第十六話 眠と黄色、金と赤
「『眠』というのは、蚕が脱皮を行うための準備をする期間なんだ。本当に寝てるわけじゃなく、動かないだけだと思うけどな」
「なるほど、そうなんですね」
「このあと脱皮をして『2齢』になる。そうなったら、朝夕2回、桑の葉を交換し、糞掃除をするんだ。忙しくなるぞ」
「きれい好きなんですね」
女性技術者のベルナデットが感心したような声を上げた。
「そうだな。それに、病気が蔓延しないように、という意味もある」
「病気ですか?」
「そうだ」
アキラは少し前に流行った『微粒子病』について説明した。
「怖いものですね」
「そうなんだ。だから世話をする我々も気を付けないといけない」
「わかりました」
* * *
……というように、蚕の幼虫が脱皮に備えての『眠』に入った頃。
「できたぞ!」
ハルトヴィヒは『黄色いガラス』の製造に成功していた。
使ったのは絵の具用の顔料である。
「へえ、そういう方法か」
「そうなんだよ」
ハルトヴィヒは『携通』により、『硫化カドミウムCdS』がガラスを黄色に発色させることを知った。
が、この世界には『硫化カドミウム』という名の物質は知られていない。
が、知られていないだけで、おそらく存在するだろうと考えたハルトヴィヒは、これが『黄色い顔料』であることに注目。
この世界でも『油絵の具』は使われているので、その黄色はどんな物質が使われているのか調べたというわけだ。
そして、王都で広く流通している黄色の顔料が十中八九『硫化カドミウム』であるという結論になった。
そこでこれを発注し、先日手に入れ、試行錯誤していたということである。
「なかなかきれいな黄色だなあ」
「だろう?」
ところで、これは現代日本では『カドミウムイエロー』と呼ばれる顔料である。
天然には硫カドミウム鉱として産出するので、これを採取して選別後細かく粉砕して顔料に使っていた。
それはこの世界も同じ。
産出量が少ないため、極めて高価な顔料である。
「まあ、今はコスト度外視だ。これだけきれいな色ガラスなら、売れば元は取れると思う」
「それは確かにな」
「あとは、この顔料を減らしてレモンイエローができたらいいなと思っている」
「そうか。頑張ってくれよ」
「うん。これができたら、いよいよ金を使って赤に挑戦だ」
* * *
しかし、そう簡単にはいかなかった。
金属金はそのままではガラスに混ざらなかったのである。
「やっぱり王水を作らないとだめか……」
金イオンとしてガラスに混ぜるのが理想的なのだ。
それには金を溶かす液体である『王水』が必要になる。
王水は、濃塩酸3と濃硝酸1の体積比で混合してできる橙赤色の液体である。
金や白金といった貴金属をはじめ、多くの金属を溶解できる(銀やイリジウムは溶かせない)。
塩酸は、水素(H2)と塩素(Cl2)を燃焼させて塩化水素(HCl)を作り、それを水に溶かすことで得られる。
硝酸は、遥かに難しい。
『オストワルト法』という、複雑な製法を経て得られるのだ。
が、これには触媒としてプラチナが必要であるし、材料としてアンモニアNH3が必要になる。
しかし。
うまくしたもので、過去の『異邦人』にそうした化学の専門家がいたようで、本当に僅かではあるが、塩酸・硫酸・硝酸といった代表的な試薬としての酸を手に入れることができたのである。
そこでハルトヴィヒは『王水』を作って金を溶かし、金イオンを得た。
それを溶融したガラスに混ぜ、赤い色を得るわけだ。
この時の配合比によっても発色が変わるので、ハルトヴィヒは苦労して最適比を見出すため実験を繰り返していくのだった。
* * *
2齢となった蚕はもう『毛蚕』ではない。
毛虫から芋虫へと進化(?)している。
そして桑の葉を無心で食べているのだ。
そのショリショリという音が蚕室に響き出してから3日。
2齢幼虫は眠に入っていた。
「それでまた1日もすると『眠』から目覚めるから、新しい桑の葉を与えることになる」
アキラは王都からきた技術者たちに説明している。
「わかりました。しかし、手間が掛かるものですね」
アキラは頷く。
「そう。何しろ蚕は野生では生きていけない虫だからな」
「え、そうなんですか?」
「ああ、そうなんだよ」
足が弱いから一度葉から地上へ落ちでもしようものならもう戻ることはできない。
全部人間が管理、飼育しないと種の存続ができない生き物なのだ。
「その反面、絹という素晴らしい素材を提供してくれるわけだ。だから俺のところでは敬意を表して『お蚕さん』『お蚕様』と呼ぶほどだ」
「なるほど、わかる気がします」
「そうか」
アキラは一定の理解が得られてほっとしていた。
* * *
同じ頃、ハルトヴィヒはついに『赤』いガラスを作ることに成功していた。
「できた、できた!」
10センチ四方くらいの小さな板ガラスであるが、鮮やかなルビーレッドをしていた。
「これで赤、黄、青のガラスを作れるようになったわけだ」
だが、まだまだ作りたい色は多い。
ピンク、緑、紫、橙、黒、白。
「やりがいはあるな」
遠い将来、ド・ラマーク領で生産される色ガラスが、いつしか『ハルトガラス』と呼ばれるようになるのだが、今のハルトヴィヒにはそれを知る由もない。
今のハルトヴィヒは、純粋に目的を追う研究者であった。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は8月6日(土)10:00の予定です。
(誤)ハルトヴィヒは苦労して最適比を見出しすため実験を繰り返していくのだった。
(正)ハルトヴィヒは苦労して最適比を見出すため実験を繰り返していくのだった。
(誤)だから俺のところでは敬意を評して『お蚕さん』『お蚕様』と呼ぶほどだ」
(正)だから俺のところでは敬意を表して『お蚕さん』『お蚕様』と呼ぶほどだ」




