第三十七話 伝説と伝統
残酷な描写があります
『夏蚕』の『殺蛹』が始まった。
今回は、密閉した倉庫に入れ『エアコン』を暖房にして温度を上げる方法を取る。
絹糸は高温に弱いので傷まないよう摂氏60度、低湿度で4時間から6時間ほど処理する。
これにより中の蛹が乾燥して、羽化しなくなる。
繭自体も乾燥し、保存ができるようになるのだ。
そして数が溜まった時点で生糸を取り出す『糸繰り』が行われることになるというわけである。
「だけど高温にさらすと、絹の質が変わるから、いろいろと工夫されたんだよ」
摂氏110度以上は望ましくないと言われている。
が、工業的にはそうも言っていられないので、摂氏110度から120度にして短時間で前処理(殺蛹)し、その後温度を下げて繭を乾燥させる、という手法も取られる。
絹糸は蚕が出したタンパク質であるから、生物の体温以上の高温になると多少なりとも変質する。
糸繰り時に煮るのは仕方ない(結着剤であるセリシンを溶かして繭をほぐすため)が、それ以外ではできる限り常温に近い環境で処理することが望ましいのだ。
「昔はどうやっていたんですか?」
「量が少ないなら、すぐ繭を煮て生糸を取り出すこともある」
この場合、作業効率が悪いので家庭内手工業レベルである。
採取した繭をすぐに煮て生糸を取り出すことを『生繰り』と言って、最高品質の糸が採れるという。
また、伊勢神宮で『式年遷宮』に使う生糸は、こうした『生繰り』の糸を使うこともある。
つまり採算を度外視した特別な手法なのである。
「毒ガスで殺蛹したこともあったらしい」
青酸ガスを使った殺蛹方法もあるという。
「ちょっと怖いですね」
「そうだな。密閉した環境で慎重に行うとはいっても、やっぱり心配だよな」
「ええ」
「あとは日光に当てて乾燥させたり、高温蒸気で殺蛹したり」
だが、乾燥が不十分だと、中の蛹が腐ってしまったり、寄生していたウジが出てきたりする。
「まあ、そういうわけで、うちでは低温で処理し、乾燥させているんだよ」
「わかりました」
ここで技術者の紅一点、ベルナデットがアキラに質問をする。
「アキラ様、以前『ちいさこべ』のお話を伺いましたが、ああいった伝説は他にはないのですか?」
「うん? 興味があるのかい?」
「はい」
「わかった。この後、休憩時に話してあげよう」
こうした伝説・言い伝えも、蚕の歴史の一部、文化の一端である。
伝えることにやぶさかではないアキラであった。
* * *
休憩時間。
桑の葉茶を飲みながらの雑談である。
先程ベルナデットに頼まれた『伝説』を語りだすアキラ。
「俺のいた国の北の地方で、『オシラサマ』という民間信仰の神様がいてね」
北の地方、というのは岩手県遠野のこと。おしら様、お白様、とも書くようだ。
桑の木で作った1尺くらいの棒の先に、男女の顔や馬の顔を書いたり彫ったりしたものがご神体で、そこに布きれで作った服を着せて祀る。
「馬の顔、というのは蚕を一頭二頭と数えるところからくるのかもしれないし、また遠野地方では馬を大事にしているからな」
『曲り家』という独特の建築で、厩と土間がつながっている様式である。
つまり厩、土間、台所、母屋となっており、馬を大事にしていることがわかる。
「まあそんな地方なんで、馬に関する伝説も多くてね」
『遠野物語』には、娘が馬と婚姻し、それを知った父親が馬を殺しその首を切り落としたところ、娘はその馬の首に乗って昇天した、という話がある。
これがオシラサマだという。
馬を吊り下げたのが桑の木だったので、同じ桑の木で神像を作るのだそうだ。
「そのとき娘が父親に、『庭の臼の中を見たら、父を養うものがある』と言い残したんだ。そうしたら臼の中に馬のような頭を持った白い虫がいっぱい湧いていた、ということで、それがお蚕さんだったんだよ」
後半は『遠野物語拾遺』にある話である。
「まあそんなわけで、オシラサマは農業の神とか蚕の神と言われるそうだよ」
「ははあ、興味深いですね」
「伝説というのは不思議なものですね」
「また、何か聞かせてください」
そろそろ休憩時間も終わりである。
* * *
さて、レティシアは、『携通』で見せられた『切子』の伝統文様の練習に励んでいた。
伝統文様には様々な模様がある。
『携通』にも全てが載っていたわけではなく、代表的な8つのみだったが、それでもレティシアは模倣するのに苦労していた。
1つ目、『矢来』。
ハッチング……交差させた斜め線をいくつも重ねていくもの。
『矢来』とは木や竹を粗く組んだ仮囲いのことである。
これはなんとかモノにできていた。
2つ目、『六角籠目』。
3つの線で作る六角形をたくさん連ねていく紋様だ。
竹で編んだ『籠』の目に似ているからこの名がある。
これも直線の組み合わせなので、マスターできている。
3つ目、『麻の葉』。
正方形と対角線でできた紋様をいくつも連ねていくもの。
ここまでくると、溝位置が正確でないとずれてしまう。
「下絵を正確に描くことが大事ね」
これもまた、なんとかマスターしつつあるレティシア。
ここまでは、V溝に彫った直線を組み合わせていくものだったが、次からは違う。
4つ目、『七宝』。
『四方』が『七宝』になったとも、仏教用語から来たともいわれるその呼び名。
両端が尖った楕円形といえば近いだろうか。
小径の回転砥石でV溝を彫ることでできる凹みを45度傾けた十文字状に(つまりX印)繋げていくもの。
『矢来』に通じるところがあるが、こちらは直線ではなく、長楕円形の繋がりである。
これはその『小径の回転砥石』がないと難しいので、ハルトヴィヒに頼んで作ってもらっているところである。
5つ目、『菊花』。
『七宝』と同じ様に両端が尖った長楕円形を放射状に(つまり*)たくさん彫っていくもの。
長楕円形の数は16くらいはあるので、同じ大きさに、一定の角度を保って彫っていくのが難しい。
これもまた、小径の回転砥石が必要になるので保留中だ。
6つ目、『笹の葉』。
『麻の葉』以上に細く、先端の鋭いV溝を彫る。
デザイン的には、扇状に広がるように何枚も重ねるように彫っていくことになる。
タンブラーグラスのように細長い器向けといえよう。
7つ目、『亀甲』。
亀の甲羅の模様のように六角形の凹みが並ぶ。
これは球形の回転砥石で彫っていくことで六角形に見えるようになっていくが、凹みの大きさを揃えるのが難しい。
揃っていないと六角形に見えないのだ。
8つ目、『魚子』。
『魚子』とは魚卵のことで、丸いわけではないが細かな模様が連なっているのでこの呼び名がある。
滑り止めのローレットも似たような凹凸を持つ。
鈍角のV溝を彫りつつ、頂角もVになるように彫り、それを十文字に組み合わせることで、頂点が鈍角の四角錐がたくさん連なった模様ができるわけだ。
4つ目以降は専用の回転砥石が必要なので、ハルトヴィヒが鋭意製作中である……。
お読みいただきありがとうございます。
2022年の更新はこれで終わります。
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2023年の更新は1月7日(土)10:00の予定です。
20221224 修正
(誤)『矢来』とは木や竹を粗く組んだ仮囲いにことである。
(正)『矢来』とは木や竹を粗く組んだ仮囲いのことである。




