第四十一話 重なる慶事
蚕の卵が孵化するには、気温が摂氏25度で10日くらいかかる。
その間、王都から来た3人の技術者たちはせっせと桑の葉を摘み、洗って冷蔵する、を繰り返していた。
蚕が好むのは若葉である。成長しきって固くなった葉は、まず食べてくれないのだ。
なので盛夏の今のうちに『晩秋蚕』の分まで若葉を採りためておく必要がある。
北の地、ド・ラマーク領の秋は早い。
盛夏の今は、葉を摘むとまた新芽が伸びてくるが、秋風が吹き始めたら、桑の若葉はもう伸びなくなってしまう。
今、摘み取って保存しておかなければ『晩秋蚕』を育てきれないわけである。
「大分採ったが、まだ必要かな?」
「重さを量りながら保存しているので、だいたいの必要量はわかっている。あと少しだ」
過去の経験により、蚕1匹あたりが食べる桑の葉の重さは25グラムくらいといわれている。
今回、ド・ラマーク領全体で1万匹の『秋蚕』を飼育するとしたら250キロの桑の葉を必要とするわけだ。
そのうち、3人が担当しているのは500匹くらいなので、彼らの担当分としては12.5キロとなる。
予備も含めて14キロが目標値であった。
「あと1キロ集めれば大丈夫よ」
紅一点でヴィクターの妻、ベルナデットが励ました。
「お、そうか。もうちょっとだな」
3人とも日に焼け、逞しくなっている。
王都にいた頃はデスクワークがほとんどで、山歩きなどしたことはなかった。
それがこちらに来た途端、桑の葉採取で山の斜面を上ったり下りたり。
さらには技術伝授ということで山のわさび田の巡回。
果ては山の樹木や薬草、草木染めの材料などを求めて山野を経巡ることに。
今では山育ちの職人たちにもなんとか付いていけるようになっていた。
「脚が丈夫になったなあ」
「力もついたし、バランスもよくなったよ」
桑の葉を一杯に詰めた籠を背負って山の斜面を平気で上り下りできるようになっていた。
「身体も健康になったわ」
「閉じこもってばかりじゃ駄目ということだよな」
そんな雑談をしながらでも息を切らすことはなくなった。心肺能力も明らかに向上している3人である。
* * *
さて、アキラの第一子誕生に沸く『絹屋敷』であったが、先程から別の理由で大騒ぎになっていた。
「リーゼ、頑張れよ!」
リーゼロッテの陣痛が始まったのである。
「お湯を沸かして!」
「きれいな布を用意して!」
「部屋の中を滅菌して! ああ、手も忘れないように!」
助産婦マリエは次から次へと指示を出す。
リーゼロッテはミチアがお産をした部屋に運ばれ、世話をされていた。
「リーゼ、リーゼ!」
ドアの前で行ったり来たりするハルトヴィヒに、少し前の己の姿を見たアキラは、やっぱりな、とは思ったものだ。
『リーゼの出産の時は俺がなだめ役をやってやるからな』と言った手前、
「ハルト、落ち着け。今すぐお産が始まるわけじゃない」
「う、うん」
「俺もそうだったが、ここでハルトが気を揉んでいてもお産が始まるわけじゃないぞ」
「わかってるよ……」
それでも部屋の中から苦しそうなリーゼロッテの声が聞こえるたびに青ざめるハルトヴィヒである。
「俺も人のことは言えないが、落ち着けってば」
「うう……僕もようやくあの時のアキラの気持ちがわかった」
「それは何より。だから落ち着け」
時刻は午後4時。
陣痛の間隔も短くなってきており、どうやら出産は近いようだ。
「リーゼ……」
「ハルト、俺達はただ、リーゼロッテと生まれてくる赤ん坊の無事を祈るだけだ」
「うん……」
とにかく落ち着かないらしいハルトヴィヒだが、アキラがそばで宥めているので、少しはましのようである。
* * *
夕食の時間も、ハルトヴィヒは何を食べたか覚えていないようだった。
アキラも覚えがあるので、特に余計なことは言わずに見守り、フォローしている。
「まだか……まさか難産なんじゃ……」
「マリエも何も言ってこないから、大丈夫だって」
「ああ、心配だ……」
自分もこうだったのかな、とアキラは心の中で苦笑した。
そして午後7時。
にわかに産室の中が慌ただしくなった。
声が行きかい、足音が響いている。
「リーゼ!」
それを察したハルトヴィヒが、ひときわ落ち着かなくなる。
「落ち着け。ハルトが焦ってもどうにもならない」
「そうは言うがな、アキラ……」
「何度目だ、このやり取り……」
そんなやり取りを繰り返していると、ついに産室に産声が響いた。
「生まれた! 生まれたよ、アキラ!」
「ああ、そのようだな」
「リーゼは? リーゼは無事か!?」
そして扉が開かれる。
「生まれました! 元気な女のお子さんです! リーゼロッテ様もご無事です!」
「ああ、リーゼ……よかった……」
ハルトヴィヒは脱力してその場に膝を付いた。
「マリエ、ありがとう……」
「いえ、これが私の役目ですから。それよりハルトヴィヒ様、あと少ししたらお子様と奥様に面会できますので、お手を洗ってきてくださいませ」
「お、あ、そうだな。ついでに着替えてこよう」
ハルトヴィヒは脱力し、膝と手を床についてしまっていた。
そこで手を洗い、服を着替え、あらためて《ザウバー》で全身を滅菌したのである。
* * *
「これが、僕の子か……リーゼ、ありがとう」
晴れて面会を許されたハルトヴィヒは、我が子を腕の中に抱いていた。
先程まで泣いていた赤ん坊は、リーゼロッテからの授乳も済み、今はすやすや眠っている。
リーゼロッテも、顔は疲れた様子ではあるが呼吸は落ち着き、誇らしげであった。
「ハル、私、頑張ったよ」
「うんうん、ありがとう」
赤ん坊をマリエに渡したハルトヴィヒは、リーゼロッテの頬を優しく撫でる。
夏の盛りの『絹屋敷』には再び春が来たかのようであった。
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次回更新は2月4日(土)10:00の予定です。
20230128 修正
(誤)蚕1匹あたりが食べる桑の葉の重さは25グラムくらといわれている。
(正)蚕1匹あたりが食べる桑の葉の重さは25グラムくらいといわれている。
(誤)そんな雑談をせずとも息を切らすこともなくなった。
(正)そんな雑談をしながらでも息を切らすことはなくなった。
(誤)リーゼロッテも、顔は疲れた会ではあるが呼吸は落ち着き、誇らしげであった。
(正)リーゼロッテも、顔は疲れた様子ではあるが呼吸は落ち着き、誇らしげであった。




