第十三話 光の春
虫の描写が少しあります
降り注ぐ日差しに眩しさが感じられるようになり、吹く風にも温もりを覚えるようになってきた。
「光の春、か」
早朝、庭を横切り、蚕室へ向かうアキラは、ふと晴れた空を見上げて呟いた。
「アキラ様、それはどういう意味ですか?」
王都から派遣された技術者の1人、ベルナデットがアキラの呟きを耳にしたようだ。
「え? ……ああ、『光の春』っていうのは、俺の故郷の表現でね。春の訪れは日差し、音、気温の順に感じられるようになると言われているんだ」
「音、というのは何ですか?」
「鳥の鳴き声や雪解け水の音だな。雪崩の音、という人もいるかな」
そして、やがては気温が上がって本格的な春になる、とアキラは説明した。
「はあ、いい言葉ですね」
「俺の祖国は、そうした気象や季節に関した言葉が沢山あるんだ」
「そうなんですね。また機会があったら教えて下さい」
「いいとも」
アキラの故郷……日本では、そうした『ことのは』(=言葉)を大事にする文化があった。
それを懐かしく思い出すアキラ。
(……うん、もう心を乱されることもなくなった……かな…………まあ、少しは?)
かつては望郷の念に身を焦がしたアキラであったが、今はもうさほどでもない。
この世界に根を下ろし、まもなく我が子が誕生する今となっては、最早『遠くにありて思ふもの』となっていたのである。
蛇足ながら『遠くにありて思ふもの』とは、室生犀星の詩『小景異情』の一節である。
さらなる蛇足を付け加えると、この詩は故郷を懐かしむ詩ではなく、帰りたくもないつらい想い出の多い故郷(金沢)は、遠く離れた都(東京)にいて時折懐かしんでいればいい、というくらいの意味らしい(作者注)。
とはいえ『ふるさとは遠きにありて思ふもの』というこの一節は、異郷にあって故郷を想う心情の描写として独り立ちしているともいえる。
閑話休題。
ベルナデットは、技術のみならず『料理』やこうした『文学』にも造詣が深く、こうした詩的表現にも興味を示したのである。
「さて、どうかな」
蚕の卵(種紙)を直射日光の当たらない、室温摂氏25度、湿度75から80パーセントの環境に置くと、およそ10日で孵化する。
「あ、なんだか少し青っぽくなっていますね?」
「うん、お蚕さんは卵の中で頭が先にできあがってくるらしい。だから頭が青く見えているんだ。これを『点青期』という」
「そのものズバリですね」
「そうだな。そして卵の中で身体が形作られてくると全体的に青くなる。それを『催青期』といって、1日か2日後には孵化するんだ」
「わかりました」
「ああ、せっかくだから他の2人にも伝えておいてくれるかな?」
「わかりました」
アキラとしては後で3人まとめて案内して説明するつもりだったのだが、偶然ベルナデットと会ってしまい、説明までしてしまったので、あとは彼女に任せてみようという気になったのだった。
* * *
「順調だったよ」
「一安心ですね」
朝食時、アキラはミチアにも蚕の卵の様子を伝えていた。
「まったくな。毎年のこととはいえ、この最初の孵化はいつも不安だよ」
冷蔵庫で年を越した卵の孵化には、いつも不安がつきまとう。
その後の飼育に関しては、産み付けられた卵をすぐに孵化させてしまうので、こうした不安はほとんどない。
「今年も、あと数日で忙しい時期が始まりますね」
「そうだな」
蚕が孵化すれば、その世話で忙しくなる。
それは秋が深くなるまで続くのだ。
「領地のためにも頑張らなくちゃな」
「ええ、あなた」
「ああ、ミチアは無理しなくていいからな」
「はい。私はいい子を産むために頑張ります」
「ほどほどにな」
そしてアキラたちは執務を開始する。
小さな領地とはいえ、書類仕事はそれなりにあるのだ。
最も多いのは税務関連。こちらは領主補佐のアルフレッド・モンタンが担当してくれており、アキラは承認するだけ。
この承認も、サインから押印に変わりつつあるので、少しずつアキラの負担は軽くなりつつあった。
「この『印鑑』という事務用品はいいですね」
王都から来た技術者の1人、ヴィクターが言った。
「この赤いインク台はなんなんですか?」
朱肉を見たヴィクターからの質問である。
「これは『朱肉』といって、印鑑専用のものだよ」
「朱肉、ですか。朱は色だとわかりますが、肉ですか?」
「まあそう呼び慣らしているからと思ってくれ」
「わかりました。……しかし、きれいな色ですね」
「だろう? 人工物なんだよ」
「作った色なんですね」
ジェラルドが驚いた顔をした。
「そうさ、朱というのは……」
『朱』は、色彩学的には黄色みを帯びた明るい鮮やかな赤、といえる。
その色素は、古くは硫化水銀。天然に産するそれを『辰砂』と言った。
また『丹』とも呼ばれ、『丹生』のようにこの字を冠する地名も多い。
そのような土地では辰砂、別名『丹砂』が採れたようだ。
ちなみに、わずかとはいえこの『朱』を焼却すると有害な水銀蒸気が発生する可能性がある。
そのため近年では鉄、モリブデン、アンチモン等の化合物に置き換わってきているという。
もちろん、この『朱』はリーゼロッテの苦労の賜物だ。
30回を超す試行錯誤の結果、今の『朱』となったのである。
使っているのは水銀ではなく鉄。
いわゆる『弁柄』である。
弁柄はまた『紅殻』とも書かれたりする、古くからある顔料だ。
その主成分は酸化鉄、Fe2O3。
その他に微量なアルミニウムやケイ素、硫黄などが含まれ、鮮やかな朱色を呈するようになる。
また、顔料粒子が小さいほど赤みが増し、逆に粒子が大きいと黒っぽくなるようだ。
「……わかったかな?」
「正直、半分もわかりませんでした」
「はは、まだ『科学』についての十分な基礎知識がないからな。それについてはじっくりと学んでいってほしい」
「わかりました!」
あらためて、ここで学ぶべきことは多い、と認識し直した技術者たちであった。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は7月16日(土)10:00の予定です。
20220709 修正
(誤)この承認も、サインから押印に変わりつつあるので、少しずつアキラの負担は軽くなりつつ会った。
(正)この承認も、サインから押印に変わりつつあるので、少しずつアキラの負担は軽くなりつつあった。




