第十八話 ガリ版(その2)
『スクリーン』に使う絹の『紗』が織り上がり、ついに、謄写版が完成した。
残るは印刷用のインクだ、とアキラは勢い込んだ。
これは、前々からリーゼロッテに頼んであった。
「油っこいインクだったわね」
この世界のインクといえば、ペンに付けて書くためのインクがほとんど。
日本と違い、印鑑というものは使わないし、印刷技術も未発達。なので『どろっとした』インクというものはない、とアキラは説明されており、ゆえにリーゼロッテに頼んでいたのだ。
「こんな感じかしら?」
リーゼロッテは3種類のインクを作ってくれていた。
アキラは一つ一つ確認していく。
へらでかき回してみたり、紙に擦りつけてみたりして、一度だけ見たことのある謄写版印刷用のインクと比べてみるのだ。
「うーん、この2つ目がよさそうだ」
「2つ目、ね。それは竈の煤とグリセリン、蜜蝋、それにアルコールを使ったものね」
リーゼロッテはメモを見ながら答えた。
グリセリンは乾燥防止剤、アルコールが溶剤ということになる。そこに僅かな蜜蝋を加え、定着剤としたものだ、とリーゼロッテは答えた。
「なんとなくよさそうだな」
ということで、とにかく試してみることにした。
「まず、この原紙……蝋紙をヤスリ台の上に置いて、鉄筆で文字を書く。そうすると、蝋紙の蝋が削れて穴が空くんだが、基剤は丈夫な薄葉、つまり雁皮紙なので紙の繊維が切れずに残っているわけだ」
もちろん、力を入れすぎれば雁皮紙といえど切れてしまう、とアキラは補足する。
「一方、謄写版の方には、この上枠にスクリーンを張っておく必要がある。これは原紙を保護するためのものだ」
今回の謄写版はA4サイズ用、『紗』を必要な大きさに切って固定するのだが、ハルトヴィヒは、木枠に溝を掘り、そこに角材を押し込むことで簡単にスクリーンを貼れるように作っておいてくれていた。
「そして、完成した原紙は、謄写版のスクリーンの裏側に固定する」
これで印刷準備は調った。
「印刷したい紙を、下の台の上に置く」
台に付いている位置合わせの目印に従って置くことで、ずれを防ぐのだ。
「そして枠を降ろし、インクを付けたローラーかへらでスクリーンの上をなぞる」
今回はローラーだ。
「インクの適量を見極めるのがちょっと難しいかな」
多ければ細かい文字が潰れるし、少なければ印刷が掠れる。
「その辺は俺も慣れているわけじゃないから、これからの課題だな」
そして枠を持ち上げれば、下に置いた紙に印刷されている、というわけである。
「……わあ、できてますね、アキラさん!」
「ちょっと掠れてるかな?」
「でも、こんなに簡単に印刷ができるのか……画期的だな!」
初めての印刷に、三人三様の感想が述べられた。
「まあまあだな。見てわかるように、1枚2枚なら手書きで写した方が早いけど、枚数が増えればこっちの方がずっと手間が掛からないだろう?」
「うんうん、まったくだ! アキラ、この道具を作る手伝いができたことを誇りに思うよ!」
「ハルト、ありがとう。……リーゼ、ありがとう。ミチア、ありがとう」
アキラは協力してくれた仲間に礼を言った。
「これなら、前侯爵に報告できるな!」
* * *
「ほほう、これはいい。画期的な印刷技術だな!」
その日の午後、4人揃ってフィルマン前侯爵に報告を兼ねたデモンストレーションを行った。
「原紙が弱いので、何千部何万部と刷るには不向きですが、100部程度でしたら十分実用的かと」
とアキラが言葉を添えると、前侯爵をはじめ、そこにいる全員が目を剥いた。
「何千何万部だって!? アキラ殿、そなたのいた世界では、そんなに大量の本が印刷されているのかね!?」
「ええ。ベストセラーなどと言われる本になりますと、10万部以上発行されていますね」
「そ、それは小冊子程度なのだろうな?」
「いえ、200ページから400ページくらいあります」
その数値には皆仰天した。
「400……!」
「それが10万部……」
そこへさらに追撃するアキラ。
「あ、本ではありませんが、『新聞』といいまして、このくらいの大きさの情報伝達紙なんかは1000万部印刷されてますよ。しかも毎日」
「な、なんだってえええ!?」
「ちょっと想像も付かない……印刷枚数もそうだが、そんなに紙がたくさん作られているのか?」
「そうなんですよね。安価な紙で、使い捨てられてますね」
この事実にも、前侯爵は驚いていた。
「使い捨て、だと……」
「アキラのいた世界は、驚くほど豊かだったのだな……」
「まあそうですね。でも、豊かさの代償として、いろいろ切り捨ててしまったものもありましたね」
豊かな自然環境や、ゆったりとした生活は、アキラがいた世界では物語の中にしかなかった。
そんな一幕はあったが、この『謄写版印刷』技術は、前侯爵に賞賛されて一応の区切りが付いた。
そして。
「よし、これを使って、養蚕の手引き書をまとめてみよう」
雁皮紙(薄葉)の生産体制も整ってきたし、蝋紙を作る道具もある。インクも量産可能だ。
ならばできないはずはない。
問題があるとすれば……。
「ごめん、ミチア」
ミチアの負担が減らないことだった。
というのも、アキラはこの世界の文字に不慣れである。何とか読めるが、書く方はまだまだ怪しいところがある。
話すことと聞き取ることは問題なくできているのに、である。
これは、過去にいた『異邦人』も皆そうだったらしく、その理由はいまだに謎のままであった。
そのため、筆記関係の仕事は必然的にミチアに任せることになってしまうのだ。
おまけに、ミチアは絵を描くのもうまいので、挿絵もまた彼女の独擅場であった。
「いいえ、お気になさらないでください。お役に立てて嬉しいんですから」
「前にも聞いたな、そのセリフ」
「そうでしたっけ?」
アキラはさっそく取り掛かろうと鉄筆を持ったミチアの肩に手を置いて、
「無理だけはしないでくれよ。もうミチアの代わりになれる人なんていないんだから」
「アキラさん……はい」
「これから、この国……いや、この世界に『養蚕』を広めるに当たって、君は必要不可欠な人なんだ」
アキラにそうまで言われ、ミチアは頬を染めた。
「だから、自分を大事にしてくれ」
「はい……ありがとうございます」
そこへ、リーゼロッテがやってきた。
「アキラ、インクの追加持ってきたわよ!」
「あ、ああ、ありがとう」
少し焦りながらインクの入った瓶を受け取るアキラを、リーゼロッテはじっと見て、
「ふうん?」
と、意味ありげに微笑んだ。そしてミチアに向かって、
「邪魔してごめんね」
と言うが早いか、身を翻して出て行ったのであった。
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次回更新は9月15日(土)10:00の予定です。




