第三十九話 その刻
「ああ、落ち着かない」
ぼやきを漏らすアキラ。
昼食も、何を食べたのか覚えていない。
今も、食後のお茶をこぼしたテーブルを拭いているのだが、同じところばかりこすっている。
つまりアキラは、気もそぞろなのである。
「落ち着けよ……と言っても無駄だと思うが、落ち着けよ」
「わかってはいるよ。実行できないだけで」
「駄目だろ、それ」
部下であり友人であるハルトヴィヒが宥めるが、効果がない。
「そう言ったってなあ……」
ハルトヴィヒとの会話も半ば上の空のようだ。
「……目が離せないな……」
テーブルを拭くその布巾がカップを引っ掛けたのを見て、ハルトヴィヒは嘆いた。
* * *
執務室へ戻ったアキラを待っていたのは未処理の書類の束であった。
今日は朝から仕事が手につかず、文字を読んでも目が滑って内容が頭に入ってこないのだ。
「……駄目だな」
諦めてアキラは補佐のアルフレッド・モンタンを呼んだ。
「……というわけだ。済まないが、今日だけは代わりを頼むよ」
「承りました、アキラ様」
モンタンはほんの少し苦笑を浮かべながら頷いたのだった。
* * *
「皆さんお忙しそうですね……」
お抱え職人のレティシアも、『絹屋敷』中がドタバタしているのを感じていた。
「奥様は皆さんから慕われているんですね……」
そのドタバタが、ただ慌ただしいのではなく、当人を思う気持ちで溢れているのが感じ取れる、そんな空気が屋敷中に充満している。
「いい主従関係なんですよね……」
そんな家に雇われたことが嬉しく、誇らしい、とレティシアは感じていた。
同時に、新参者ではあるが、何かできないか、とも考える。
「自分にできること……」
自分は職人である。ガラス細工の他に、アクセサリー関連の金属加工が少々。
それを生かして何かできないかと考えるレティシア。
「『携通』でいくつもデザインを見せてもらったけど、何か参考にして作れないかしら」
考えながら工房内を行ったり来たり歩いているうち、服の裾に触れたらしく、薬品調合用の匙が床に落ちてかすかな金属音を立てた。
「あ、いけない」
落ちた匙を拾い上げたその時、アイデアが閃く。
「銀の匙……!」
デザインの参考にと、画像を見まくった際に、銀の匙を贈る意味として、生まれた赤ん坊が『食べるのに困らない』『お守り』『職人の想い』というキーワードを目にした。
その時は、アキラの世界には面白い風習があるのだなと思っただけだったが、最後の『職人の想い』という言葉が妙に心に残ったのだ。
「これなら私にも作れますね」
……ということで、さっそくレティシアは子供用の『銀の匙』制作に取り掛かったのだった。
* * *
「今日? 今夜? 生まれるらしいな」
「そうみたいね」
「アキラ様も落ち着かない様子だったからな」
王都からの技術者たちも、仕事の合間にそんな会話をしている。
彼らとしても、よい上司であり指導者であるアキラの子供には無事生まれてきてほしいのだ。
* * *
「……まだかな?」
そのアキラは、産室となっている客間の前をウロウロしていた。
「アキラ様、落ち着きなさいませ。そうなさっていらっしゃっても、お産が始まるわけではございませんよ」
侍女のマゴットがアキラに落ち着くよう忠告した。
「わかってはいるんだが、落ち着かなくてね」
「マリエさんもいますから、ご安心なさいませ」
「うん……」
「アネット、アキラ様をリビングにお連れして」
「はい。アキラ様、どうぞこちらへ」
「うん……」
周囲に気を使われるアキラである。
* * *
時刻は午後3時、ティータイム。
アキラはリビングで桑の葉茶を飲んでいた。
……が、味も何もわからない。
アネットが二言三言話し掛けても上の空である。
……と、そこへマゴットが早足でやって来た。
「アキラ様、奥様の陣痛が始まりました」
「何!」
座ってた椅子をひっくり返しながら立ち上がったアキラは産室へとすっ飛んでいった。
もちろん中には入れない。
侍女のマゴットとアネットは、助産師として付いているマリエの手伝いをするため、中へ。
「ミチア、頑張ってくれよ……」
ドアの外のアキラには、ただ願い、祈るしかできることはなかった。
それでも、時々アネットが様子を知らせてくれる。
「今は、陣痛も収まっているようです」
「また陣痛が始まりました」
「そろそろ、お子様がお生まれになるようです」
「……!……」
夕刻、夏の長い日も暮れようとする頃。
『絹屋敷』に産声が響いた。
産室の扉が開き、マリエが顔を見せ、アキラに告げる。
「おめでとうございます。お生まれになりました。元気な男のお子様です。奥様もご無事です」
「そうか……!!!」
『異邦人』であるアキラが、この世界で父親になった瞬間であった。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は1月21日(土)10:00の予定です。




