第七話 初飛行
『熱気球』第1回目の試験。
天候、曇。無風。まずまずの条件だ。
「では、もう一度言う。いや、何度でも言う。……『絶対に墜落しないこと』これが目標だ」
アキラが訓示を垂れている。
今回乗り込むのはハルトヴィヒと、技術者見習いのニコラ。
ニコラは今年18歳。身長は170センチ、体重は60キロ。
ハルトヴィヒも身長178センチ、体重64キロとひょろい体形なので、2人合わせても124キロと軽い。
ハルトヴィヒ本人が乗り込んでいるのは、『熱気球』というものをより深く理解するためである。
ただし今回は地上から5メートル以上高く上がることはしない。
気球のゴンドラには丈夫な麻のロープが繋いであり、それ以上高くは昇れないようにしてあるのだ。
この世界初の熱気球なので、何が起きるか未知数である。ゆえにアキラはこうした安全措置をとったのだ。
この5メートルの範囲で上昇と下降の雰囲気を掴み、できれば推進機もテストする、それが今日の目標だった。
場所は『絹屋敷』の庭。見物人は『絹屋敷』の関係者のみ。
「一番心配なのは各部の強度不足だ。ハルト、見落としのないように頼むぞ」
「任せてくれ。そのために僕自身が乗り込んだんだから」
「それにニコラ、お前も気を付けるんだぞ? そしてハルトから学べるものは学んでこい」
「はい、アキラ様」
そんなやり取りのあと、ハルトヴィヒは『ハルトバーナー』を作動させた。
『バーナー』という名称であるが、火は出ない。温風〜熱風を吹き出す魔法道具だ。
最初はニコラと2人掛かりで抱え、くったりした『気嚢』の開口部から温風を送り込む。
なにせこの世界初の熱気球であるから、手際が悪いのも致し方ない。
『軽い』温風を吹き込まれた気嚢は次第に膨らんでくる。
「おおっ」
誰かからそんな声が漏れた。
『気嚢』はどんどん膨らみ、やがてゆっくりと浮かび始める。
「……本当に浮かんでる……」
アキラから説明を受けてはいるが、実際に目にすると信じられないのだろう、侍女のアネットが目を丸くしている。
さらに温風が吹き込まれ、『気嚢』は完全に空に浮かんだ。同時にゴンドラも上へと引っ張られる。
だが、ゴンドラはまだアンカーで地面に繋がれているので飛んでいってしまうことはない。
ハルトヴィヒとニコラは『ハルトバーナー』を一旦止め、ゴンドラ中央の支持台に取り付けた。
この支持台は円柱状の『ハルトバーナー』を納められるよう、バーナーの外形より一回り大きい内径の円筒である。それがゴンドラ床に垂直に固定されているのだ。
「そうか、バーナーをもう1つ用意して、最初に気嚢を膨らませるのはそっちにやらせればいいんだな」
早速改善点に気が付くハルトヴィヒ。
「そうすれば支持台が要らなくなる分、もう少し軽量化できますね」
ニコラが言った。
「そういうことだな」
そしてハルトヴィヒは再度『ハルトバーナー』を作動させた。
気嚢の中に温められた軽い空気が溜まっていく。
その浮力は、ついにハルトヴィヒとニコラが乗ったゴンドラをも持ち上げようとしている。
「おお、ここまでは成功だ。やったな、ハルト!」
地上で見ているアキラが褒めた。同時に見学者たちに、気球の異常を見逃さないよう周知徹底するよう指示を出す。
「気嚢の状態をよく見ておくんだぞ。少しでも裂けたりほころびたりしそうだったら声を上げるように」
アキラにとって一番の心配が強度だった。
化学繊維の強靭さを知っているだけに、天然繊維の絹がどこまで耐えられるか不安だったのだ。
* * *
生糸1デニールあたり3~4グラムの重さに耐えると『携通』にあった。
1デニールとは9000メートルで重量が1グラム。太さの単位ではない
とはいえ、蚕が吐く糸は一定の太さではない。
最初は3デニールくらい、それが3.5デニールくらいになり、吐き終わる頃には1.5デニールくらいになるという。
平均3デニールとして、蚕1匹が吐くあの極細の糸1本で10グラムくらいを支えられるわけだ。
10グラムといえば100円硬貨2枚分である。
それを撚り合わせた絹糸は14デニール・21デニール・27デニール・31デニールなどとなる(日本での規格なので必ずしもアキラたちの規格と同じではない)。
今回使った布は30デニール前後の糸を10本撚り合わせて織られた布。経糸は1000本以上。
つまり1本で1キログラムを支えられる糸が1000本使われた布は、1トンの重さに耐えられるということになる。
もちろんその重さ=力が1箇所に集中したら耐えきれなくなるわけで、それがないことを確かめるのも今回の目的である。
* * *
ハルトバーナーは温風を吐き出し続け、ついにゴンドラも地面を離れた。
「よし、アンカー解除」
アキラからの指示が飛び、ゴンドラを地面に留めていたアンカーのロープ4本が外された。
同時に、ゴンドラはゆらりと揺れながら地面から離れ続けていく。つまり浮き上がったのだ。
「お、お、お」
「やったぞ、アキラ!」
ゴンドラの中からハルトヴィヒが叫んだ。
「ああ、やったな、ハルト!」
アキラも大声で叫び返した。
その間もゴンドラは地面からどんどん離れていく。今は1メートルほど。
アキラはゴンドラのフレームにロープがしっかりと括り付けられているのを目視で確認した。
(小説やドラマだったら結び目が解けて気球がそのまま上昇し行方不明……なんて展開がありそうだが、絶対にそんなことにしてはいけない。……フラグじゃないぞ)
……と、自身に言い聞かせる。
「う、浮いた……」
「すごいわ……これが、異世界の技術……」
数少ない見学者……『絹屋敷』の使用人たちからも賛嘆の声が漏れる。
「気嚢に異常なし。バーナー停止する」
ハルトヴィヒの声が響いた。
気球はパンパンに膨らみ、ゴンドラはロープを引きずりながらゆっくりと上昇中。
今の高度は3メートルほど。
「よし、推進機のテストをするぞ」
ハルトヴィヒはそう宣言し、準備を始めた。
アキラたちは地上からそれを見守っている。
といっても3メートルほどの高度なので、手を伸ばせば届きそうな距離である。
「それじゃあ、いよいよ駆動するぞ、アキラ!」
「やってくれ、ハルト!」
ゴンドラ上のハルトヴィヒと地上のアキラは大声で呼び合い、本日最後の試験が始まる。
「推進機、駆動!」
『ハルト式推進機』が風を吐き出し始めた。
すると、ゴンドラがゆっくりと横に移動し始める。
「お、やった!」
「成功だ!」
人が歩くほどの速度しか出ないが、紛れもなく気球を自由に移動させることができたのだ。
「着陸してくれ!」
「わかった!」
気嚢上部の開口部を操作し、温められた空気を抜けば、気球はゆっくりと降下した。
こうして事故もなく、世界初の熱気球実験は成功したのである。
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次回更新は4月1日(土)10:00の予定です。
20230325 修正
(誤)最初はニコラと2人掛かりで抱え、くったりした『気嚢』の開口分から温風を送り込む。
(正)最初はニコラと2人掛かりで抱え、くったりした『気嚢』の開口部から温風を送り込む。




