第八話 無水アルコール
初夏のド・ラマーク領は『五風十雨』に近い気候だ。
5日に1度強い風が吹き、10日に1度雨が降る……農作に都合のよい気候をいう言葉である。
作物などが育つのに適した順調な天候を表しており、またこれは世の中が平穏無事であることの例えでもある。
それくらいド・ラマーク領はしのぎやすい日が続いていた。
『絹屋敷』の蚕たちは『夏蚕』となって、桑の葉をもりもり食べている。
「順調だな。今年は天候にも恵まれているから、農作物もまずまずの収穫が見込めるだろう」
領主となったアキラは、養蚕のみならず、いろいろなことに気を配らなくてはならなかった。
「わさびの収穫も増えているし、い草も倍増したからな。収入はかなり増えているよ」
執務室でミチアに手伝ってもらいながら、アキラは書類に目を通していた。
「まあ、収入が増えても環境整備に使っているから、なかなか蓄えは増えないんだよな……」
この先、災害や冷害、干害などで不作の年が来ないとも限らない。
そのために食料と『非常時用基金』の備蓄はどうしてもしておきたいアキラだった。
もちろん、ド・ラマーク領を含むリオン地方の領主であるレオナール・マレク・ド・ルミエ侯爵が援助してくれるではあろうが、それを当てにしすぎるわけにもいかない。
ド・ラマーク領が不作ということは、リオン地方も少なからず不作である可能性が高いのだから。
そういう意味で、アキラとしては『非常時用基金』を制定し、余剰予算を少しずつ積み立てているのである。
* * *
もちろん、領主にも私生活はある。
「あなた、午後は子供たちを裏山へ連れていってきますね」
「うん、気を付けてな」
「はい。タクミはこのごろ脚が丈夫になりましたから心配ありません」
「だからだよ。1人で勝手に山奥へ入っていったら迷子になる」
「そうですね、気を付けます。今回はリリアも連れていきますから」
「ああ、それがいいな」
リリアはこの春に雇い入れた侍女である。
今年15歳。栗色の髪に茶色の目で小柄。山歩きが得意で、山菜に詳しい。
山遊びのお供にはもってこいなのである。
そのリリアが言うには、
「そろそろ木苺が熟しますから、カゴを持っていって摘んできましょう」
だった。
昼食後、ミチア、タクミ、エミー、リリアの4人は『絹屋敷』の裏山へ。エミーはミチアに背負われて、だが……。
「わあい!」
「ぼっちゃま、走ると危ないですよ」
「はあい」
ちょっと意外なことに、タクミはリリアの言うことはわりあい素直に聞く。
なのでミチアはちょっと安心した。
背中のエミーは山の香を嗅いできゃっきゃとご機嫌である。
「この辺で休みましょう」
道案内も兼ねたリリアが提案した場所は少し平らになって開けており、風が吹き抜けて心地よい。
持参した水を飲み、菓子をつまむ。
程よく疲れた身体に、水分と甘味が染み渡るようだ、とミチアは感じた。
背負っていたエミーを下ろし、腕の中に抱き抱える。
「まあ」
エミーはいつの間にかはしゃぎ疲れて眠っていた。
だが、タクミはまだまだ元気。
「リリ、このへんに、いちごあるの?」
「はい、ありますよ。採りに行きますか?」
「うん!」
「わかりました。……奥様、ぼっちゃまと木苺を取りに行ってまいります。ここでお待ちいただけますか?」
「ええ、いいわ。早めに戻ってきてね?」
「はい」
ということで、リリアとタクミは木苺を摘みに行ったのだった。
残ったミチアは、梢を見上げる。
新緑の葉の間から青空が覗いている。
木々の間を吹き渡る風は心地よく、汗ばんだ身体を冷やしてくれた。
* * *
「うーん、回るには回ったけど、回転数が低いな」
王都では、ハルトヴィヒが『エンジン』の実験機を作り上げ、試運転をしていた。
実物の4分の1くらいの大きさなので、作るのも楽であった。
が、中に入れた油の粘度が高いためか、回転数が今ひとつ……いや、今三つくらい低かったのだ。
「油よりも粘度が低くて、しかも鉄を錆びさせないような液体ってないかな?」
困った時は奥方頼みである。
「あるけど……使えるかしら?」
「あるのか?」
「ええ。……『エチルアルコール』よ。純度100パーセントの」
『無水エタノール』と言われるアルコールの一種である。
ワインを蒸留してブランデーを作る技術はあるので、純度の高いアルコールを手に入れることは可能だった。
だが、100パーセントとなると……。
「魔法薬師の出番ね」
張り切るリーゼロッテだった。
「『《デハイドレーション》(dehydration)』で水分を除去すればいいわけよ」
「ああ、なるほどな!」
『《デハイドレーション》dehydration』の魔法は、以前『硫酸銅』を作る際、『希硫酸』を脱水して『濃硫酸』にしたこともあるもの。
「あとは、できるだけ混じり気のないエタノールを手に入れる必要があるわね。……それは『《ロイテルン》(läutern)』でなんとかなるでしょう」
「おお! さすがだな! さっそく頼むよ」
「わかったわ。欲しい量は?」
「まずは1リットルくらいだな」
「そうすると、安いブランデーだと40度くらいだから、3リットルくらいは欲しいわね」
「わかった」
『エンジン製作』のための予算を使い、安いブランデー5本(720ミリリットル入り)をハルトヴィヒは用意した。
それをリーゼロッテが純化し、脱水することで1.5リットル弱の無水エタノールが出来上がった。
「ありがとう! これでさっそく実験だ」
ハルトヴィヒはそれを実験用エンジンに注ぎ込んだ。
「さあ、どうかな……? 『起動』!」
ゆっくりとエンジンは回り始める。
「心なしか動作が軽い気がするな。出力を上げてみよう」
注ぎ込む魔力を増やすことでエンジンの回転数が上がっていく。
「おお、明らかに回転数が上がった! これなら……!」
油を使ったときの倍以上の回転数が得られた感じがする。
ちなみに『感じ』というのは回転音で判断している。
回転体において、100パーセント完璧なバランス取りは不可能なので、若干の振動が起きる。
その振動の周波数は回転数に比例するわけだ。
余談だが、かつて秋葉原にあった某店の店主は、モーターの音で回転数を判断できたという伝説が残っている……。
伝説の真偽はさておき、ハルトヴィヒのエンジン開発に、光が見えてきたようである。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は11月4日(土)10:00の予定です。




