「出て行け!」としか言われなかった。私は悩んだけれど自分のやりたいことを叶えるために家を出た。それっきりもう何年も実家には帰っていない。
「暗い話でごめんなさい」
話し終えた私がクマを見るとクマは鼻をずびずび鳴らしながら何故か泣きそうな顔をしていた。ちょっと感情移入のしすぎじゃないだろうか。
「ゆり子さんが謝ることはないですよ。話してくれてありがとうございました」
ずびびっ
クマは鞄からポケットティッシュを取り出すと鼻をかんだ。
「土足でプライベートなことに踏み込んでごめんなさい。でも、どうしても気になっちゃって……」
「いいのよ、気にしないで。私の恥ずかしい昔話よ」
私が残りの水を飲み干していると視線を感じた。視線の送り主であるクマを見ると何故かまだ申し訳なさそうな顔でもじもじしている。
「どうしたの? 私が話したくなったから話しただけ。もう気にしないで」
私がそう言うとクマはぶんぶん首を振った。
「違うんです。あの、もう一つ聞きたいことがあって……」
「何が聞きたいの?」
私は思わず首を傾げた。
「ゆり子さんにとっておふくろの味って何ですか?」
「おふくろの味?」
私は想定外の質問に思わず聞き返してしまった。
「はい、ゆり子さんのおふくろの味ってなにかなーと思って」
そう言うとクマは俯き肩をすくめて小さくなった。そう言えばさっきも聞かれた気がする。
「前から気になってたんです、ゆり子さんのおふくろの味。きっと美味しいんだろうなと思って。でもゆり子さん、お母さんと何かあったのかなって気になったらなかなか上手く聞けなくて……」
いつも私よりも大きなクマがどんどんどんどん縮こまっていく。
「親子丼よ」
「親子丼?」
「そう、親子丼。母が夜食によく作ってくれたの。いろんな料理を作ってくれたけど親子丼が一番嬉しかったな」
「いいですね! 親子丼!」
そう言うとクマは急に大きくなって身を乗り出してきた。
「いいなー親子丼。なんだか親子丼が食べたくなってきました」
クマは椅子に座り直すとにこにこしながら天井を見ている。きっと頭の中で親子丼を思い浮かべているんだろう。なんだかその様子がかわいくて私は思わず笑ってしまった。
「はい、おまちどおさま」
親子丼を思い浮かべているクマを見ていると三毛猫が二人分の定食を運んできてくれた。
「丁度いいタイミングかなーと思ったんだけど献立はこれでよかったかしら?」
三毛猫が天井を眺めるクマに聞いた。
「え? あ! はい! 大丈夫です! 三毛猫さんの定食大好きです!」
クマは一瞬戸惑っていたけれどすぐに満面の笑みで返事をした。にこにこしすぎて目が細くなっている。このクマは本当に素直と言うかなんと言うか……
「さっ! ゆり子さん、冷めないうちに食べましょう! 三毛猫さんの定食は白ごはんも美味しいんですよ!」
クマはそう言うと礼儀正しく両手を合わせて「いただきます」と言うとご飯を食べ始めた。
「だから褒めても何も出ないよ。でも、そうだね。もしご飯がお代わりしたくなったら声をかけてちょうだい」
そう言うと三毛猫は嬉しそうに尻尾をぴんと立てながら厨房に戻っていった。本当にかわいい店主だ。
ふと私のコップを見ると水が入っていた。いつの間に注いでくれたのだろう。全く気が付かなかった。サービスのレベルが高い。
「じゃあ私も。いただきます」
さっそく白ごはんを食べてみた。クマが言った通り甘くてすごく美味しかった。定食のお料理はどれも優しい味で五臓六腑に染み渡るのを感じた。たしかにおふくろの味だなあと思う。
おふくろの味。クマと出会わなければ考えなかっただろうな。三毛猫が出してくれたお料理はどれも美味しくておふくろの味を感じるけれど、これは私の本当のおふくろの味ではない。
私の本当のおふくろの味が作れる人。それは当たり前だけれど私の母だけ。そんなことを考えながら定食を食べていると母の作る親子丼が食べたいなとちょっぴり思った。




