第四十話 蔦屋敷でも
アキラとミチアに、待望の第一子が誕生したという知らせは電信で『蔦屋敷』にもすぐに届いた。
「おお、それはめでたい」
知らせを聞いたフィルマン・アレオン・ド・ルミエ前侯爵は、かねてより用意していたお祝いの準備をさせた。
更にいろいろと指示を出す。
「大旦那様、お孫様がお生まれになった時のようですね」
と家宰のセヴランに言われ、
「うむ……そうだな、孫同然の子ではあるなあ」
と、目を細める前侯爵はいかにも好々爺といった顔であった。
* * *
『絹屋敷』では。
夜が明けて、晴れて母子と対面したアキラは、目を潤ませる愛妻と、この世に生を受けたばかりの我が子と対面した。
「ミチア、どんなに言葉を尽くしても、今の気持ちは伝えられそうもない。だから、この一言を贈るよ。『ありがとう』」
「はい、あなた」
先程授乳を済ませた赤子は、満足したのかすやすやと眠っている。
生まれたばかりの赤ん坊は、赤ら顔でくしゃくしゃっとしており、人間らしさが少し足りない。
が、アキラにはその小さな命がとても愛しく思えた。
「抱いてあげて下さい」
と産婆を務めたマリエに促され、そっと壊れ物を扱うようにしてアキラは我が子を腕の中に収めたのである。
「温かいな……」
眠る我が子を見て、アキラは父親になった喜びを噛み締めていたのだった。
* * *
もう少し休ませてあげてほしいということで、アキラは産室を後にした。
溜まっているはずの書類も片付けなければならない。
だが意に反して、書類は大半が片付いていたのである。
「領主様の決裁が絶対に必要なもの以外は済ませました」
領主補佐のアルフレッド・モンタンが報告した。
「そ、そうか。ご苦労さん」
元々はこのド・ラマーク領の代官を務めていたので、領内について、また書類の処理についてはアキラ以上に詳しい、いわばベテランである。
通常業務であれば、いまだにアキラよりも素早く処理できるだけの実力を持っているのであった。
「こちらの3枚は、私が判断するのはまずいと思い、保留にしてあります」
「わかった。ありがとう」
そういった書類は残してあるので、アキラが目を通し、決裁を行った。
思ったより早く仕事が終わったので、アキラは表へ出てみた。
寝不足のせいかなんとなく頭が重い。
時刻は午前9時。朝と昼の間、といった時間帯である。寝不足の目に日差しが眩しい。
「夏真っ盛りだな……」
背伸びをすると、眠気が飛んでいく。
「そうだ、次のお蚕さんの準備も教えないとな」
アキラは王都から来た技術者……ジェラルド、ヴィクター、ベルナデットらのところへ行った。
「あ、アキラ様」
「お子様のお誕生、おめでとうございます!」
「ありがとう」
彼らからの祝いの言葉もまた、アキラにとって嬉しいものであった。
「さて、それじゃあ次のお蚕さんの準備だ。それはわかっているな?」
「はい」
「うん。次は何かわかっているな?」
「はい。蚕室の掃除も終わりましたので、次は卵の準備だろうと思っています」
「うん、手順を覚えてくれたようだな。それじゃあ俺はここで見ているから、卵を用意してくれ」
「わかりました」
季節はまだ夏だが、日本では8月頃のものを『秋蚕』というので、ここでもその呼称を使う。
「『秋蚕』は基本的に君たちの自主性に任せてみようと思う」
「はい!」
『春蚕』、『夏蚕』と世話をしてきた彼ら。今回は自主的な作業をしてもらおうというわけだ。
「ええと、まずは卵を冷蔵庫から出して……」
今は、『種紙』を使わない保存も試されている。
紙に産み付けられた蚕の卵を、秋の気温くらいまで下げた部屋に入れることで休眠させる。
その後、水洗いして乾燥させ、摂氏5度から10度くらいに保った冷蔵庫で保管するのだ。
孵化率を比較し、種紙での保存とどちらがよいか検証中である。
今回は産み付けられた紙から外した卵を使うことになる。
「まずは『催青』でしたね」
「そうだったな。ええ、まずは『《ザウバー》』で滅菌する、と」
「だったわね。病気の予防になるわけだわ」
話し合いながら作業を進めていく3人。
時折、作業ノートを見返したりしながら、的確に進めていく。
やや作業速度は遅いが、慣れていないためそれは仕方がない、とアキラは彼らの作業は十分合格点だと評している。
「これで10日から2週間で孵化しますね」
「そういうことだな」
頷いたアキラは、ここで指導を行う。
「その2週間近い期間が手空きにならないように、繭づくりの時期を予想し、逆算して催青の準備を進めるのが産業としてのやり方なんだ」
5齢(終齢)幼虫が『眠』に入ったあたりで準備をすすめる、とアキラは説明した。
今回は、作業手順をきっちりと覚えてもらうため、最初から最後まで1つのサイクルを体験させていた。
「ああ、そうなんですね」
「だからこの後……『晩秋蚕』はそうやってみてほしい」
「わかりました」
3人の技術者たちは大きく頷いたのであった。
* * *
「さて、準備もできたようだが、アキラ殿にお祝いを渡すのはいつがいいかな?」
『蔦屋敷』ではフィルマン前侯爵が家宰のセヴランと相談していた。
「そうですね……大旦那様、向こう様もまだまだドタバタしているでしょうから、落ち着いてからがよいでしょう」
「ならば、祝いの通知だけ……『祝電』と言ったか? を先に送ることにしよう」
「それがようございます。早速手配致します」
「うむ、頼むぞ。……ミチアは私の戦友の忘れ形見だ。第一子の誕生は盛大に祝ってやりたい」
フィルマン・アレオン・ド・ルミエ前侯爵は嬉しそうにひとりごちたのであった。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は1月28日(土)10:00の予定です。
20230121 修正
(誤)秋の気温くらいまで下げた部屋に入れりことで休眠させる。
(正)秋の気温くらいまで下げた部屋に入れることで休眠させる。
20230122 修正
(旧)寝不足しているのでなんとなく頭が重い。
(新)寝不足のせいかなんとなく頭が重い。
(旧)時刻は午前9時。朝と昼の間、といった日差しが眩しい。
(新)時刻は午前9時。朝と昼の間、といった時間帯である。寝不足の目に日差しが眩しい。
(誤)今回は、作業手順をきっちりと覚えてもらうため、最初から最後まで1つのサイクルでを体験させていた。
(正)今回は、作業手順をきっちりと覚えてもらうため、最初から最後まで1つのサイクルを体験させていた。




