第十四話 赤い風船
水素の発生、水素タンク、空気ポンプ、そしてゴム風船が完成した。
「これで観測気球ができるな」
アキラはさっそく試してみることにした。
水素は水の電気分解によって発生させる。
純水は電気を通さないが、微量の硫酸を混ぜることで通電しやすくなるのだ。
硫酸は減らないから、水のみを補給してやればいいわけである。
発生した水素は水に溶けにくいから、『水上置換法』というやり方で集められる。
これは、水中で逆さにした(底が上に来る)容器の中へ気体を集めるやり方。
水に溶けやすい気体では不可能だ。
また、どれくらい溜まったかが一目瞭然なのもメリットである。
『上方置換法』というやり方もある。
これは空気より軽い気体の集め方で、逆さにした(底が上に来る)容器の中へ溜める方法である。
水に溶けやすく、かつ空気より軽い気体の集め方である。
だがこの場合、どれだけ溜まったか、が目視できないという欠点がある。
また、空気が混じりやすいという欠点もある。
こうして集めた水素を、『水素タンク』に入れていくことになる。
小さな風船用なのでおよそ3気圧という低圧のタンク(ボンベ)である。
それを、先日完成させたポンプで風船に詰めていくわけだ。
ちなみに、安全性を考慮してこのタンクは屋外の木の下に設置してある。
万が一、水素が漏れても室内ではないので溜まってしまうことなく大気中に拡散してしまうように、だ。
* * *
ゴム風船は赤い顔料を少し混ぜたので『赤い風船』になっている。
これは気象観測用として視認性を高めるためだ。
この風船に、『ハルトポンプ』で水素を入れていくことになる。
「お、調子よく入っていくな」
自ら動作チェックをしているハルトヴィヒは満足そうに微笑んだ。
「うん、これはいいな。さすがハルトだ」
アキラも完成を喜んだ。
ハルトポンプは手動式。
現代日本で使われている自転車用のポンプと似ている。
というか、『携通』に載っていたポンプの写真を参考にしたのだが。
風船は、直径がおよそ60センチになるほどに膨らんだ。
アキラは口を縛り、糸を付けて手を放した。
すると……。
「おお、浮かんだ浮かんだ」
風船はふわふわと浮き、ゆっくりと天井まで浮かんでいったのだった。
大きさが大きさなので、浮力としてはそれほどなく、糸を手繰れば手元に戻ってくる。
「子供が喜びそうだな」
ハルトヴィヒがそう言うが、アキラは首を横に振った。
「いやいや、危ないから」
「何で?」
この状態で引火することなどないだろう、とハルトヴィヒは言う。
「まあそうなんだが、子供っていうのは何をするかわからなくてな……」
『携通』に保存してはいないが、その昔動画アップサイトで見た事故映像のことをアキラは思い出していた。
「子供が、風船をコンロにかざしたんだよ」
「えっ?」
「当然爆発する。風船程度の大きさだから大した怪我はしなかったらしいが……」
「それはちょっと怖いな……」
ほとんどが水素なので、爆発するといっても『爆鳴気』ほどではないが。
「あとは、部屋の中に風船を幾つも貯めておいた場合、少しずつ水素が漏れて天井付近に溜まる可能性があって、ちょっとしたきっかけで爆発や燃焼が起こる可能性がある」
「それも嫌だなあ」
目に見えない気体による事故は少なくない。
一酸化炭素中毒、二酸化炭素中毒はその代表的なもので、ゆえに都市ガスはわざと臭いを付けているのだから。
「他に手段があるならガスを燃焼させるのはお勧めしないな」
「うーん、わかったよ」
安易に水素風船を子供のおもちゃにはしない、とハルトヴィヒはアキラに約束したのだった。
* * *
「さて、それじゃあ試験飛行だ」
水素風船を手にしたアキラはハルトヴィヒと共に庭に立っていた。
ミチア、リーゼロッテの他にも、『絹屋敷』にいる者で手空きのものは皆出てきている。
アキラの子、タクミとエミーはミチアと手を繋いでいた。
アキラが手にした風船には、小さな紙片が括り付けられている。
『もしもこの手紙を受け取った人がいたら、どこで拾ったかを明確にし、ド・ラマーク領領主まで届けてください。お礼をいたします』
という内容だ。
とはいえ、誰かに拾われ、それが戻ってくるとは期待していない。
ただそういうことがあったらいいな、程度のことだ。
「それじゃあ、放すぞ」
アキラは宣言し、風船を手放した。
「おお!」
誰かの声が響く中、風船はゆらゆらと空へ昇っていく。
1秒間に50センチくらいの上昇速度だ。
とはいえ、高空までこの上昇速度は維持できないだろう。水素が少しずつ漏れることもあるだろうし、上空は気圧が低い(空気の密度が低い)ため風船の浮力が低下することも考えられた。
地上はほぼ無風状態だったが、上空はそうでもないらしく、風船は南東へ流れていくようになった。
「ということは北西の風が吹いているのか」
「なるほど、そういうことがわかるんだな」
アキラの呟きにハルトヴィヒが応じた。
「こういうデータを定期的に取ることで、上空の様子が少しずつわかってくるのさ」
角度と時間を記録できれば速度も計算できる……はずである。
日付、時刻、天候、気温なども同時に記録することで、何かが見えてくる可能性がある、とアキラは説明した。
「とはいえ数年程度じゃなく、数十年、百数十年と積み重ねる必要があるんだけどな」
「気の遠くなるような年月ですね……でも、それが子孫のためになるというなら、やったほうがいいですね」
「俺はそう思うよ、ミチア」
「この子たちの未来のため……」
手をつないでいるタクミとエミーの温もりを感じながら、ミチアは青空に小さくなっていく赤い風船を見つめていたのだった。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は5月20日(土)10:00の予定です。
20230513 修正
(誤)発生した水素は空気よりも軽いから、『水上置換法』というやり方で集められる。
(正)発生した水素は水に溶けにくいから、『水上置換法』というやり方で集められる。
(誤)水素は水に溶けにくいから可能だ。
(正)水に溶けやすい気体では不可能だ。
(誤)アキラの子、タクミとエミーはミチアとてをつないで。いた
(正)アキラの子、タクミとエミーはミチアと手を繋いでいた。




